「……わぁ、すごい」
かなり大きなサイズのカンバスを前に、私はため息をついた。
今年の文化祭で、美術部は油絵を中心に出展するらしい。クリスくんの描いたものもそうだったけれど、色合いは優しくてまるで水彩画みたいに柔らかだった。
そんな事言って、私は別に美術に詳しいわけではないけれど。それでも、こうしてクリスくんの描いたものや創ったものを見るのは好きだ。
………それにしても。
「ねぇ、やっぱり、この絵を文化祭の時に出すんだよね?」
「うん。だって、僕の最近のお気に入りやもん」
「……そ、っか、そうよね」
「何かモンダイ?」
「え?ううん。そういうわけじゃなくて。私がどうこう言えるものじゃないっていうのはわかってる、んだけど」
そう言いながら、私はもう一度カンバスを見る。そこに描かれているもの。遠くを見る女の人。
………というか、私だ。当然と言えば当然だ。だって、私がモデルになって描かれた絵なのだから。
そりゃあ、写真とは違うし、何となくぼかされている部分もあってはっきりと私とわかるわけじゃないけど…、でも見る人が見ればやっぱり私だとわかるかもしれない。
「もっとキレイに描いてほしかった?」
「違う!そうじゃなくて…むしろ逆だよ。私、こんな…こんな風に綺麗には笑わないと思う、んだけど」
絵の中の私は、遠くを見て微かに微笑んでいる。それは、例えばあかりちゃんみたいなふんわりしたかわいい雰囲気とは少し違う。
本当に綺麗で、惹きつけられる。凛とした、むしろ強ささえ感じられるもの。
モデルをしている時に「笑って」と注文されたことは一度もない。ただ、姿勢よくじっと座っているだけだ。だから、特別意識して笑った記憶もない。
ふわりと、体があたたかなものに包まれる。それは、私の知っている、どこかで予想さえしていた安心できる体温だ。
肩口や頬に、彼の金色の髪がさらさらと触れる。羽みたいに触れるそれは、何だかくすぐったい。
「……ここ、部室だよ?」
「ええもん、別に。誰もいてへんし。それに、この絵かって、ボクが見たまんま描いたからこれでエエの」
「でも」
「ボクが見た詩穂ちゃんはこのまんま。いっつもキレイ」
「なんか、色々と恥ずかしいんだけど……」
今に始まったわけじゃないけれど、こればっかりはどうも慣れない。もちろん、嬉しいのだけれど。
「………けど、ホンモノには敵わへんよ」
「……クリスくん?」
「どんなに絵に描いたって、ホンモノの詩穂ちゃんが一番やもん」
まわされている腕に少しだけ力が籠もる。まるで乞われるような響きに、どうしていいかわからない。
「……どうしたの?クリスくん」
「笑ってくれるのが、一番やって思ってる」
そう言って、クリスくんは笑った。まるで、ため息のように。
「……でも、何でかな。時々、怖くなる」
「ク…」
「遠いところに、…ボク以外の人のところに行ってしまいそうな気ぃして」
ぎくりと、体が強張った。動けないのは、抱きしめられているだけじゃない。
耳の奥に、あの時のハリーの声が聞こえた。私の目を真っ直ぐに見て、言われた言葉。
ハリーに好きだと言われたこと、私は誰にも言っていない。誰にも、話すつもりもない。
「………大丈夫だよ」
「…詩穂ちゃん?」
廻されたクリスくんの腕を、私はぎゅっと掴んだ。そうでないと、忘れてしまいそうだった。私がここにいるということ。
この、優しい人の傍にいるということ。
「私は、どこにも行ったりしないよ」
「うん」
「ここにいるよ、だから、大丈夫」
「………うん」
大丈夫、と言いながら、私も不安になる。自分の心なのに、私にはどうにもならなくなるような気がして、それがこわい。
どうしようもないのだとハリーは言っていた。
そんなの勝手だと思う。好きじゃないって言ったり、好き、と言ったり。どうしようもないだなんて簡単に言うけれど、本当にハリーは勝手だ。
でも、私は腹を立てるどころか、動揺して、揺れている。それが一番嫌で、怖かった。心のどこかで、ハリーの言っている事はわかってしまう気がした。
(でも……ダメだよ)
こんなに優しい人を、私は裏切ったりなんて出来ない。ずっと私を見ていてくれた人。
私を、変えてくれた人。
だから、ここから動いたりなんてしない。
Le brouillards