初めて聴いた時、きれいなメロディだなって思った。
きれいというのは、少し違うかもしれない。どちらかといえばありふれた、何でもないようなシンプルなメロディ。
でも、私はそのメロディを聴いて、すっかり気に入ってしまった。屋上にいた時に微かに聴こえてきた音、たぶん音楽準備室で弾いてるのかもしれない。それか、第1か、第2。
吹奏楽部の人だろうか。でもギターって…吹奏楽で使うのだろうか。
それはアレンジが変わったり、コードが変わったりしたけれどメロディは変わらずあった。雰囲気からして曲を作っているらしい。
屋上に聴こえてくるそれをこっそり聴くのが、いつの間にか私の楽しみになった。部活もバイトもしていない私は授業が終われば特にすることもない。
いつもいつも聴けるわけじゃなかった。けれどそのうち、そのスケジュールもわかってきた。
色々なメロディや、ちゃんと曲になったものなんかも時々聞こえてきた。けれど、私はやっぱり一番初めに聴こえてきたものが一番好きだった。
何故かなんて理由はない。ただ、それだけはひどく心に残って、何度でも聴きたいと思ってしまうのだ。
聴こえてくる音を頼りに自分で口ずさんでみたりした。いわゆる「耳コピー」っていうのだろうか。歌は好きだった。昔、合唱で歌っていたから。
けれど、音楽というのは私にとってきちんと楽譜から読み取るものであって、こんな風に音だけ頼りに必死に覚えるものではない。こんなのは初めてだった。
歌うのは好きだけれど、どうしても歌いたいと思ったのは初めてかもしれない。
誰が、という事には当然興味はあった。そしてそれはそれほど苦労なく知ることが出来た。針谷幸之進という人だ。
彼は入学当初からあちこちでミュージシャンになると言っていて、ライブなんかもやっているらしい。
見た事もある。声が大きくて、流行に敏感そうで、いつも人の輪の中心にいそうな、それでいてどこか皆とは違う人。
少なくとも、私の人生には関わってこなさそうな人だな、とは思った。同じ学校に通っていながらまるで違う世界の人だ。
だからといって、私は特別驚きもしないし、淋しいとか哀しいとか思ったわけでもなかった。たとえば、テレビに出てくるミュージシャンとかアイドルなんかが別世界の人達だと思うのと同じだ。
私にとって、ハリーはそういう人だった。…少なくとも、初めの頃は。
ある時、私はこっそり歌っているのをハリー本人に見つかってしまった。
あの時の気まずさと恥ずかしさは今でもハリーの頭から取り出したいくらい恥ずかしい思い出だけど、とにかくそれが私とハリーとの出会いで、始まりだった。
勝手に歌ったりして、きっとすごく怒るだろうと思った。それか呆れるか。
上手な人が歌うならともかく、私みたいなのに歌われるのはもしかしなくても嫌だろうと思ったから。
私がハリーなら、きっと嫌な顔をしたと思う。そんな反応でも仕方ないことだと思った。
でも、ハリーはどちらでもなかった。確かに驚いてはいたけど、怒りもしなかったし呆れもしなかった。
ハリーはただ黙ってギターを鳴らす。それはあのメロディーの曲のイントロで、つまりは「歌え」ということなのだとすぐにわかった。
不思議なことに、私は何の抵抗もなくそのギターの音にのって、歌ったのだった。怖いとか、申し訳ないとか、そんなのはいつの間にか忘れていた。
むしろ嬉しいとすら思った。ただ、ハリーが作ったこのメロディが私も大好きで、そしてそれが少しでも伝わればいいと思った。それだけだった。
あの瞬間は、今でも私の宝物だ。
――良い声してんじゃん。
――俺は、歌に関しては嘘はつかねぇ。
(あんな風に言われたのは初めてだったな)
それは、何でもない日本語なのに、どうしてあんなにも特別に聞こえたのだろう。
今まで、特別怒られたり非難された事はないけれど、だからといって誉められることもあまりなかった。それについて疑問に思ったり苦しんだりすることすらなかった。
あらためて考えると、ハリーは私にたくさんの「はじめて」をくれたのだ。はじめて聴いていたいと思った歌。歌いたいと思ったメロディ、嬉しかった言葉。
よろこびもかなしみも、笑顔も痛みも、たぶん全部が。
(……イヤだな)
どうしてこんなにも何もかもはっきり思い出せるのだろう。その度に、まるでついさっき起こった出来事のように胸が甘く痛む。
どんな流行りの歌も、もう私の耳には入ってこない。歌と聞いて思い出すのは、ハリーの歌。
他にもたくさんあるはずなのに、気付けばそれを真っ先に思い出すのだ。今でもまだ。
「…もう行かなきゃ」
ここに来るとロクな事を思い出さない。いつまでたっても整理できない。
気付けばもう夕暮れ時だった。夕方は嫌いだ、一人でいると孤独感ばかり煽られる。
肘をついていた手すりから、体を離す。
誰もいない屋上は、やけに広くて静かだった。