「はい、それじゃあ、皆さん。また明日」
どこかのんびりとした若王子先生の帰りの一言を言い終わるのと同時に、教室の空気は賑やかに揺れる。帰宅部である私は、特に放課後学校に用はない。誰かと帰る約束もないから、さっさと鞄を取り出して帰り支度を始めた。
何気なくあかりちゃんの方を見たけれど、彼女も少し慌てたように教科書やらノートやらを鞄に詰め込んでる。その様子を見て、そういえば今日はあかりちゃんのバイトの日だったと思いだした。
何のバイトかは知らないけれど、彼女は週に二日、アルバイトに行っている。一度、どこでバイトしているか聞いたことがあったのだけど、その時の物凄く困ったあかりちゃんの顔は今でもよく憶えてる。「話せなくてごめんね」と余りにも困りきった顔を見ていると何だかこっちが申し訳なくなって、それ以来聞いたことはない。
ただ仕事はウエイトレスらしく、同じバイト仲間が厳しくて大変なんだそうだ。私は勝手にちょっと年上の女の人かな、なんて想像して、苛められてなきゃいいけどと少し心配してる。だって、バイトの次の日はいつもほんのちょっぴり元気がないから。
「詩穂ちゃん、まっすぐお家に帰るの?」
鞄を持ったあかりちゃんが近寄ってくる。その言葉が途中まで一緒に行こうという意味なのはわかっていて、そしてそれは嬉しいのだけれど私はふるふると首を振った。私だって一緒に帰りたいけれど、さすがに今すぐ学校を出られる状態じゃなくて、急いでいる彼女を待たせるのは悪い気がしたのだ。
「ううん、先に行って。遅れたりしたら怒られるでしょう?ちょっと、寄りたいところ、あるし」
「…そっか、わかった。じゃあ、また一緒に帰ろうね!」
ケーキ食べに行こう!と手を振りながらあかりちゃんが教室を出て行くのを見送って、腕を前に押し出して少し伸びをする。体を伸ばすって、本当はあまり好きじゃないけれど。そのまま骨も伸びて背が伸びそうな気がするから。
私は、身長は高い方だ。170はない、けれど、そのうちそれ位になっちゃうんじゃないかっていつもビクビクしてる。大体綺麗でも、スタイルがいいわけでもないのに、無駄に背が高いのなんて本当に嫌だ。だから、いつも肩をすぼめてなるべく小さく見えるようにと思っている。牛乳だって、本当は好きな方だけれど絶対飲まないし、あとは小魚とか、カルシウムが含まれていそうなものはなるべく口にしない。お母さんは好き嫌いするなって怒るけれど。
それでも、腕を伸ばしたらやっぱり体が少し解き放たれたような感じになって、ふうっと息を吐く。教室内はもう人が少なくなっていて閑散としていた。窓の外からは、クラブ活動をがんばる子達の声が波みたいにざわざわと聞こえてくる。空は、やっぱり柔らかな水色。
(今日はお天気良いな…)
何となく、まっすぐ帰るのは勿体なくなった。そして、ふとある場所が思い浮かんで、私は鞄を持って立ち上がる。向かったのは、中庭。割とお気に入りな場所の一つだ。あそこの花壇はいつもきちんと手入れされていて見ていて楽しいし、何より人があまりいない。前に一度、木陰で昼寝している志波くんに気付かず、足を引っ掛けてつまづいた時は死ぬほど驚いたけれど(そして彼は気付かず眠りこけたままだったけれど)、まぁ今の時間なら志波くんも野球部だから昼寝はしていないだろう。
「わぁ…、咲いてる咲いてる」
花壇は予想通り、色とりどりの花でいっぱいだった。さすがの私も、思わず口元に笑みが浮かぶ。ふんわりしたピンクやくっきりとした黄色、鮮やかな赤色の花びら。柔らかな緑色の健康そうな茎や葉っぱ。大事にされているお花は、おかしな表現だけど「健康そう」って感じがする。花の匂いはそんなにしないけれど、それでも大きく息を吸い込めば、甘いような、けれど青っぽいよう匂いが体に充満するみたい。
もう少しじっくり見たくなって、花壇の傍にしゃがみこもうとした時、ふと頭の上が何かで遮られて視界が陰った。何なのか確認する間もなく、それは私の頭上にばさりと落ちる。
「うわっ、な、何!?ゴミ!?虫!?」
慌てて払うと、落ちてきたのは一枚の紙。紙、といっても課題プリントのような薄いのじゃなく、もう少ししっかりした画用紙のようなものだ。足もとに落ちたそれを拾ってみると、それには絵が描いてあった。
「…わ、ぁ…」
私は、正直絵の事なんて全然わからない。けれど、その絵はそれ自体に引力があるかのように私の目を惹きつける。よくわからないけど、ずっと、じっと見てしまう。
ぼんやりそれを見ていると、周りにもふわふわと何枚か同じような画用紙が降ってくる。そのどれにも、やっぱり絵が描いてあった。鉛筆(みたいなの)でデッサンされたものや、水彩画、あとは、何かよくわからないけど「アートっぽい」感じのものとか。
もしかして、どこかのクラスの美術の課題とかかな、なんて思っていると頭上から「お〜〜い」と声が聞こえた。聞こえたけれど気にせず絵を眺めていると、もう一度上から声が降ってくる。
「そこのキミ〜〜!その絵、拾ってくれたキミ〜〜!!」
その言葉で、呼ばれているのは私なんだと気付いて声がした方を見上げる。風が吹いて、見上げた顔に吹かれた髪がかかって鬱陶しい。
見上げた先には、同じように長い、けれど私とは全然いろの違う金色の髪をなびかせてこっちを見下ろしている男の子がいた。
その人が誰か、ということより、きらきら光る金色がとても綺麗で、私は何にも言えずにただ彼を見上げる。
彼は何だかのんびりした口調で「拾ってくれておおきに〜〜」と手を振ってる。おおきに…って、関西弁?
「ちょお待っといて〜〜、ボク。今そっちに降りるから〜!!」
それから彼が見えなくなっても、私はまだしばらくぼーっとしてた。きんいろの髪。でも、関西弁。そして、手元にある数枚の画用紙。何だかどれもさっぱり繋がらなくて、変な夢でも見てるみたいな気分だ。
ほどなくして「ごめんな〜」という声と共に、彼は近づいてきた。背は私より高くて、見た目はまんまガイコクジンだ。けれども彼は流れるようなきれいな日本語――関西弁みたいな言葉で私に話しかけてくる。
「いやぁ〜、屋上でスケッチしてたら夢中になってしもて…びっくりしたやろ?ごめんな、詩穂ちゃん」
「……え?」
でも、詩穂ちゃんが拾ってくれて助かったわ〜とにこにこしている彼とは対照的に、私の顔は間の抜けた顔になる。今、この人何て言った?
「いま…詩穂ちゃん、て」
「え?詩穂ちゃんやろ?」
きょとんとした表情で見返す彼に、私はますます慌てる。
「いえっ…そうですけど!じゃなくてどうして私の名前知ってるんですか?」
「いややわ〜敬語なんて。ボクらおんなじ学年やん?そやから名前かて知ってるって」
「な、何それ意味わかんない…!」
同じ学年だからって、理由になるんだろうか。少なくとも私は同じ学年だからって口もきいたこと無い男の子の名前なんか憶えていない。
今、目の前にいる、彼の名前だって。
「あの…あなた、一体…」
誰なの?と聞こうとした一瞬前に、見た感じ(だけ)は王子様みたいな彼は、何か思いついたみたいにぽんと手を打って私ににっこりと笑いかける。
「そうや、折角やから詩穂ちゃん、ボクの絵のモデルしてくれへんかな?」
再び風がざあっと吹いて、そしてそれが止むまで、たっぷり10秒くらいあったと思うけれど、私はその間、彼の顔を見たままぽかんと口を開けていた。
そして、それから。
「えええっ!?」
たぶん、人生でも数えるくらいしかない大声を、私は出していた、それも、ものすごく間抜けな感じのを。
cheveux de lin