例えば、私の目がもっと良く見えたなら、世界はもっと輝いていたのかな。

例えば、私の声がもっと澄んでいたなら、誰かに見つけてもらえたのかな。

例えば、私の手がもっと優しかったなら、あの人は感謝してくれたのかな。

例えば、私が。



例えば、私が、もっと――――――



春って、どうしてこんなにも優しい色に溢れているのだろう。空も雲も花も、みんなみんな優しくて甘い。
けれど、だからって私の心は浮き立ったりなんてこれっぽっちもしない。むしろ憂鬱だった。何だか周りはみんな春の気配にあてられてどこか陽気だ。春になったってだけなのに、何か新しくなったような気になって、バカみたい。
だけど、そうなれない自分もどうしようもなく嫌で、頭痛がしそう。私って、つくづくかわいくない女だと思う。

通学途中、何となく視界に入る同じ制服を着る女の子達。彼女たちはみんな明るくてあどけなくてかわいい。そして、それを見るたび、私はどうしようもないくらいの劣等感を持つ。同じ制服を着ているはずなのに、あの子たちと私が着ているものはまるで別のものに思えた。
あのかわいい制服だって、私が来たらまるでどこかの教会の修道女みたい。
しかも、黒ぶちの、中学の頃から変わらない眼鏡をかけてて、髪も伸ばしっぱなしだし、おまけに姿勢があまり良くない。これじゃあまるで、本当に俗世から逃げてきた修道女みたいだと思う。
でも、どのみち今の私にはぴったりだ。修道女は神様の傍に仕えなければならないけれど、少なくとも私はこうして学校に来れるというだけで、それ以外は何も望まないし望んだって叶わないのだから。

教室に入ると、「詩穂ちゃーん」と朗らかな声に呼び止められる。声と共に、一人の女の子にがばりと飛び付かれた。ちなみに「詩穂」というのは私の名前だ。

「おはよ!えへへ、窓から詩穂ちゃんが来るの見えたから驚かせてみました!」

びっくりした?と、嬉しそうに見上げてくるのは、同じクラスの海野あかりちゃん。明るくてかわいくて友達もいっぱいいて――そんな、私とは対称的な彼女だけれど、何故かというか、だからというか、物凄く友達の少ない私とも仲良くしてくれる。私にとってはとても大切な、救いとも言える存在だ。
それでも、いきなり抱きつかれたのはさすがに驚いて、私はほんの少し戸惑いながら彼女をやんわりと私の体から離した。ふうわりと、彼女から甘い香りが漂う。

「おはよう。でも、こんなところ、志波くんに見られたら大変だよ?」

そう言うと、あかりちゃんのほっぺたがぽおっと赤くなる。こういう時のあかりちゃんは本当に、びっくりするくらいかわいい。やっぱり恋をしているからかな。まあるい目がまるでうさぎみたい。あかりちゃんは背もそんなに高くないから、志波くんといると本当に小動物みたいだ。
そして、そんな小動物なあかりちゃんを、志波くんはまるでお姫さまみたいに大切にしてる。本人達は気付いていないけど(でも私は、志波くんは絶対確信犯だと思うのだけど)結構有名なバカップルだ。

コイ。そのたった二文字は、けれど私にとってはまるで鉛みたいに重たい。触れると痛いから、それは心のずっと深くに追いやってしまった。



恋なんて、もう二度としない。



「はよーっす」

ガラリと、勢いよく開くドアの音と共に、よく通る大きな声が教室中に響く。その声に、私の肩はびくりと揺れた。思わず振り返ってしまいそうになるのを必死でこらえて、私は自分の席に向かって歩いた。

私はきっと神様に嫌われているんだと思う。だって、そうでなきゃこんな事になるわけないもの。
結構たくさんのクラスがあって、その中でたった一人同じクラスになりたくない人とこうして同じクラスになるだなんて。神様レベルの意地悪だとしか思えない。

溜息をつくことすらなく、私はただ黙々と授業の準備をする。勉強は嫌いじゃない。少なくとも、その時は何も考えなくて済むから。彼の周囲は何だか賑やかだったけれど、私は知らないフリを決め込んでいた。

少し前なら、あの華やかさに目を奪われていたのに。その中に入って行くことは出来なくても、遠くから彼を見ているだけでも私の世界は色づいていたのに。



――知らねぇよ、あんなヤツ。



あの、朗らかな挨拶とおんなじ声に、私は否定された。



――好きになんか、なるわけねぇ。



あの冬の日に聞いたそのまま、どこも間違えずに私はそれを思い出す事が出来る。嫌になるくらい、鮮やかに、はっきりと。

恋をしたら、それが成就してもしなくても財産になるだなんて、一体誰の戯言だろう。それなら私にとって、あの恋は負の財産だ。



始業開始のベルが鳴る。私は俯いたまま、先生が入ってくるのをじっと待っていた。







le commencement