「俺、お前の事が好きだ」


それは、一度も、夢にすら見たことがないと言えば嘘になる。むしろほんの少し前まで、私はその言葉をずっと夢見ていた。言われたかったし、言いたかった言葉だった。
彼の瞳はとても真剣で、真っ直ぐで、けれどそのせいで、私にはまるきり現実味が感じられない。


(………違う)


違う。そうじゃなくて。


これは、間違いなく現実の話で。私の都合のいい夢や想像の話ではなくて。じわじわと、沁み込むように体に馴染む事実は、ゆっくりと、けれど確実に私の心を揺さぶった。
足に、力が入らない。気を抜いたらそのまま座り込んでしまいそうだ。口唇が乾いて、カサカサする。


「…………あ、の。わたし」


つい後ろに引いた足が、隣の席の机に当たり、ガタン、とやたらと音を響かせる。それは、一層この部屋の静けさを強調するだけだった。
ハリーは、真っ直ぐに、静かな眼差しで私から視線を外さない。私は完全に迫力に負けてしまって(威圧なんて少しも感じさせない視線にも関わらず)、目を離せない。
何も言えないままの私に、ハリーはふと笑った。笑う、というよりは、笑う形に顔を無理やり歪めた、と言った方が正しいかもしれない。


「………わかってた、つもりだったんだけど。やっぱ凹むな、そういう顔されっと」
「……ハリー、私」
「わかってる。お前は、今クリスと付き合ってる。でもって俺はお前を傷付けて、それにも気付けなかったバカだよ」
「え…」


一瞬、あの冬の日の記憶が頭に浮かぶ。思い出したくもない哀しい記憶。
でも、あれは。知っているわけがない、だってハリーは。


「出来ることならあん時の俺を殴ってでも止めたいトコだけど、そんなん出来るわけねぇし。…嫌われても仕方ねぇ、だから、ホントは俺がお前に出来る事は出来るだけお前には関わらないことなんだろうけど」


耳が痛い。痛いくらい静かなところに、ハリーの声が凛と響く。この人は、話している時でさえ音楽的な声だ。


「だけど、無理だ。どうひっくり返っても俺はお前が好きなんだよ」


その、音楽的な声で、私の事を好きだと何度も言う。それは、いつだったか夢見た響き。
けれど、私は首を横に振った。私の隣にはクリスくんがいる。いつも私を慰めてくれて、そして変えてくれた優しいひと。


「私……私には、クリスくんが」
「わかってる」
「……なら、それなら………っ」
「それなら、俺の事、嫌いだって言ってくれ」
「……え?」


聞こえてきた単語に、耳を疑った。真面目な顔して、この人はすごくおかしな事を言ってる。
きらい?私が、ハリーを?


「……どうして、そんな事」
「そう言われれば、いくら俺でも諦めがつく、……はずだ。自信ねぇけど」
「あき、らめ……」
「ま、まぁ、今すぐどうこうしてくれとは言わねぇよ!……返事、待ってる」


そう言って、ハリーは視線を窓に移して「……もう夕方だな」と呟いた。言われて見上げてみれば、きれいな橙色の空にはほんの少し夜の蒼が混じりつつあった。
少し前、ハリーと屋上でよく話した頃、あの頃もこんな空をよく見た気がする。ただ話せる事が嬉しくて、満たされた気持ちで見上げた空。
今の私は、あの頃私が夢見た私に違いないのに。
「お前も、あんま遅くなるなよ」と言って先に教室を出たハリーを見送って、私はまだ教室から動けずにいた。足が、床に貼り付いたみたいに動かない。


『俺、お前の事が好きだ』


(…………わたし、どうして)


今頃になって、心臓がどくどくと早鐘のように打つ。何だか、力が入らなくて、私はその場にしゃがみこんだ。
顔が熱い。おかしい。自分なのに、まるで自分の体じゃないみたいにどうにもならない。何故だか不安で、どうしようもなかった。


(どうして、ちゃんと断れなかったの)


だって、こんなの今更だ。
私は確かにハリーが好きだったけれど、けれどそれはもう「過去」の事だ。
それに、ずっと嫌われていたんだと思ってた。それでも時間が経って、少しずつ向き合えればいいと思ってた。


向き合えると思えたのは、クリスくんが居てくれたからだ。彼が私の傍に居てくれたから。
だから、いつか。


(――――!)


そこまで考えて、私はふと思考を止めた。やっぱり今はやめよう。こんな状態で考えたってうまくまとまるはずがない。
そもそも、考える必要なんてないはずだ。答えはもう決まっているのだから。





だから、こんなにも揺れているのは驚いているだけに決まってる。









Je tremble