文化祭当日。いつもの学校は、いつもの学校ではなくなる。
クラスの出し物は結構人気だった。ディスコなんて初めはどうかと思っていたけど、来てくれた人達が楽しそうにしてくれていたから、やっぱり正解だったんだろう。
表で案内係をしてほしいと頼まれたけど、何とか断って、私は裏方に徹していた。あかりちゃんは「メガネの女の子は萌えなんだってはるひちゃんが教えてくれたのに」なんて残念がっていたけど、
私はやっぱりこっちの方が落ち着くみたい。(ところでモエって何の事だろうか)
(……もうこんな時間だ)
腕時計をちらりと見る。もうそろそろ終盤、終わりに向けてといった時間帯だ。
今日、朝からずっと気になっていたのは、クラスの出し物でもなく、クリスくんのいる美術部の出展でもなかった。
行かない。行かない方がいい。でも、ずっと気になっていること。
――来てほしい、お前に。
ハリーは、私を真っ直ぐに見る。そしてその言葉はいつも本気で真剣で、私は目を逸らす事も出来ずに立ち竦むだけだ。
(……やめておこう)
行けば、行ってしまったら、きっと。
もう、何も考えたくない。私は変われたはずなのに、どうしてまたこんな不安な思いをしなきゃならないんだろう。
かけられる言葉も、表情も、何もかもが私を不安定にさせる。足もとが、グラつく。
「……詩穂ちゃん」
そっと腕に触れる体温に振り向くと、そこにはあかりちゃんがいた。覗き込むようにして私を見るあかりちゃんは、心配そうな表情をしている。
「大丈夫?疲れたんだったら、休憩してきていいよ?詩穂ちゃん、全然他のところ回ってないでしょ」
「……ごめん、大丈夫。何でもないよ」
「そういえば知ってた?ハリーってばゲリラライブするんだって。楽しそうだったけど、大丈夫なのかなぁ……」
「………そう、なんだ」
「丁度、始まってるころじゃないかな。志波くんがちょっと覗きに行くって言ってたし、私も後で行こうかなぁって…」
「ねぇ、そういえば、ゴミ結構あったよね?私、捨ててくる」
「え、今から?あ、待って、詩穂ちゃん!」
何となく話の先が見えてしまって、私は先手を打ってゴミ袋を掴んで教室を出た。もし一緒に、なんて話になったら、それこそ断れなくなってしまう。
指定のごみ捨て場はお客さんの目の付かない所だから、いつもの所と少し違う。何となく校舎内を見渡せば、人はいるものの、一時の混雑を思えば少なかった。
(………これ捨てたら、美術室行こうかな…)
クラスの出し物に忙しいこともあって、私は何となく美術部の方へは行きそびれていた。絵はもう見せてもらったし、それとあとは、やっぱり行き辛かったのだ。
何となく、後ろめたい気がして。
実際、私は今でもクリスくんにハリーの事を言えずにいる。秘密を、持ってしまっている。言えない事があったっておかしくないかもしれない。でもこんな事黙ってるなんてやっぱりおかしい。
私たち、「付き合っている」のに。
それだけじゃない。前にハリーに失恋した(と思っていた、というのが正しいだろうか)話だって、相手がハリーだとは言えずじまいだ。クリスくんはそんな事聞かない。
傍にいてくれたらいい、それだけを笑って言ってくれた。その優しさに、私はずっと甘えている。
そうだ、やっぱり美術室に行こう。それでクリスくんと会って、そのまま帰ってしまおう。
私が、ハリーのライブに行く理由なんてないんだから。それに、こんな時間でもう終わってるかもしれないし。ハリーに会えば、クラスの出し物が忙しかったと言えばいい。
校舎の裏側を通って、体育館裏の方へ歩く。そういえば、体育館の方はもう終わったんだろうか、あまり物音がしない。
けれど、風に乗って流れてきた音――正確には音楽、に、私の足は止まった。
(………これ)
思わず、手にしていたゴミ袋を取り落としそうになって、手に力を込める。いや、そんな事より足が動かない。一歩も前に行かない。
(どうして)
どうしてわかってしまうんだろう。ほんの少し、掠めるように聞こえただけなのに。
アレンジも変わってる。けれど、イントロのメロディは、絶対に間違いない。あれだけは聞き間違えたりなんてしない。
だって、何度も歌ったんだもの。
―――お前、良い声してんじゃん。
不意に、閉じ込めていた記憶が甦る。屋上から見た夕焼けとか、乾いた風とか、そう丁度、今みたいな。
そしてあの、何度も歌ったメロディ。
(なんで)
一度捉えてしまった音は、もう聞こえないフリをすることは出来ない。微かだけれど、確実に、沁み入るみたいに体に届く音。
ある意味、言葉よりも笑顔よりも、簡単に私を捕えてしまうもの。
とにかく、ゴミは捨てなきゃならない。まさか、これを持ったまま引き返すなんて出来ない。
ライブは出展の終わった体育館でやっているんだろう。さっさと通り過ぎてしまえばいいだけの話だ。ただの、通り道なんだから。
でも、そんな事、本当に出来るの?
気付けば、私はゆっくり、けれど確実にそこに近付いていた。(ゴミはちゃんと捨てた)まるで引力に引っ張られるみたいに、逆らえない。
だんだんと大きく聞こえてくる音、声。
演奏、というよりも、私には歌しか聞こえなかった。大好きだった歌。大好きだった、声。
「…っ」
涙があふれて、止まらなくてどうしようもなかった。
嬉し涙なんて、そんなものじゃない。かと言って悲しいというわけでもない。
ハリーがあの歌を、ここで歌うその意味くらい、私にだってわかる。わかるから、余計に嫌だった。
嫌で、悔しくて、許せなくて。それが、ハリーになのか自分になのかはわからないけれど。
でも、そんな感情が全部どうでもいいものになるくらい、私は。
やっぱり、ここには来ない方が良かった。
それでも、その歌が終わるまで、私は動けなかった。ずっと、歌う彼を見ていた。
Ariettes oubiees