それは、ある程度は予想出来た事だった。
クリスくんが女の子に声を掛ける事は、それほど珍しくはないけれど、詩穂ちゃんがそれに応じ続けていたのは、ある意味「意外」な事だったから。
詩穂ちゃんは、元々それほどおしゃべりする方じゃない。かと言って暗いとか、そういうわけでもなかった。「話す」よりも「聞く」側、と言えるかもしれない。
私のどうでもいいような話を、じっと聞いて、相槌を打って、笑ってくれる。そこに感じられる控え目な、けれどあたたかな優しさに、私はいつだってほっとする。
けれど、ある時を境に、詩穂ちゃんはあまり笑わなくなった。ひどく落ち込んでいて、見ているこっちも悲しくなるくらい。何か、辛くて悲しい事があったのだと思う。だけど、詩穂ちゃんはそれについては一切口にした事はないし、私も訊かなかった。
訊けなかった、というのが正しい表現かもしれない。それとなく、その話題に触れようとすると、たちまち彼女は身構えて、空気が痛いほど張り詰めるのがわかったから。
そこを押してまで、事情に立ち入る気には、なれなかった。話してもらえない事が、さびしいと思わない訳ではなかったけれど、待つ事だって、話を聞くのと同じくらい重要な事だと、私は自分に言い聞かせた。
クリスくんのモデルを頼まれてから、詩穂ちゃんは変わった。
もちろん、見た目がかわいくなったのもそうだけれど、それだけじゃなくて。何て言うんだろう。肩の力が抜けて、表情が柔らかくなった。俯いて伏せられがちだった目が、真っ直ぐにこっちを見てくれるようになった。
やっぱりそれは、クリスくんのお陰なのだと思う。どんな話をしているかなんて聞いた事はないけれど、その頃から、詩穂ちゃんは少しづつ笑顔を取り戻してきたから。
だから、やっぱりこれは予想出来た事だし、自然な流れだと思う。
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、私が詩穂ちゃんで、クリスくんが志波くんだったら、やっぱりそうだなぁって思うもの」
そう答えると、志波くんは少しだけ目をいつもより見開いて、はぁ、と小さく息を吐いた。
「お前は、時々そういう事言うよな」
「そういう事って?」
「いや……何でもない」
がしがしと頭を掻きながら、志波くんはぼそりとそう言った。彼の手の中にある大きなお弁当箱は、もうほとんど空っぽだ。
「でも、まぁ…そうだな。その気持ちは、俺もわかる」
志波くんは、小さく笑う。それは優しい、けれど少しだけ淋しい笑顔。たぶん、野球部に戻るまでの事を、思い出しているのだと思う。わからないけれど、志波くんがこういう風に笑うのはその時の事を考えている事が多いから。
「…なぁ、そういえば蒼井が、その、落ち込んだ原因っていうのは結局聞いていないのか?」
「あ、うん…。もう、結構前の事だよ。でもずっと引きずってたと思う…元気になってきたのは、だから本当につい最近なの」
「前って、何時頃か憶えてるか?」
「えーっと……そうだなぁ確か……、去年の2月頃…。あ、そうだ!バレンタインの日の、前?あと?それ位の時期だったと思うよ」
「…………やっぱり」
「何?どうかした?」
「いや、……少し気になってたから」
「気になるって?」
「あ………」
志波くんはあからさまに「しまった」という顔をする。彼にしては珍しい表情で、だから、さすがの私も何だか気になってしまった。
だって、他の人の、しかも女の子の話で志波くんが「気になってた」なんて。私が少し気になってしまうのは、仕方が無いことだと思う。
「もしかして、志波くん、何か知ってるの?」
「……いや知らない」
「………ウソだ」
「…………」
「……………志波くん?」
じいぃっと志波くんの事を見詰めていると、とうとう志波くんはため息をついて観念したように手を上げた。それから、困ったような、けれど真面目な顔をして私に向き直る。
思っていた以上の真剣な反応が返ってきて、私は少し戸惑ってしまう。軽い気持ちで聞いてみただけなんだけど、聞かない方が良かったんだろうか。
「こういう話をするのは、正直、気が進まないんだが……でも、お前に隠すような事でもないし、隠し事をしていると思われるのも嫌だ」
「そ、そんな、言えないような話、なの………?」
「今から俺が言う事、くれぐれも他言しないでほしい。……秘密、だからな?」
「う、うん、わかった。約束する」
彼の重々しい言葉に、私は緊張しながら頷いた。そして、決心した彼が、私を引き寄せて、耳元に顔を近づける。
そして、打ち明けられた「秘密」とは。
「ええええええええっ!?は、ハリーがし……もがもがっ!」
「バカ!お前、言った傍から……っ!」
大きな手にがばりと口を押さえられれば、私の顔なんて半分くらいは隠れてしまう。ほんの一瞬だけ周囲の視線を感じたけれど、それはまたそれぞれに戻されていった。
志波くんはたっぷり時間をかけて周りを確認してから、やっと私の口元から手を放してくれた。別に息が出来なかったわけじゃないけれど、放された途端に私は大きく息を吐く。
「はぁ〜…びっくりしたぁ……」
「びっくりしたのはこっちだ」
「ご、ごめん……でもそれ本当?その、ハリーが……詩穂ちゃんの、こと」
「…あぁ。けど、蒼井には嫌われてるみたいだ。その事を気にしてた」
「………あ!だからあの時…」
その時、パズルのピースがぴったり収まるみたいに、私の中で一つの考えがまとまる。
前に、志波くんに楽譜の整理を手伝ってもらった時、志波くんはハリーが誰かに避けられていないかって心配していた。
おかしな事訊くんだなと思っていたけれど、あれはこの事だったんだ。
「でも、嫌われてるの?ハリーって」
「……詳しくは知らないが、良さそうではないな」
「そうなのかな……?あ、でも……」
言われて考えてみれば、確かに詩穂ちゃんとハリーが話してるところを見た事がない。同じクラスなのに、一度も。挨拶してるのだって、ない。
もしかしたら、志波くんの言うとおり、詩穂ちゃんはハリーを避けていて、ハリーは詩穂ちゃんに避けられているのかもしれない。
それを思うと、何だか胸が痛んだ。だって、私にとっては二人とも大切な友達だから。
「……でも、どうして?詩穂ちゃんは理由もないのに人の事嫌ったりしないよ。ハリーと気が合うかはどうかは、別としても」
「理由は……たぶんあるんだと思う。針谷はそれに気が付いてない。……何となく、そうじゃないかとは思ってたんだ」
そう言って、志波くんは話してくれた。志波くんが見た「冬の日の話」。
一年生の頃、志波くんはハリーと同じクラスだった。その頃志波くんはもう野球部に復帰していたけれど、その日はたまたま練習が休みで教室で居眠っていたらしい。
教室にはハリーもいた。それと、何人かのクラスメート。
放課後、そうやって何人かだけになると話は決まって「好きなやつの話」になるんだそうだ。まぁそれは、男の子でも女の子でもそんなに変わらないってことだろう。
「まぁ、くだらない話だがな」
「…そう?照れるけど、楽しいよ?」
「まぁ、女子はそうかもしれないが……野郎同士でそういう話になるのは大抵ふざけ半分でロクでもない。俺はああいう話に関わるのはキライだし……アイツも、ああいうのは苦手だと思う」
「アイツって、ハリー?なんか、ノリノリで話してそうなイメージあるけど」
「イメージはな。でも、アイツは意外とそういう所は真面目だ。それに、自分の事に突っ込まれたら…。適当にごまかしたりとか、得意じゃないと思う。あの時も、そうだった」
志波くんは、実は起きていたけれど面倒臭くてその輪には加わらず、ぼんやりしていたらしい。だから、盛り上がっていたのは、ハリーを中心にした彼らだけだった。
ハリーは、嬉々として盛り上がる周りを余所に、あまり喋らなかったらしい。それがかえって皆の目を惹いたのか、話はハリーの事に移っていった。
「針谷と蒼井と、どういう接点が合ったかは知らない。けれど、針谷はたぶんその時からアイツの事好きだったんだと思う」
「へぇーー、良くわかったね、志波くん」
「誰だってわかる反応だったんだ。別に俺だけじゃない、周りの奴らだって、そう思っただろうな……だから、余計に」
更に盛り上がる周りに、ハリーは黙り込むのをやめて「違う」と言ったらしい。
「そんなヤツ知らない。好きになるわけない」って。
「うーん…まぁ、照れ隠しでそう言う風に言っちゃうかもね」
「それで周りを黙らせたからな。結構な迫力だった」
「……あれ?でもそれと詩穂ちゃんが何の関係があるの?」
「話には続きがある………と言っても、ここからは俺の勝手な予測だが」
けれど、割と外してないと思う、と志波くんは前置きして続きを話してくれた。
「アイツらは気付いてなかったけど、あの時、廊下に人影が見えた」
「…………人影って。まさか、それが詩穂ちゃんで、ハリーが話してるのを聞いちゃったってこと……?」
「その時は、誰かなんてわからなかったし、今まで忘れてたんだが……、話を色々聞いていると、それが蒼井だったっていうのが一番ぴったりくる」
確かに、詩穂ちゃんが塞ぎ込んでしまった時期とそれは重なる。その話を聞いてしまった詩穂ちゃんが、ハリーの事を避けるというのなら納得がいく。
(……あれ?でもそれって………)
飛びかけた思考が、けれど「今更だけどな」という志波くんの言葉で遮られる。
「今更って?」
「もう随分前の話だし……、今となっては蒸し返しても仕方のない話だってことだ。少なくとも蒼井にとっては」
「それは………」
私はその先の言葉を続ける事が出来なかった。
2学期に入ってから、詩穂ちゃんはクリスくんと「付き合っている」。
初めは噂を聞いて、それから詩穂ちゃんに直接聞いた。照れ屋な彼女ははっきりとは言わなかったけれど、否定もしなくて。はにかんだような詩穂ちゃんの笑顔を見て、私は心の底から嬉しかった。
けれど、だとするとハリーの気持ちはどうなるんだろう。届かないままなんだろうか。詩穂ちゃんはそれに気が付かないままクリスくんと付き合うんだろうか。
確かに、人の気持ちなんてそんなものだ。思い通りになるものじゃない。でも、仕方がないことだと思っても、やっぱりつきんと、胸が痛い。
「今頃こんな話したら、怒るかもな、アイツ」
「ハリーのこと、心配なんだね志波くん」
そう言うと、「ダチだからな」と志波くんは笑った。
「俺の時も、色々聞いてくれたしな……今度は俺が聞き役だ」
「そうだね…」
「お前は、何もしなくていいぞ」
「え?」
思わず見上げると、ぽんと、大きな手が頭の上で柔らかく弾んだ。
「お前はいつも通りがいい…針谷にも蒼井にも」
「そう、かな……」
「そう、だ。いつものように笑っててくれるのが一番いい………俺のためにも」
「………志波くんて、時々そういう事言うよね」
「お前ほどじゃない」
お昼休みの終了のチャイムが鳴り響く。もう一度弾むように頭を撫でてくれた志波くんに、私はいつものように笑った。
それが私に出来ることだというのなら、少なくともそうしようと思ったのだ。
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