―――また学校でね。
にこりともせずに言われたそれを、けれど俺は夏休みの間ずっと、何度も頭の中で繰り返していた。
何度も思い出して、反芻して…はっきり言って、とんでもなく些細な出来事だってことはもちろん自覚してる。
けれど、たとえ小さな事だったとしても、俺にとってはすごく大切だった。
2学期。9月とはいえ、まだまだ太陽の光は強くて、屋上も暑い。けれども風だけはどこか涼やかで、うっすら汗をかいた首筋を冷やした。手にしたギターからはどこか物悲しいマイナーコードばかりが響く。やっぱりギターは俺にとって自分を表現するもので、こんな時ですらそれを忠実に実行する自分に何だか笑えた。
『詩穂ちゃん、クリスくんと付き合ってるって本当なの!?』
教室に入って、突然耳に飛び込んできた声。そういう話を遠慮会釈なくデカイ声で言うのは、決まってる。「あ、あかりちゃん声が大きいよ」と案の定言われていた。バカだ。
けれど、話の内容はそれまでに何となく聞いていた話だ。最近めっきり「キレイになった」詩穂はやたらと男共の評判だったし(俺は全然面白くなかったが)、その詩穂がクリスの絵のモデルをしているらしいというのも割と有名な話だった。クリスの事は俺も知ってる。といっても名前と外見と美術部所属ってくらいだ。見た目がガイジンで派手な金髪だから、ただ突っ立ってても目を惹く。
クリスと詩穂が付き合い始めた事に関する周りの反応は、けれど意外と好意的で穏やかだった。これが相手が羽学のプリンスとかいう佐伯とかだったらもっと大騒ぎなんだろうが、そんな風でもない。密かに詩穂を気に入っていた野郎どもが悔しそうにしてただけだ。まぁそんな事は心底どうでもいいけれど。
(…たぶん、学校中で一番ショック受けてんの、俺だよな)
けれど、意外にも俺は落ち着いていた。あまりにもショックすぎて、体がそれを感知し忘れているのかもしれない。それとも、本当に「悲しい」っていうのは俺が知らなかっただけで案外静かな感情なのかもしれない、なんて思ったりした。これなら夏休み前にアイツと偶然ここで会った時の方がよっぽど辛かった。
いや、今だって辛いことに変わりはない。自分の好きな女が、自分以外の男と付き合う、というのはつまり、俺以外の男のことをアイツは好きだというわけで。
それは、もっと痛みを伴って辛く感じるはずだ。こんな中途半端な気持ちじゃなく、劇的で、感情的な。
それなのにどうして俺はこんなにも静かな気持ちなんだろう。
もう諦めているのか?大体好きだなんだと言う前に、俺はアイツにめちゃくちゃ嫌われていたし。夏休みに少し話したからって、そう簡単に印象が変わることもないだろう。そんな単純なものじゃないことくらい、俺だってわかってる。
現に、アイツはわらわなかったじゃないか。
(いや、違う。そういうのじゃ、なくて。俺は…)
「………針谷」
背後から低い声に呼ばれ、俺はそっちを振り返る。たぶん学校一背が高いだろうソイツを見上げ、俺はそれでも皮肉気に笑った。
「なんだよ。今授業中だぞ?こんなトコでサボってんなよ志波」
「………その言葉、そのままそっくりお前に返す」
「うるせぇ、何しに来たんだよ。お前サボるのは図書室だろ?屋上なんてあかりと一緒じゃないと来ねぇくせに。ニガコクか?」
「……いや。話したいことがあってお前を探してた」
「……アイツが他のオトコと付き合ってるって話ならもう知ってるぞ、俺は」
先回りしてそう言ってやると、案の定志波は驚いたような顔をする。まさかホントにその事を俺に言いに来たんだろうか。だとしたら何て律儀で、お節介なやつだ。
「…知ってたのか」
「あのな。俺、おんなじクラスだぞ?しかも、あかりの奴がデカイ声で言いやがってよ………まぁそれでなくたってわかるだろ。結構噂だったし…で、なんだ。失恋した俺を慰めにでも来たのかよ」
「いや違う」
「違うのかよ!そこは嘘でもいいから慰めに来たって言え!」
「………慰めてほしいのか?」
「いらねぇよ!全然嬉しくねぇし、慰めになんねぇ!!………まぁ心配かけた事は、謝るけどよ」
「いや………謝るのは俺のほうだ」
「………は?何でお前が?」
それから、志波は俺の横に座り込んで話し始めた。もう、ずいぶん前の話だ。一年の、冬の日の話。
俺がクラスの奴らに詩穂との事をからかわれた時の話。
そういえば、確かにそんな事があった。別に、詩穂と時折屋上で話す事を、隠していたつもりはない。けれど、それに関して他の奴らにとやかく言われるのは嫌だった。恥ずかしいと思う気持ちも、確かにあった。考えてみれば、あの頃から詩穂の存在は特別だったんだと思う。ただその時は自分でもよくわからなくて、そして、わからない事に関してからかわれる事に、ただムカついた。
だから、「知らない」と言った。「好きになんかなるわけない」と言った。
否定することしか出来なかった。
今まで知らなかったが、志波はあの場にいたらしい。考えてみれば一年の頃、俺はコイツと同じクラスだった。だから、そうだったとしても不思議はない。
「……で、それがなんだよ」
「あの時の話、俺は蒼井も聞いていたと思う」
「………は……?」
あまりにも突飛な展開に、俯いて聞いていた俺は思わず志波の顔を見上げる。けれども、あいつは至極真面目な顔をしてやっぱり俺を見ていた。
こんな事を冗談で言えるほど志波は性悪じゃないし、器用でもない。
「あの時、廊下に誰か立ってるのが俺には見えた。お前の言葉の後にすぐにどっか行っちまったけど…。確かめたわけじゃねぇけど、あれが蒼井だったら辻褄があうだろ」
「……それは、まぁ……」
まるでウソみたいな偶然だが、確かにそれなら話はわかる。アイツが、俺を遠ざけていた理由だと考えられなくもない。
志波は、ほんの少しだけ申し訳なさそうに顔をしかめる。
「………もっと早くに話せればよかった」
「…………は!なぁに暗い顔してんだ。んな事で俺様がお前を責めるわけねーだろ!」
抱えていたギターを脇に置いて、俺は立ち上がって目の前に広がる街並みを見下ろす。今日はきれいに晴れていて、向こうの海まで良く見えた。
「結局、俺が気が付けなかったんだから同じ事だ。それに………そういうのは、関係無ぇんだよ」
「……針谷?」
「……どうなっても、変わらねぇんだ」
そう、変わらない。たとえ詩穂が他の男と付き合っていても、そいつの事が好きだったとしても。それは、俺の気持ちを変える理由にはならない。俺は変わらない。
(好きなのは、変わらねぇ)
「……言っとくけどなぁ、そんな事で諦められるような、そんな半端なモンじゃねーんだよ。それでやめられるならとっくにやめてるよ、こんなもん」
何も感じないわけじゃない。辛いし、苦しいし、やっぱり悔しい。笑ってほしい、俺を見てほしい、俺を好きに、なってほしい。叶わない想いばかりがぐるぐる廻って、心は全然落ち着かない。
だけど、どうしようもないのだ。詩穂を好きな気持ちは変わらないし、他に代わりを見つけられるわけでもない。
もう、きっと俺はおかしくなってる。
「………でも、引かねぇ」
今はまだ糸口すら見つけられないけど、いつかこの気持ちを伝えられるその時まで。
constant