「あれ?どうしたの、詩穂ちゃん、疲れちゃった?」
お風呂から上がってきたばっかりなのに、と、あかりちゃんが心配そうな顔をして覗きこんでくる。
ここは、京都。私達は修学旅行に来ている。日程はもう後半で、あとは明日の自由行動を残すのみだ。
ここの旅館の自慢の一つである大浴場(確かに広くて気持ち良かった)から部屋へ帰るまでの道、確かに私は何だか体の様子がおかしいと自覚はあった。
何だか目の前がグラグラして、熱いのか寒いのかよく分からないような、変な感じだ。
「うん…少し、ね。もしかしたらのぼせちゃったかなぁ」
「えっ、大丈夫?どっか座る?結構、ハードスケジュールだったし……あ、あそこ、座れるよ!少し休憩してから戻ろう?」
あかりちゃんに引っ張られて座ったソファは、ただの備え付けの割には立派で、ふかふかとした座り心地が気持ちいい。
少しここで座っていれば楽になるかもしれない。でも、そうするとあかりちゃんに付いていてもらわないといけないのが何だか申し訳なかった。
「……あかりちゃん、先に戻ってて?私、もう少しここで座ってから行くから」
「ううん、私もここにいるよ?」
「……大丈夫だから。だから、行って?ちゃんと一人でも戻れるし、ね、帰ってて?」
「詩穂ちゃん……わかった、じゃあ、荷物、持っていってあげる。…先に行ってるね?」
あかりちゃんは何か言いたそうではあったけど、結局、私が引かないのを感じ取って笑ってくれた。彼女が先に行くのを見送ってから、私は目を瞑ってソファに身を沈める。
そういえば、修学旅行が始まってからゆっくり一人になったのは初めてかもしれない。
団体行動の時はクラスで回るから、その時はほとんどあかりちゃんと一緒だったし。自由行動の日はクリスくんと一緒だった。旅館に戻って来てからも、まくら投げだなんだって一緒にいたような気がする。男の子達は今日もまくら投げに興じているんだろうか。クリスくんもいたから一度だけ参加したけれど、何だかとてつもなく体力を奪われた気がする。
(……でも、楽しかったな)
自由行動は、すごく楽しかった。明日も、一緒に回ろうねって約束してて。団体行動も、あかりちゃんと一緒で楽しかった。時々別のクラスとすれ違う時、志波くんのクラスとすれ違うときもあって、その度に彼がこっちを気にしているのが何だかおかしかった。それは、クリスくんと私の場合も同じで、しかもクリスくんはあからさまに手を振って名前を呼んだりするから凄く恥ずかしかった。
(ハリーにも見られたかな、あれ)
夏休みに森林公園で会った時以来、私はハリーとまともに話した事はない。けれど、何となくあのままほったらかして帰ってきたことが気になっていて、一度だけどうだったか聞いたことはある。
本当に、久しぶりだった。話し掛けるのにずいぶん色々考えもした。ハリーに話しかけることは、クリスくんに話しかけるのよりも10倍くらい勇気があって、そのあとも10倍くらい疲れた気がする。
それでも、私は久しぶりに彼に話しかけたのだ。
『あの……ハリー?』
『………な、何だよ』
『あの、あれから、平気だった?具合』
『ぐ、具合って、何だよ』
『夏休み。………公園で倒れたでしょ。ちょっと気になってて。私、先に帰っちゃったし』
『あっ、あんなん平気だっつったろ!!何でもねぇよ、気にすんなっ』
『そう。それなら、いいけど』
相変わらず、ぶっきらぼうな言葉。でも、それを聞いて私は少しだけほっとした。大丈夫。私はもう、ちゃんと向き合える。
もう、前までの私じゃない。今は、ちゃんと背筋を伸ばして歩ける。ちゃんと笑える。少しずつだけど、変わっていける。
(それに、クリスくんがいるものね)
いつも私を見てくれていた人。優しい、大切な人。
明日は、最後の自由行動の日だ。何をしよう、お土産を見に行って、それから―――。
目をつぶったまま、そんな事をぼんやりと考える。何だか、ふわふわした気分だった。
「…くっそ志波のやつ、アイツ手加減ってもんを知らねぇよ。マジ投げしてきやがって……ぜってぇ、やり返してやる」
修学旅行中、毎夜恒例となっているまくら投げを一時戦線離脱し、俺は旅館の中をブラブラと歩いていた。俺達が泊まっている旅館は、老舗の格式高いような所とは少し違って、旅館、とはいえ作りはホテルみたいに大きくて立派だ。俺達みたいな学生の団体が一般客と混じって泊まるのだから、部屋数も多くて、うっかりすると建物の中で迷子になりそうだ。
(あー喉乾いた。何飲むかな。ポカリかな。でももう歯磨いたしな…ウーロン茶あたりにしとくかなー)
備えの自販機までは少し歩く。確か、風呂に行く途中にあったはずだ。ふと視界に「休憩所」と札の付いたスペースが映る。たぶん、泊まっている客が休憩か談笑か出来るようにっていう場所なんだろう。立派めな応接セットが置いてある。何気なくそれを眺めていて…、それからぎょっとなって俺は思わず足を止める。
ソファの、奥の方で誰かが一人横になるみたいにして寝ている。いや、寝てるんだろうか、ただ目を瞑ってるだけなのかもしれない。
そいつは羽学の体操服を着ていて、白い足を投げ出すみたいにしてそこに居た。目に入る長い髪と、眼鏡。
(な、な、何でこんなところに…!)
こんなところで出会ってしまって、俺はどうにも動けなかった。どうでもいいヤツならさっさと通り過ぎるだろうが、相手がコイツの場合それは出来ない。
かといって、どういう風に接していいのかまるでわからない。
2学期になってからしばらく、俺は、詩穂がクリスと付き合い始めたという事実に打ちのめされつつも、やっぱり諦められず、前にも後ろにも進めないような状況だった。しかもクリスのヤツは周りの目を気にすることなくイチャイチャしやがるので腹が立つ事この上ない。(けれどもその分、詩穂はさすがに恥ずかしいらしく困った顔をしていた。ざまあみろだ)
修学旅行の間も、自由行動は当然ながらアイツらは連れだって行動してたし、そのうえ団体行動の間にもやたらちょっかい出してきて(しかもクリスのヤローだけじゃなく志波もだった。あのバカップルめ)俺のストレスは正直溜まる一方だったわけだが。
それでも、俺には何も良いことが無かったのかと言われれば、そういうわけでもない。
ほんのちょっぴりだけど、俺は詩穂と話をした。しかも、詩穂の方が俺に話しかけてくれた。そんなのは、本当に物凄く久しぶりだった。
話は、夏休みに森林公園で俺がぶっ倒れた時の事だった。あれから、あいつは気にかけてくれていたらしい。それだけでも充分嬉しくて、けれども素直にそうとは言えず何でもないと俺は言うしかなかったのだけれど。
けれど、あれから挨拶したら、一応は返ってくるようになって。目が合っても、前みたいに思いきり拒絶したような逸らされ方はしなくなった、気がする。
それは、時が経ったからなのか、それとも、アイツと付き合い始めて余裕が出来たのか。わからないけれど、どちらにしても俺にとっては大事な一歩だ。
そんな、些細なことですら大切な俺にとって、今のこの状況は、何だか色々と困る。何故と訊かれてもわからないけど、とにかく困る。
困る、けれど、俺はこのまま通り過ぎるわけにはいかなかった、もちろん。
(つうか、こんなとこで寝てんなよ。無用心なやつ……)
声をかけようかと思ったが、やめた。俺は絨毯張りで足音なんてほとんどしない床の上でも、相当慎重になって少しずつ詩穂に近づく。それだけなのに、何でだか物凄く心臓がバクバクする。そろそろと、寝ている詩穂の横に座ってみた。起きたらどうしようかと思ったが、詩穂は変わらずに目を瞑ったままだ。それを確認して、俺はほっと息をつく。
少しだけ首を伸ばして、詩穂の寝顔を覗き込む。かわいい顔してんのかな、と思ったが、詩穂は寝ててもしかめっ面だった。けれど、眼鏡の奥に見える睫毛は長くて、口元は思ったよりふっくら柔らかそうで……色々想像してしまいそうになって俺は慌てて首を振る。
(あーでも、寝顔なんて何時見られるかわかんねーし……て、あれ?)
ふと気が付いて、俺はもう一度詩穂の顔を良く見る。今度はそういう、ヘンな想像は無しだ。
そもそも、この状況からしておかしい。あのボンヤリのあかりならともかく、詩穂がこんな所で寝てるだなんてやっぱりおかしい。
寝顔だって、しかめっ面というか、これは、どちらかというと。
「おい……詩穂」
「………う、ん。…はりー?」
「なぁ、お前、もしかしてさ……」
ある予感がして、俺は自分の手を詩穂の額にそっと置いてみる。そこから伝わってくる熱さに、俺はさっきとは全然違う意味で心臓の鼓動が速くなった。
「お前、やっぱり熱あるぞ、これ。すっげぇ熱いじゃんか!」
「ん、だ、大丈夫、だよ。ちょっと、ぼーっとするけど……」
「バカ!大丈夫なわけあるか!!」
「でも……明日、クリスくんと、やくそく……」
「………っ」
うわ言みたいな詩穂の一言に、俺の体はぎしりと動かなくなる。
わかってる、そんなこと。もうそんな事でいちいち傷ついたりしない。もう何回も、自分にそう言い聞かせた。
わかってた、はずだ。
「……とにかく、センセー呼んでくる。お前ここでじっとしてろよ?」
「いいってば……」
「良くねぇ!そんな無理したって誰も喜ばねんだよ。…アイツだって、たぶん。だから、こんな時くらいは甘えてろ」
「でも……」
「いいから。……だから、待ってろ」
それだけ言って、俺は元来た道を走って引き返す。教員の部屋は聞いていたし、最悪わからなけりゃ氷上にでも言えば何とかなるだろう。
(でも、会えて良かった)
あの場に、通り掛かったのが俺で良かった。
お前が熱出してるの、一番初めに知ったのが俺で良かった。
そうして、力になってやれて、良かった。
un beau reve