「うわぁ……っ、やっぱり高いなぁ……」
目の前に広がる景色に、思わずそんな感想が口をついて出る。夏休み最後の日曜日、けれど空中庭園はそれほど人もおらず、空いている。
隣にいたクリスくんが、心配そうな顔をして私の方を覗き込んだ。
「詩穂ちゃん、もしかして高いところ苦手やった?」
「ううん、平気だよ。高くて気持ちが良いね、ってこと」
相変わらずの暑さではあるけれど、風通しが良くて、それほど気にならなかった。クリスくんの髪は、風に吹き上げられる度にきらきらと光の反射が変わってすごく綺麗。
「お姫さまみたいだね、クリスくん」
「何言うてるん?それ言うなら王子サマやし、お姫サマは詩穂ちゃんの方やん」
「私は違うよ。綺麗じゃないし…大体お姫さまなんて柄じゃないし」
「またそんなん言うて〜、あかんよ。詩穂ちゃんは、かわいいんやから」
眉毛をハの字にするクリスくんに、私は曖昧に笑って返した。
風が吹く。私の黒い髪も、一緒に揺れていた。
「合宿、どうだった?」
「うん、楽しかった!絵も、やりたかった事、いくつか出来たし……でも、やっぱり淋しかったな」
「さびしい?」
「詩穂ちゃんに会われへんかったから……淋しかった」
それは、静かな声だった。いつもみたいな、はしゃいだ声とは違う。
静かな、真摯な声音。
私はただクリスくんをまっすぐ見上げた。驚いている気持ちと、どこかで予感していた気持ちと、その二つが、心の中の天秤を揺らす。
「私だって会えなくてさびしかったよ」と、笑って返すつもりだった。きっと、いつもならそれは難しい事じゃなかったと思う。
でも、出来なかった。そんな風に、冗談で返してはいけない気がした。
じわじわと、夏の日差しが降り注いで、あつい。ただ私は何も言えなくて、彼の顔をじっと見ることしか出来ない。
「……詩穂ちゃん」
「……なに?」
「ボクは、詩穂ちゃんの傍におってもいい?」
「…………」
(どうして)
どうして、そんな事聞くんだろう。今までだって、いつも傍に居てくれたのに。
傍で、笑って、励ましてくれていたのに。聞くまでもないことなのに。
「モデルしてもらってるとか、そんなんやなくて…そんなんがなくても、傍におってもいい?」
「……………」
どうして、私はすぐに「いいよ」と答えられないんだろう。
口の中が張り付くようで、うまく声が出ない。答えはわかっている。もちろんイエスだ。
意味だってわかっている。嬉しいと思っている。だって、クリスくんは私を変えてくれた。いつも優しくて、私を元気付けてくれていた。
だから、だから私だってわかっている。それなのに、どうしても答えられない。
そう、この期に及んで私はまだ揺れている。ずっと遠ざけていたもの、そしてそれは、私の中でろ過されて瑣末な過去にされてなきゃいけないのに。
それが出来るだけの穏やかな時間と、優しさを私はずっと与えられていたはずだ。そして、私は変わったはずだ。
―――ごめんな。
(あんな………)
あんな一言くらい、何て事ないはずなのに。
いつまでも黙りこんでいる私に、クリスくんはいつものようにふわりと笑った。
空気が、ふんわりと和らぐ。私はそれに、ほっと息をついてしまう。
「ごめんな、変なこと言って、困らせてもうて」
「違うの。私……困るとか、そんなんじゃなくて」
「こんなん、言うつもりやなかってん。ボクは…」
「クリスくん、あのね、私、嬉しかったよ?困ってなんて、ない。わ、私だって、傍にいてほしいって思うもの。ホントだよ?」
慌てて言い募る私に、けれどクリスくんはやっぱり淋しそうな顔で「ありがとう」と言うだけだった。
その言葉が痛くて、私は泣きたくなった。私が泣いたりしたら、それこそクリスくんが困るだろうからそれだけは何とか我慢したけれど。
クリスくんは私を見て、「そんな顔せんとってえな」と、おどけたように明るく言った。
「ホンマにな、自分でもビックリやわ……。ホンマに、そんなつもりやなかったから………せやけど、ヒトのココロってわからんもんやね」
「クリスくん……?」
「…コクハクついでに、キミに初めて会った時の話、してもいい?」
「……春、私がクリスくんの絵を拾った時のこと?」
「ううん、ちゃう。実は、それよりももうちょっと前」
360度のパノラマの風景を見ながら、クリスくんは懐かしそうに微笑んだ。
「去年の、冬の日。バレンタインの、ちょっと前やったかな。めっちゃ寒くて、どんより曇っとったん、憶えてる」
(まさか)
ぎくり、と、体が強張った気がした。去年の冬。バレンタインの、少し前。
「あの日、中庭に女の子が走り込んできたのが見えて……ていうのは、ボクのお気に入りの場所からあそこ、良う見えるんやけど」
そう、あの日。私は中庭に向かって、というよりは、走って辿り着いた場所がたまたま中庭だったのだ。
息が切れて、苦しくて、中庭に着いて、私の足は止まった。泣きたくなんてないのに、涙も嗚咽も止まらなくて。息は上がって、苦しくてどうしようもなかった。
「声、掛けようかと思たけど、そんな雰囲気やなかったし……。でも、気になっててん、ずっと。あとから名前も、すぐにわかったし。どうしたんかなぁって思ってた」
何も言えず黙っている私に、クリスくんは、ふっ、と笑いかけた。
「あれから詩穂ちゃん、よく中庭に来とったよね?」
「…………うん。あの場所は、あまり人が来ないから」
「いっつも悲しそうな顔しておって………あのな、悪趣味かもしれんけど、ボク、よく見ててん。笑ったら、カワイイのになぁって、そんな事考えながら」
「………」
「それでも、いつか笑顔が見れるて思って………。けど、春になって、2年生になっても何も変わらへんくて……、それからかな。どうやって声掛けようかなって、思い始めたのは」
「そんな、頃から……?」
口から出た言葉は、震えていた。クリスくんは私が怒っていると思ったのか、慌てて「ごめんな!」とこちらを向いて謝ってくれた。
でも、私は別に怒っているわけじゃない。そうじゃ、なくて。
「えっ、ちょっ、詩穂ちゃん!ホンマごめん!せやから、そんな………泣かんとって?」
「………ごめん、違うの。怒ってなんか、ないから」
(そんな時から、ずっと私を見ていてくれたんだ)
そして、本当に私に声を掛けてくれて、傍にいて、励ましてくれたんだ。
傷ついて、捻くれた私を、癒してくれたんだ。
こんな私の隣にいてくれたんだ。
そう思ったら、涙が出て止まらなかった。
「……りがと」
「……え?」
流れる涙をごしごしと擦って、私はクリスくんを見る。うまく出来るかわからないけど、その時出来る精一杯の笑顔を、彼に向けた。
それがきっと、答えになると思う。大丈夫、ちゃんと言える、今なら。
「ありがとう。………私、クリスくんの傍なら、いつも笑っていられるよ」
風が吹く。クリスくんの金色の髪も、私の黒い髪も、同じように吹き遊ばれて、流れた。
ce qu'a vu le vent