どうしたら近づけるんだろう。
どうしたら拒まれないだろう。
それは、本当に取るに足らない願い。
(あぁ〜…あっちぃ…)
照りつける容赦ない日差し。そんな太陽からの熱を受けてむせ返るような地面からの熱気。
下手をしたら熱気で景色が揺らぐような、そんな暑さの中、俺はは紙袋をぶらぶらと提げながら森林公園の方へと歩いていた。
別に、公園に用事は無い。ただ余りにも暑いのと、このまま家へまっすぐ帰るのも気が進まず、寄り道も兼ねて少しでも涼し気な所に行こうと思っただけだ。大体、家へ帰ったって、また面倒な事を押し付けられるに決まっている。
涼むなら本当はカラオケボックスとかゲームセンターとか、冷房の効いてそうな所に行けばいいのだが、それも何となく気分じゃなかった。ああいう所は一人で行く場所じゃないし、騒がしい。そういう雰囲気は、むしろ俺は気に入ってるんだけど、今日に限っては静かな所が良かった。
第一、こんなダセぇ紙袋ぶら下げて、ゲームセンターになんか行けるかってんだ。
「くそ…お袋め、こんなモン自分で買いにいきゃいいのに…」
家でゴロゴロしてるなら動けと押し付けられた買い物。進物用の和菓子やらお茶やらの入った紙袋を見下ろし、俺はため息をつく。頼まれて買ったこれらの物がどうなるかなんて俺の知ったこっちゃない。いわゆる「夏のご挨拶」ってヤツなんだろう。
そういった習慣に文句を言うつもりはないが、俺を巻き込むのは勘弁してほしい。男子高校生が、和菓子やらお茶やらを「のし紙にはお中元って書いて下さい」とか言いながら買うのがどれだけ恥ずかしいか、お袋は全然わかってない。
森林公園は静かだった。時折、小さい子供のはしゃぐ声なんかが遠くに聞こえたが、デカいステレオでガンガンかけられる音楽に比べればささやかなものだ。こういうのんびりしたのも、たまには悪くないよな、と軽く伸びをした。
しかし、いくら公園だからといって、やっぱり暑いものは暑い。さすがにアスファルトの道路を歩くよりかはマシだが、それにしてもやっぱり暑い。額から滑り落ちてくる汗を手で拭いながら、雲ひとつ無く晴れ渡る夏の空を、恨めしげに見上げる。
まぁ、でも夏は暑いって決まってんだから仕方ない。確か、噴水があったはずだよな、なんて思いながら歩きながら、何気なく視線を移したその先に、俺は目を奪われた。
長い髪、すらりとした細い人影。
間違いない。アイツだ。
思わず、足が止まった。このまま元来た道を戻ろうかとも思った。今は、まだ向こうは俺に気付いていない。
ちょっと姿を見ただけで、心臓がいつもの倍は動いている気がした。目の前がグラグラする。ライブの本番前だって、こんなになった事ないのに。
あの、屋上での出来事が鮮やかに思い出されて息が詰まった。きっと、詩穂は俺となんて会いたくないだろうとも思った。
けれど、足は一瞬止まっただけで、また歩きだした。迷う俺の意志とは関係ないかのように、着実に、迷わず詩穂との距離を縮めていく。
あと2、3メートルというところで詩穂はこちらを振り返り、そして、やっぱり、ぎょっとした顔つきで俺を見て、くるりと踵を返してスタスタと歩きだした。
俺がいるのとは反対方向へ。
「な……!お、おい、ちょっと待て!」
何となく予想はしていたけど、それでも本当にそんな風に背を向けられるとやっぱりズキリと胸が痛んだ。悲しいのとムカつくのが入り混じった気持ちが体の中を駆け巡る。
早足で歩いて行く詩穂を追いかけようと走ろうとして、そして違和感に気付いた。
「待てって……て、あ、れ……?」
ゆらりと、世界が揺れる。それは暑さのせいか、それとも違うのか、よくわからない。そういえば、今気付いたけれど、何だか体が物凄く熱い。
何とか踏みとどまって、地面に倒れ込むことだけは避けた。けれど、目の前がゆらゆらして走れない、前に進めない。
「……ハリー?」
遠くで、俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、それに応えることは出来なかった。
すうっと、目の前が暗くなる。
それは、突然だった。
家に籠もってばかりでもつまらない。暑いけれど、森林公園でも行ってみようかとふらりと行った先に、ハリーがいた。それは、本当に驚く暇も無いくらい突然だった。
そして、何だかハリーの雰囲気じゃない、渋い深緑色の紙袋を提げたハリーが、こっちに向かってズカズカと歩いてきた。
私は、思わずあの屋上での事を思い出して、慌てて背を向けた。会いたくない、そう思った。大体、会ったところで話なんてまともに出来るとは思えない。この間みたいに訳の分からない事で問い詰められるのはごめんだ。
でも、走ったりしたら向きになって追いかけてこられるかもしれないと思って、可能な限り早い速度で「歩いた」わけだけど。
それでも、ハリーの「ちょっと待て」という声が追って来て、ここはやっぱりダメもとで走って逃げようかと思ったその時、後ろで、ガサリと何かが地面に落ちる音がした。
振り返って、それは、ハリーが持っていた紙袋が地面に投げ出された音なんだと知って、けれど、私の目に飛び込んできたのは、それよりも、屈みこむような体勢で立ち竦むハリーの姿。
時々ふるふると頭を振りながら苦しそうに呼吸するその姿は、明らかにおかしかった。
「……ハリー?」
恐る恐る、呼んでみるけれど、返事はない。それどころか、がくんと、地面に膝を着いて本当に屈みこんでしまった。
「ちょ、ちょっと、ハリー!」
思わず駆け寄って、顔を覗き込んでドクリと、心臓が嫌な風に鳴った。顔色が、凄く悪い。
会いたくない、だとか、こわい、とか、そんな事は頭から吹き飛んでいた。そんな事を言ってる場合じゃない。苦しそうに目を瞑るハリーの手を思わず取ると、ひんやりと冷たかった。
(ど、どうしよう……)
何とかしなくちゃいけない、ハリーを助けなきゃいけない、そう思うのに、私は傍に座り込んで手を握るだけで動けない。どうしていいかわからない。
「ハリー…、どうしたらいい?ねぇ……」
その時、ぐ、と手を握り返す感覚があった。物凄く顔色が悪くて、物凄く苦しそうなハリーは、それでも、私にうっすらと笑い掛ける。
「……大丈夫、だから。んな顔、すんなって。……ちょっと、目眩しただけだ。あー…アレだな、暑いから、それでだな多分……」
「大丈夫って……、大丈夫じゃないよ!……歩ける?陰になってる所、行こう?」
それからは、夢中だった。
意識はちゃんとあるけれど、それでも何となく足もとが不安なハリーを支えて、丁度木陰になっている芝生にハリーを座らせる。大丈夫だって言ったけれど、やっぱり辛かったんだろう。ハリーはそのまま倒れるみたいにして横になった。
私は傍に座り込んで、ハリーの様子を見る。「大丈夫だ」という言葉を聞けたせいか、さっきよりはいくらか落ち着いていた。目を瞑って口からの呼吸を繰り返すハリーに、私はそっと呼びかける。
「あのね、私、お水買ってくる。だからハリーここにいてね」
ハリーは、閉じていた目を開けて、視線だけ私の方へ動かして「行くな」と言った。
「…別に、何でもねーよ、こんなん…。だから、行かなくていい」
「でも」
「いいから。……行かないでくれよ」
ぎゅ、と、フレアスカートの裾が掴まれた。掴む、と言ってもそれはほとんど力が入っていなかったけれど。
弱々しく握り込むそれを、けれど、私はそうっと元に戻した。
「大丈夫、ちゃんと戻ってくるから。だから、待ってて」
ふと、気が付いて目を開ける。いや、別に気を失ってわけじゃない。ただ、目の前がぐるぐるして目を開けているのが辛かっただけだ。ここで寝っ転がってる前に何があったかも一応きちんと憶えている。
こういうのを、経験したことが無いわけじゃない。初めてライブをした打ち上げの時、仲間たちとはしゃぎ回って丁度今日みたいにひっくり返ったという、我ながら恥ずかしい思い出がある。今日は完全に暑さににやられたわけだけど。
それとも、詩穂を見かけたから?
どっちにしてもカッコ悪い事には違いない。
ここは、木陰になっていて大分涼しかった。さらさらと木の葉が風に揺れる音が心地いい。その上に見える空も、さっきより随分きれいに見えた。
体は何となくだるい感じはした。でもそれはさっきまでの不快感ではなく、運動した後みたいなそんな感じで、気分は随分と楽だ。
(……あいつ、どこまで行ったのかな)
ちゃんと戻ってくるから。そう言って、詩穂は走って行ってしまった。もしかしたら都合の良い嘘かもしれないが、そうは聞こえなかったし、そんな事はあまり気にならない。
(……心配、してくれた)
泣きそうな声で名前を呼ばれ、心配させたくなくて「大丈夫」とは言ったけれど、心のどこかでは嬉しかった。
離れたくなくて、「行かないでくれ」だなんて、それは確かに心からそう思ったわけだけれど、普段じゃ絶対言えない言葉だ。弱ってたせいも、あるかもしれない。
「………ははっ…」
―――ハリー
あいつから俺を呼ぶの、久しぶりに聞いた。それだけで、こんな嬉しくなれるなんて、やっぱり俺は暑さでどうにかなっているらしい。
さくり、と、耳元に誰かが近づく音がした。そして、それまで思い出していた声が、もう一度俺の名前を呼んだ。
走って戻ってきたらしく、はぁっはぁっと、荒い呼吸が頭の上で聞こえる。
「ごめん、ね、この辺り、自販機なくて……っ、ちょっと遠くまで行ってた、から」
そう言って、詩穂は俺の横に座り込んだ。ふわりと、何だか甘いにおいがする。
あいつは俺の顔を「…さっきよりは良くなったかな」と覗き込み、それから濡れたハンカチみたいなのをぺたりと俺の額の上に乗せた。しっとりと冷たい感覚が、気持ち良い。
「えっとね、水よりスポーツドリンクみたいな方が良いんだよね、こういう時。……飲めそう?気持ち悪いとか、ない?」
「……なんか、ヤベぇ」
「……え、や、やばいって何が!?やっぱり気分悪いの、ハリー」
俺の呟いた声を聞いて、詩穂は焦ったような声を出す。俺は、口元がにやけそうになるのを必死に堪えつつ、「何でもねぇよ」とだけ言っておいた。
ヤバイってのは、そういう意味のヤバイじゃない。
たぶん、今のこの状況は、俺が「体調が悪そう」事が前提の状況だ。そんな事はわかってる。たとえばこれが、別に俺じゃなくったって、他の誰かだって、アイツは同じように心配して同じように走り回ってスポーツドリンクを買いに行ったりするんだろう。
そんな事はわかってる。でも。
(なんか、嬉しすぎて、ヤベぇよ)
本当は、手を伸ばしてしまいたかった。「笑ってくれ」とも言いたかった。求めればキリがない。笑ってほしい。他の誰かにじゃなく、俺に、俺だけに笑ってほしかった。本当は、ずっと捕まえておきたかった。
だけど、そうすればきっとまた逃げられるんだろう。悲しげに顔を歪めて拒絶されるのだろう。それだけは、もう二度と嫌だった。今までみたいにずっと避けられるのも。
だから、今は、傍にいてくれるだけでいい。逃げないでいてくれればいい。
「あのさ……、ごめんな」
「いいよ、別に。それより体調おかしいままだったらちゃんと後から病院……」
「じゃなくて。いや、それもまぁ世話になっちまったけど………。屋上で、さ。俺……、ヒドイ事して、ごめん」
軽く、息を飲む音が聞こえた。さっきまで和やかだった空気が、みるみる緊張感を帯びていく。それでも、俺は言うのを止めなかった。
寝ていた体を起して、詩穂にちゃんと向き直る。
「ずっとさ、言わなきゃいけねぇって思ってた。……手、痛かったろ?ごめんな」
「………もう、それは、いいの。私だって、悪かったから」
さっきよりは沈み込んだ声音が、けれど以前のような拒絶は感じられず、俺はほんの少しほっとする。
「逃げてばかりじゃ、何も変わらないよね…」
「……あ?何か言ったか?」
「…ううん。あのね、ハリー……」
「ん?」
詩穂は何か言い掛けて、けれど「やっぱりいい」と目を伏せた。眼鏡の奥の瞳がここじゃないどこかを見ているようだった。
「今は、いいや。……それよりハリー、元気になったのなら、それ飲んでお家に帰ってね?私、もう行くから」
「……って、帰んのかよ」
「顔色も良くなったみたいだし、…一人で帰れるよね?私も、もうそろそろ帰らなきゃ」
「あ、あぁ……そっか。サンキュな、コレ」
彼女は「気にしないで」と言ったあと、「…また、学校でね」と付け足した。
笑っては、くれなかったけれど。
placet futile