それは、「好き」だなんて感情からは程遠いもののような気がした。
だって、誰かを好きになるってのは、もっと優しい気持ちなんじゃないだろうか。そいつを、大事にしたいって、守りたいって、そう思うのが普通じゃないだろうか。
だとしたら、俺が持つこの気持ちは何なんだろう。自分勝手で、乱暴で、強すぎる感情。
あの時、志波が止めに来なかったら、一体どうなってたんだろう。感情に、勢いに任せて、俺はあいつに何をしたんだろう。冷静になって考えてみると、自分が少し怖くなった。
もちろん、元からそんな風だったわけじゃない。あの時、屋上でアイツに会ったのは偶然だった。本当に、ただの偶然だ。でも、だからこそ、俺は嬉しかったのだと思う。
最近、アイツが少し変わったのは知っていた。噂なんかじゃなくて、俺は見ていた。伸びた背筋がきれいなこと。少しぎこちないけれど、あたたかな笑顔が増えたこと。
何が理由かなんて知らない。だけど、俺はそれに惹かれていた。もう一度話したいと思った。その笑顔を向けてほしい、そんな事を考えていた。
だけど、相変わらずそんな機会はない。同じクラスにいてどんなに見ていても、詩穂と俺の目が合う事は一度たりとも無かった。気軽に声をかけられるような雰囲気でもなかった。
だから、嬉しかったのだと思う。
初めて会った時みたく、また始められる。そんな風にさえ思った。
けれど、詩穂は笑わなかった。俺に気付いて、俺を見て、あいつは顔を強張らせて、目を伏せた。拒まれているという事実を、はっきり目の前に突き出された瞬間だった。
(………どうして)
俺は、ただお前と話したいんだ。前みたいに、曲の事とか、それ以外のどうでもいい事とか。
それなのに、どうしてそんな顔するんだ。他の奴らには笑って、俺にはどうして。
―――「……ごめんね、私、もう行くから…」
―――「…待てよ」
そう言って、俺の横を通り抜けようとしたあいつの腕を、俺は掴んだ。
納得いかなかった。悲しかったし、許せないとすら思った。あいつが驚いたような顔をして振りほどこうとしたから、その気持ちは尚のこと強くなった。
どうして、お前がそんな顔をするんだよ。拒んでいるのは、お前のくせに。
「はなして」と言う詩穂を、けれど俺は離さないまま、引っ張った。離したくなんて、なかった。やっと、捕まえたのに、離せるわけがない。
―――「どういうことだよ」
―――「なに、言って……」
―――「とぼけんな!」
叩きつけるような俺の声に、詩穂はただ震えるだけだった。もしかしたら、泣いていたかもしれない。それを見て、俺自身も腹が立つのか悲しいのかわからなくてぐちゃぐちゃだった。
掴んでいた腕は細かった。詩穂は女子の割には背が高いけれど、それでも俺よりは小さいしやっぱり華奢だ。少し力を入れたら折れてしまいそうだと思った。
こいつを好きなようにするのなんて、実は簡単なんじゃないかと、俺は詩穂を壁際に追い詰める。言いたいことも、聞きたいことも山ほどあったけれど、そんな事はどうでもいいような気さえした。
正気じゃなかった。頭ではダメだとわかっているのに、同時に、制止することを放棄してしまっていた。こうなることは別におかしい事でも何でもなくて、だから志波に止められた時は、邪魔されたとさえ思って腹が立った。
(…どうかしてる)
こんなにも拒まれて、そしてあんなに酷いことをしておいて、状況は絶望的だっていうのに、気持ちは止まりそうにない。
理由なんてわからない。忘れてしまいたいと、もうやめようと思わないわけじゃない。けれど、そうしようとする度に、ストッパーみたいにいつかの笑顔が浮かんでくる。
「…なっさけねぇ…」
こんな事で涙が出るなんて、まるで女みたいじゃねーかと目元を乱暴にこすった。心はボロボロで、何にもやる気にならない。それでも明日は来るし、学校にもバイトにも行かなきゃいけないのがどうにも煩わしかった。
もうすぐ夏休みに入るのが、せめてもの救いだろう。
ぼんやりと、部屋の天井を眺める。浮かんでくるのはあいつの顔ばかりだった。目を伏せて、俺を拒む顔。笑わない詩穂。思い出したって憂鬱になるばかりだっていうのに、俺はあいつの事ばかりを考える。
あんな最低な別れ方をしたばかりなのに、懲りずにもう一度会いたいと願っている。
(今頃、どうしてんのかな……)
泣いているだろうか、怒っているだろうか。どっちにしても悪い印象には違いない。
それでも、どんなでも、自分の事を考えていてくれればいいと、そんな事を考えながら、俺は目を瞑った。救いようのない考えだとは、わかっていたけれど。
今でも、掴まれた手首が熱い。
あの時、屋上に行ったのはただの気まぐれだった。帰宅部の私はする事もないし、その日はクリスくんの「モデル」を務めることもなかった。
だから、会ってしまったのは本当に偶然。だけど、それは、初めて会った時とあまりにも似ていて、心がほんの少しだけ動いた。
でも、すぐに思い直して私は顔を伏せた。どんな顔をすればいいのか、ハリーにだけは私はダメなままだ。
だって、嫌われてる人に笑い掛けるなんて、あまりに私が惨めで滑稽だと思う。だから、屋上からもすぐに出ていこうとしたのに。ここは、ハリーのお気に入りの場所だから。
横をすり抜けようとして、けれど、それはハリーによって止められた。ハリーは私の腕を掴んで、すごく怖い顔してこっちを見てた。
それは単純に怖くて、そして、そういう表情しか見ることが出来ない事が悲しくて、私は一刻も早くそこから立ち去りたかった。けれど、腕を掴む力は緩まない。それどころかますます強くなって、私を引っ張った。
―――「どういうことだよ」
彼が、何に対して怒っているかはわからない。
どういうこと、だなんて、聞きたいのは私の方だ。どうしてハリーはそんなに怒ってるの。どうして私が嫌いなのに関わってくるの。
(どうしてそんなにも、私の事が嫌いなの)
気を抜くと声を上げて泣いてしまいそうで、私は必死に口唇を噛みしめた。ちょっとくらい外見が変わったって、私は結局何も変わってない。それを、思い知らされた気がした。
早く夏休みになればいいのに。そうすれば少なくともその間は会わなくてすむ。
(……同じだったのに)
あの時、先に私が屋上にいて。ハリーが後から屋上に来て、私を見つけて。
―――俺の歌、歌ってたの、お前かよ?
初めからぶっきらぼうな話し方だった。それでも、私はあの時笑えた気がする。そして、ハリーも笑ってくれた気がする。
あの時と、まるでそっくり同じだったのに。私が笑えば、違ってたのかな。あんな風にならなかったのかな。
そんな事を思いながら、私は眠った。夢の中のハリーはやっぱり口は悪かったけれど、笑っていた。
pour que la nuit soit propice