昨日の夜、遅くにクリスくんから電話が掛かってきた。
あの人は、普段は突拍子もないし予想外の行動も多いけれど、基本は常識的で、紳士的だ。
つまり、12時も回ろうかというような時刻に、電話を掛けてくることなんてないわけで。
夏休みの夜。蒸し暑い、湿った空気が立ち込めた滲むような夜空には、見える星も僅かだった。
けれども、それはあくまで窓の外の世界の話で、私の部屋は冷房が効いていて汗もかかない。珍しく夏休みに出された課題なんかをやっていて、そろそろ寝ようかと思っていたところに携帯が鳴った。
こんな時間に携帯が鳴ること自体にも驚いたけれど、ディスプレイに表示された名前を見て、更に驚いた。確か、明日から美術部の合宿だって言っていたのに。何かあったのだろうか。
「もしもし?」
『…もしもし、詩穂ちゃん?……まだ起きとった?』
「もう寝ようかなってところだったんだけど…どうしたの、何かあったの?明日から合宿なんでしょう?」
矢継ぎ早に質問する私に、クリスくんはため息のような笑い声を漏らした。
『……何や、詩穂ちゃんお母ちゃんみたいやわ。心配してくれてるん?』
「だって、こんな時間に電話なんてしてきたら、何かあったかと思うじゃない」
『そやね。でも……別に何にも用事はないねん』
「え?そうなの?」
『うん。ただ、声が聞きたくなっただけ』
「……………」
それは、何でもない言葉だった。けれど、いつもよりずっと静かで穏やかな声音に、私は思わず動きが止まってしまった。
音が全然しない深夜。部屋には冷房が低く唸る音だけがぼんやりと響いている。
『……何て言うのは、冗談で』
「……あ、そう…」
『ほんまは、会いたいんやけど』
「……はぁっ!?」
『けど、こんな時間に会いに行くなんてヒジョーシキ、やろ?せやから、電話してん』
「………あのね、電話だって、ヒジョーシキだよ」
『ええ〜〜、ちょっとそれキビシイんちゃう〜〜?』
「明日、早いんでしょう?寝坊しちゃうよ?もう寝なさい」
『……やっぱり、お母ちゃんとおんなじ事言うわ……』
拗ねたみたいな声が聞こえて、電話越しに、しょんぼりしているクリスくんの姿が簡単に想像できた。さすがにちょっと言い過ぎたかなと思って、慌てて明るい声で答える。
違う、だってそれは、急に「会いたい」だなんてクリスくんが言ったから。
「合宿、頑張ってきてね。また、話きかせて?別に、今くらいの時間なら大体起きてるから。電話もらっても大丈夫だから」
『…うん、がんばる。でも、合宿中は電話ガマンするわ。その代わり、帰ってきたらまた遊びに行こ?』
「うん、わかった。じゃあ、本当にもう早く寝てね?……おやすみなさい」
『うん、ありがとう……オヤスミ』
頭の中に、この間一緒に行った花火大会の事を思い出しつつ、私は電話を切った。(切るのは、いつも私からと決まっている。彼からは電話を切らないからだ)
別に、花火大会だからってそれほど楽しみにしたこともないのだけど、今回はクリスくんが「どうしても行く」と言うのに巻き込まれた形で私も一緒に行く事になったのだった。
浴衣は、お母さんに借りた。自分のは持っていなかったし、買いに行く時間もなかったのだ。けれど、着てみれば、まぁそんなに変じゃなかったし、なによりそれほど派手じゃなかったし。
花火大会は、楽しかった。花火はきれいだったし、途中で買った焼きそばも美味しかった。りんご飴も甘かった。何よりクリスくんが大はしゃぎで面白かった。水風船とか輪投げとか、くじ引きとか、とにかく色々見つけては全部やろうとして、キリのいい所で止めるのが大変だった。
行く前は「きっちりエスコートするで」なんて言ってたくせに、あれじゃどっちがエスコートなんだかわからなかった。
それでも、やっぱり私は楽しかった。クリスくんの笑顔を見れて、何故だか安心して、私もたくさん笑った。
(……ちょっと落ち込んでいたから、余計に楽しかったのかな)
ぱくんと閉じた携帯を握ったまま、私はベッドに寝転がる。
花火大会。目を閉じて、あのきらきらして夢のように綺麗だった夜を、まぶたの裏に思い浮かべた。
あの夜、花火が終わったあと、下ろした視線の先に見えた後姿。
それは、ほんの一瞬だった。かすめるように見えて、すぐに人波に紛れて見えなくなった。
でも、あの後姿はハリーだった気がする。
特別目立つ格好をしていたわけじゃないけど、瞬きする間ほどしか見えなかったけれど、何故だかあの後ろ姿が頭から消えない。
考えて、溜息が出る。いい加減うんざりする。まだ、こんな風に思い出す自分が。思い出させる彼が。
――逃げんな!
彼の怒りは、理不尽だと思っている。理不尽だし、何より理解出来なかった。
だけど、あの時の言葉が、重く圧し掛かっていることも事実だった。私は、確かにハリーから逃げている。
彼の感情はともかくとして、その言葉は正しくて、私を縫い止めて、逃がさない。
――自分の事、全然わかってへんから。
(……わかってない、か)
確かに、わかっていなかったのかもしれない。本当は「わかっている」という事に。
携帯電話をベッドサイドに放り出して、ごろりと寝がえりを打った。髪が、首元にまとわりついてうっとうしい。
(……会いたいな)
さっき電話で話したばかりなのに、これじゃあクリスくんの事笑えない。
でも、会いたかった。このまま眠って、朝になったら一週間経っていればいいのに。
そしたら、二人で遊びに行こう。場所は、どこだっていい。クリスくんが一緒ならどこだって楽しい、きっと。だって、いつでも笑顔だし、私も笑顔になれるもの。
彼の笑顔を想って眠ろうと思った。それなのに、何故だか、思い浮かぶのは、あの夜の後ろ姿ばかりだった。
ああ、本当に早く一週間経ってしまえばいいのに。
nuits blanches