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クリスマス・キャロル <3>
 
  
※注意
  
こちらのお話では 
佐伯デイジー→海野あかり 
志波デイジー→一ノ瀬さよ 
針谷デイジー→蒼井詩穂 
氷上デイジー→麓 夏生 
赤城デイジー→日下伊織
  
となっております。
 
 
 
 
 
  
君との時間は、僕にとっては幸福の手触りがする。
 
 
  
会場中央にある大きなクリスマスツリー。壁中にある、りぼんやキラキラ光る飾り(それを何と呼ぶのか赤城は知らない)、外には星のように細かな電飾。ビュッフェ形式。
  
クリスマスパーティの会場というのは、大体どこも変わらないなと赤城は辺りを眺めながら思う。もちろんその凡庸さはある意味愛すべき気安さであり、そして、そもそも赤城はそれが綺麗だとか貧層だとかいう事にはさして興味がないのだった。 
もう少し簡単に(そして正確に)言えば、赤城にとって興味のある対象とはここではただ一つ――いや、唯一人、ということになる。
  
「一雪くーん!」 
「……伊織」
  
嬉しそうに近付いてくる恋人は、赤城の目にはこの会場で一番かわいく見える。…ここに来るまでの彼女の運転には大変な思いをさせられたけど。 
彼女が手に持っているお皿の上の色とりどりのお菓子の山を見て、赤城はくすりと笑った。きっとまた「かわいい」とか何とか言って、何も考えずに欲しいと思った分だけ取ってきたに違いない。
  
「ねぇ、見て見て!これかわいいでしょ?あのね、コレとコレとコレはさよちゃんが作ったんだって!あ、さよちゃんっていうのは…」 
「はいはい。かわいいのはわかるけど、そんないっぺんに食べたらまたダイエットで悩むんじゃないの?もうお菓子は食べないって言ってなかったっけ?」 
「きょ、今日はいいの!それは明日からなの!」 
「それ、いつも言ってるけど?」 
「もう!一雪くん!」 
「ごめんごめん、謝るからそんな膨れないで」
  
そう言って、伊織のふくれたほっぺたを指で突くと、「ぽすん」と間の抜けた音がした。
  
「…それにしても盛況だね。結構な人数を招待したんだ」 
「うん、どうせならたくさんいた方がいいよねって夏生ちゃんが…あっ、でも、はば学の人はあんまりいないのかな…」 
「いいよ、別に。僕は君といられるのが嬉しいんだから」
  
もう一度会場に目を向け、赤城は高校3年間の学校主催のパーティを思い出してみる。それなりに楽しかったはずなのに、何があったのかあまり憶えがない。クリスマスパーティだけじゃない。体育祭だって文化祭だって、何かイベントがあるといつも一つの想いに囚われていたから、それ以外の事が希薄だった。
  
「今日はきっと初めて忘れられないパーティになるな」 
「え?」 
「君と一緒だから」
  
いつもいつも、偶然に会うだけの女の子の事を考えていたから。あの子と一緒ならどんなに楽しいだろうってずっと思っていたから。
  
「…うん。私も、一雪くんと一緒にクリスマスパーティ出来て嬉しい」 
「うん、良かった」
  
伊織は、赤城の顔を見てにこりと笑う。ほんのりと赤いほっぺたのせいで、メイクをしていても少し幼く見える笑顔が高校の頃を思い出させる。 
あの頃僕は、君のその笑顔ばかりを必死で思い出していたっけ。まるで学校で毎日会うみたいに。
  
そしてお互いに3年間そうしていたのだから、やっぱりこれは運命だと思う。他の誰が笑ったとしても。
  
「…あぁ、そうだ。忘れないうちに」 
「なぁに?」 
「これ、プレゼント。クリスマスだから」
  
用意していた包みを渡すと、彼女は手にしていた皿をテーブルに置いて「ありがとう!」と両手でそれを受け取った。
  
「何だろう?開けてもいい?」 
「もちろん」
  
包み紙を丁寧に開けていく伊織の指先をじっと見る。丸く切りそろえられた爪には、薄い桜色をしていた。 
中身が出てきた途端、伊織は歓声をあげた。
  
「わぁ…!これって…!」 
「…結構苦労したんだぜ?色んな意味で」
  
包みから出てきたのは彼女が以前好きだと言っていたうさぎのぬいぐるみだ。赤城は全く知らなかったが、このうさぎは中々に人気があるらしく、色々な種類が出ている(つまり季節ごとに着ている服が違っていたりだとか、そうい事だ)。彼女にプレゼントしたのは「クリスマス限定バージョン」らしかった。 
伊織はそれきり黙ってぬいぐるみを見つめている。天使みたいな羽のついた服を着せられたうさぎが、間の抜けた顔を包みからのぞかせていた。
  
「…えっと、気に入ってくれたらいいんだけど。これ、確か好きだったよね?」 
「うん…すごく、すっごく嬉しい!だって、一雪くんがこれをプレゼントしてくれると思わなかったから…!」 
「そう?」 
「…子供っぽいって思われてるだろうなって…」 
「そりゃそうだけど、でも、それでも伊織がそれを好きならプレゼントしたいなって思ったんだ」 
「ありがとう、一雪くん。大事にするね」
  
ぬいぐるみを抱きしめて笑う伊織を見て、赤城は満足する。ありがとうはむしろ自分の方だ。今日のように一緒にクリスマスイブを過ごして、プレゼントを喜んでくれる笑顔を見せてもらえたんだから。 
去年までは、どんなに願っても夢でしかなかった。
  
「でも、一つだけいいかな」 
「なに?」 
「そいつを大事にしてくれるのは嬉しいけれど、僕のこと、忘れないでくれよ。それでなくてもかわいくない分、分が悪いんだからさ」 
「…ぬいぐるみだよ?比べようないと思うんだけど」 
「そんなことない。ぬいぐるみでも、譲れないものは譲れない」 
「…もぅ、そんな事ばっかり言うんだから」
  
困ったような顔をして伊織は赤城を見上げる。それからふと、何かに気付いたように彼女は辺りを見回した。周りに自分たちを見ている人間がいない事を確認してから「あのね」と小さな声で囁く。 
柔らかそうなほっぺたは、ほんのり赤かった。
  
「何?」 
「私だって、いつも一番だからね」 
「え…」 
「…一雪くんのこと、一番大好きだからね」
  
早口に囁かれた言葉に反応する間もなく、伊織は「飲み物取ってくるね!」と走って行ってしまった。…うさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま。
  
「…まったく。ウサギを持ったままどうやって持ってくるつもりなんだろうね、あの子は」
  
追いかけなければと思う。あのままでは、ぬいぐるみを持ったままオロオロするに違いない。…けれど、もう少ししてからにしよう。
 
 
 
 
  
きっと火照っているに違いない顔の熱が静まったなら。
 
 
 
 
 
   
僕よりも君の知る、あの夢のあざやかさは。
 
 
  
多少は安っぽい食事と飲み物。明らかに素人の手でされたらしい会場の飾り付け。そこかしこにみえる隠しきれないチープさが、かえって当時あった学校主催のクリスマスパーティを思い出させる。
 
正直あまり良くは憶えていないのだけれど、大体今みたいな雰囲気だった。どこか隙の見える野暮ったいような会場、そこで何の疑問もなく浮かれている学生たち。 
考えてみればそれは他愛の無いささやかな、考えようによって悪くないイベントだったはずだ。あの頃、自分はどうしてあんなにも嫌悪していたのだろう。 
クリスマスパーティだけじゃない、いつだって、自分は一人になろうとしていた。そのくせ、結局完全には切れなかった。
  
「…ねぇ、瑛くん」 
「ん?なに?」 
「やっぱり怒ってる?…内緒でパーティ考えてたこと」 
「…そんなわけないだろ」
  
怒るわけがない。あかりが自分の為にこのパーティを発案したというのだから、それが嬉しくないわけはない。
  
大袈裟に言うと、海野あかりは、佐伯と、佐伯以外のものを繋いでくれるかけ橋のようなものだと言ってもいい。必要が無い意味が無い。そう言って(あるいはそのようなフリをして)切り捨ててきたものを、あかりは佐伯に繋ぎ止める。本当は捨てたくなかった、捨ててはいけなかったものを、時には何でもないような笑顔でだったり、ある時には必死に泣いたり怒ったりして佐伯に気付かせる。彼女を守りたいと思っているのに、実のところ守られているのはどっちなのだろうと思わされる時があるくらいだ。
  
「…俺、お前と会わなかったらどうなってたんだろうな」 
「え?」
  
どこからかクリスマスソングが聴こえてくる。確か、針谷が歌うと言っていただろうか。去年の学校のパーティでも歌ったんだって話してくれた。 
志波は一ノ瀬が全然スキーを滑れなかったことに呆れただとか、氷上は夏生が出された料理を包んで持って帰ろうとしたのを必死に止めただとか、そういう話をバカみたいだと思いながらも好ましく思えるのは、きっと、あかりに出会ったからだと思う。ほんの少しだけ、羨ましいなと思える事も。 
『珊瑚礁』を守ること以外何も見えなかったあの頃を、佐伯は後悔はしていない。ただ…、そう、もっと思い出が出来たかもしれないのに、とは、思っていた。あかりとももちろん、自分自身にとっても。
  
「…私は、佐伯くんとはきっとどこかで会っていたと思うよ」 
「…え?」
  
今度は、佐伯が聞き返す番だった。 
彼女は相変わらずの力が抜けるような、けれど、少しの疑問も不安も感じさせない笑顔を、佐伯に向ける。
  
「うまく言えないけど、そんな気がするんだ。それで、やっぱりケンカしたりお説教されたりするんだけど…でも、やっぱり」 
「…やっぱり?何だよ」 
「…もうっ、鈍感お父さんっ!」 
「イタッ!不意打ちはヒキョーだろ!それから、お前に鈍感とだけは言われたくない」 
「…ホントはね、私がしたかったの」
  
突然勢いのなくなったあかりの声に、佐伯は思わず彼女を見る。あかりの着るドレスはあっさりしたデザインだけれどよく似合っていて、それこそ、物語の人魚姫のようだと思った。 
とてもきれいで、うっかり触れる事も躊躇うような。
  
「ほら!去年は瑛くん欠席してたし…二人きりだって嬉しいけれど、皆と一緒にいる時に瑛くんとクリスマスお祝いしたいなーって…あ!もちろん、一番の理由は瑛くんに去年の雰囲気を楽しんでほしいって事だけど」 
「…わかってるよ」
  
肩を掴んで、そっと自分の方に引き寄せる。完全に照れ隠しだけれど、この際かまわない。 
そう、本当は、キライじゃない。いつもいつもカッコつけて遠ざけてきたけれど、…本当のところはやっぱり照れて口には出来ないけれど。
  
こうして皆でバカみたいに騒ぐのは、戸惑うけれど、嫌じゃない。その中に、自分が違和感なくいられる事が素直に嬉しい。 
そんな自分のすぐ隣に、あかりが居てくれる事が嬉しい。
  
「でね。パーティの準備にかかりきりになっちゃって…肝心のプレゼントが用意出来なかったの。…ごめんね」 
「いいよ。…こういうの、ハズカシイけどさ。でも、充分嬉しいから。…それと」
  
…これくらいはいいよな?と、心の中だけで確認してから、佐伯は少しだけ身を屈めた。さらりと、あかりの細い髪が指に絡む。
  
「…っ!ちょ、ちょっと瑛くん!?こんなところで何…!?」 
「ば、ばか!大きな声出すなよ!他の奴らにバレるだろ!!」 
「つーか、ばっちり丸見えだっつーの!そこのバカップル!どうせならここにいる参加者に宣言してからしろ!」 
「できるか!」
  
マイクを通した針谷の声に言い返して睨みつけながら、うっかりキスも出来ないなんて、やっぱり二人きりの方が良かったかもしれないと佐伯は思った。だが、思ったほど悪い気はしない。
 
 
 
 
  
それから知らず笑顔になっていた事に、佐伯はしばらく気付かなかった。
 
 
 
 
 
  
君の涙と夜空の星なら、その美しさはもちろん比べるまでもない。
 
 
  
「…なぁ」 
「………」 
「なぁってば。おいコラ、返事くらいしろ!」 
「…やだ」 
「やだ、ってなぁ…」
  
会場の周りはちょっとした庭園のようになっていて、そこはキラキラと星のような電飾が施されている。夜空は、目で見てもわかるくらい厚い雲で覆われていて、いつもの夜より明るく思えるから不思議だ。 
風は冷たい。針谷は「さみ」とジャケットの襟を掻き合わせた。 
詩穂は半歩ほど先でじっと地面を見つけている。落ち込んでいる時、彼女はよくそうした。半歩距離があるのは、近づこうとするとその分だけ彼女が離れるからだ。
  
頼まれていたクリスマスソングも歌い終わり(もちろん、頼まれなくても自分はそうしただろうと思うけれど)、会場の隅っこで管を巻く彼女をここに引っ張り出して来たのだった。 
例えば、彼女がまるでファッション誌から抜け出してきたようにメイクをしてドレスアップしていても、また逆にすっぴん同然で冴えない眼鏡をかけて地味な格好をしていたとしても、どうあっても間違いなく彼女を見つける事が出来るのは自分だけなのだと針谷は思っている。 
今、視線の先で俯く彼女は前者だ。このまま写真を撮っても誌面の一ページを飾れるに違いない。取り立てて凝ったメイクでも髪型でも服装でもない。すんなりした黒いドレスに、髪は無造作に後ろでまとめているだけだ。アクセサリーだけは少し大きいものを付けているくらい。それでも、これだけ惹きつけられてしまう。 
いつの間にこんなに綺麗になってしまったんだろうと時々不思議に思う。それとも、そう見えるのは自分だけだろうか。恋は盲目、という言葉があるくらいだから。
  
はぁ、と、針谷は息をつく。吐き出した息が白く煙って空中に消えた。
  
「…あのな。んな落ち込むことないだろ。俺は別に気にしてねーよ」 
「……でも」 
「確かにちょっとばかし騒ぎになるかもしれねーけど。やっちまったもんは仕方ねーじゃん」
  
ぴくりと、視線を合わせようとしない詩穂の肩が揺れた。その揺らぎを、見逃すはずはない。
  
「…っ!ちょ、っと!いきなり引っ張ったら危ない…っ」 
「ばーか!引っ張らなきゃこっち来ないお前が悪い!…やっとマトモに顔見れたっつの」
  
ヒトのことばかりは言えないが、男というのは見た目の美しさに騙されやすい。 
詩穂とは今のようになるまでに色々あった。そして今はお互いに忙しい為に思うように時間が取れない。だから、不安は今でも尽きなかった。
  
(だって、こんなイイオンナを放っておくバカがどこにいるよ)
  
詩穂は自分の事を好きだと言ってくれる。そして、それを信じている。 
でも彼女は知らない。自分自身にどれだけ魅力があるか。高校の頃のように、針谷だけが知っているものではなくなってしまっていることを、彼女は気付かない。
  
本当は、少し気付いていた。お互いに好きだとわかっていてもどこかでキョリがある。信じているから何も言わなかった。でも、もどかしい思いも正直持っていた。 
ひくっと、しゃくりあげる声が鼓膜を震わせる。ぎゅっと目を閉じて涙をこらえようとする顔は、たぶん自分しか知らない顔だろうと妙な優越感を持ちながら、針谷は間近にある詩穂の顔を見つめる。
  
「…何泣いてんだよ。折角キレイに化粧してんのに崩れるだろ?」 
「っく、だ、って、…ファンの人がいるのに…、わかってたのに…」 
「だから気にすんなって!あれくらいの事、俺らは何とも思ってねぇし、どうもならねぇ。むしろ、お前のバイトがし辛くなるかもしれねーけど」 
「私はいいよ!だけどハリーは…、今、凄く大事な時なのに、でも、あんな事したら…私、わかってたのに、なのに」 
「…俺は嬉しかった」
  
え、と、目を見開いて自分を見る表情はひどく無防備で、幼い。その表情を見ると、何故だかとても愛おしいという気持ちが溢れてくる。 
こんなに俺はお前の事を好きなのに、ちっとも気が付かずに泣くってのはどういう事なのだろうと、心底不思議になった。不思議すぎておかしくなって、笑いだしたいような気持ちになる。
  
「お前がああいう風にイシヒョウジすることって滅多にないからな。それでなくてもやたらと恥ずかしがるし。だから良いクリスマスプレゼントもらったなーって思ったんだぜ?」 
「ぷ、ぷれぜんとって…私はそんなつもりじゃ…!」 
「わかってるよ。つーか、いい加減グダグダ言わずに認めろ!俺は嬉しかったって言ってるだろ?大丈夫だから。お前が心配してるような事にはならねーし、お前の事は絶対守るって、もうずっと前から決めてる」
  
これだけは、自分でも呆れるくらい頑固な気持ちだ。…何せ、詩穂に嫌われても変わらなかった想いなのだから。 
もしかしたら、ファンの何人かは離れたかもしれない。でも、誰が離れても詩穂がいてくれれば俺は歌える。 
こつんと、詩穂の額に自分のそれをくっつける。当たった部分は冷たかったけれど、寒くはなかった。
  
「…私、あの子たちにヤキモチ焼いてた。…取らないでって。…そんな事、心配する事じゃないのに。でも考えたら…そのまま動いちゃって」 
「おう、どんどん焼け。そんで、俺の事だけ考えてろ」 
「…ふふ、バカ」 
「何だよ、俺は本気なんだからな!」 
「言われなくても」
  
言われなくても、私はいつもハリーの事ばっかり考えてるよ。
  
そう言って笑った顔は、きっとどの写真とも比べられないような笑顔。
 
 
 
 
  
「あ、そうだ。プレゼントはちゃんとあるんだよ。…ケーキ、作ってみたの」 
「…作った!?お前が?」 
「うん。さよちゃんに色々教えてもらって。…形はちょっと悪いけど味はまぁまぁだと思う」 
「まぁまぁ…」 
「ちょっと…色も変なんだけど」 
「色が変……」 
「どうしてそうなるのか私もよくわからないんだけど…頑張って作ってみたんだ」 
「…そ、そうか、そりゃ楽しみだな!うん、手作りだからな、ちょっとくらいオカシナ所はあるよな!」 
「そ、そうだよね。…作ってよかったぁ」 
「…………(言えねぇ。こんな嬉しそうな顔してるのに食えねぇとはゼッテェ言えねぇ…!)」
 
 
 
 
 
  
君の体温の傍は、いつも僕でありますように。
 
 
  
「ふあぁ、寒い…!」
  
小さくくしゅん、と聞こえたので、志波は前を向いていた視線を一ノ瀬さよの方に向ける。片方の手には今日のパーティの荷物。もう片方には彼女の手。 
手袋を忘れたらしい彼女の指先は冷たく、そして少しかさかさしていた。普段のマネージャー業に加え、今回のクリスマスパーティでの大量の(そして多種類の)お菓子作りのために少し荒れているらしい。 
「お菓子、みんなに誉められたよ」と嬉しそうに報告してくれた彼女の笑顔から、この企画にはやはり関わって良かったのだと思う。ただ一つだけ、この小さな手がいつも以上にがさついてしまって痛々しく赤くなった事は、あまり知られていない。 
いや、別にそれはかまわない。自分だけが知っていればいい事だ。
  
もう一度、くしゅん!と聞こえて、志波は少し笑う。笑ってから、彼女の首元に巻いてあるマフラーを直してやった。 
こういう事をすると時折周りからは「過保護だ」と言われるのだが、別にかまわない。要は自己満足、なのだと思う。志波は、さよを甘やかすのが好きだ。 
自分のマフラーに志波が触れた事が不思議だったのか、さよは志波の方をきょとんとした表情で見上げる。 
目が合って、あぁ、こういう顔も好きだなと、改めて確認する。
  
「マフラー、変になってた?」 
「あぁ」 
「ほんとう?」 
「嘘だ」 
「え?嘘なの?」 
「さぁ…どうだかな」 
「えぇ…?け、結局どっち?」
  
困惑顔のさよに、志波はますます笑みを深める。もちろん、彼女のマフラーが変であろうがなかろうが、そんな事はどうでもいい事だ。 
墨色の雲に塗り込められた空に、視線を移す。
  
「…雪、降らなかったな」 
「そうだねぇ、これから降るかもしれないね」 
「今日は色々、美味かった」 
「あ、お菓子?うん、がんばって作ったんだ。後ね、詩穂ちゃんが作るのを手伝ったりね」 
「大変だったな」 
「でも、楽しかったよ。羽学の皆で集まることって中々ないし…、佐伯くんも喜んでくれたし、大成功だよねって夏生ちゃんと話してたんだよ」 
「…そうか」 
「…えーと、志波くん?私、やっぱり何か変?」 
「いいや」 
「でも、志波くん、笑ってるでしょ。どうして?」 
「お前が楽しそうだから」
  
そう言うと、不意にさよの表情が曇る。よくあることだ。彼女は言葉少ない自分に妙な勘違いを起こす。 
あっという間に不安そうな顔をするので、悪いと思いながらも志波は笑いがこみ上げてくるのを抑える事が出来ない。そうすると、さよはますます困った顔をした。 
こんな時ですら甘やかな気持ちになるのは何故だろうか、わからない。それにしても何て心地よい疑問なのだろうと、いつも思う。
  
「…志波くんは、楽しくなかった?」 
「そんな事ない。…でも、そうだな」 
「…ぇ、わわっ…!?」
  
楽しかったし、満足もした。概ねは。 
けれども、強いて言うならば。
  
腕の中に閉じ込めたさよの体は、冬の冷気を纏って冷たかった。けれど、すぐに志波の体温にゆるゆると同化する。まるで溶けるみたいに。 
彼女と自分は何もかも違っていて、似ているところはほとんどないけれど、体温だけはとても近くて簡単に分け合える。 
幸運な事に、歩いていた夜道には志波とさよ以外は今のところ人がいなかった。お陰で、抱きしめているさよも腕の中に大人しく収まっている。 
分厚いコートの生地越しからでも、ちゃんと感じる。ちゃんと安心できる。 
がさりと、手にしていた紙袋が揺れて音を出した。
  
「…もう少し、お前といたかった」 
「……う、うん」
  
返ってきたのは小さな返事一つだけ。それでも志波は満足だった。充分だ、と思う。 
この小さな暖かみが、どこでもない自分の傍にあるのなら、それだけで充分だ。どこにも行かずに、ここに居てくれるなら。 
とはいえ、いつまでも突っ立っているのはさすがに寒い。名残惜しいけれど、この腕を解こうかどうしようかと考えていたその時、「志波くん」と、また小さく聞こえた。
  
「あ、あのね。明日は二人だよ」 
「ん?」 
「明日はクリスマスだから、えと、ふ、二人で…って、だめ?」 
「…クリスマスだから、か?」 
「べっ、別に、どうしても明日じゃなくってもいいけど…!」
  
おたおたと言い直すさよに、やっぱり志波は笑いを堪えるのだった。「過保護」の次に「タチが悪い」と加えられそうだ。 
けれど事実、困らせたくなるのだし、そして彼女はやっぱり困ってしまうのだから仕方ない。お互いに、同じ理由で。
  
「明日じゃなくても」 
「…え?」 
「明日でも明後日でも、いつでも。お前がそうしたいなら」 
「志波、く」 
「毎日だって、一緒にいる」
 
 
 
 
  
そうして触れた口唇は、今日食べたどのお菓子よりも柔らかで甘かった。
 
 
 
 
 
  
曇りのない君の空、揺るぎの無い僕の愛。
 
 
  
「残念だなぁ」 
「…何がだい?」
  
自転車を引っ張りながら、氷上は後ろから聞こえてきた声に応える。夏生は自転車の荷台に座っている。 
今日は「クリスマスパーティ」も大成功だったし、唯一不安だった資金も彼女の「功績」で余るくらいだったし、何よりも皆が楽しんでくれたのだから、何も悔いる事はないはずだと氷上はさっきまでの一連の出来事を分析する。やはり、どう考えても彼女が残念がるような落ち度は思い当たらなかった。 
夏生は「だぁって」と間が伸びたように言った。
  
「曇ってて、星が見えないでしょ」 
「あぁ、そう言われればそうだな」 
「なんだ。氷上くん、気付かなかったの?」
  
それはそうだ。彼女を乗せた自転車を引っ張って歩いているのだから、まさかぼんやり空を見上げるわけにもいかない。 
それにしても今夜は冷える。まるで触れる空気の分子一つ一つに氷が仕込まれているように。手袋をしていても、指先はつめたくなり、痺れたように感覚が薄い。雪が降るのかもしれない。
  
「冬のダイアモンド、見たかったのに」 
「…その話、憶えていてくれたんだね」 
「もっちろん!当たり前だよ!」
  
得意げに彼女は言ったが、それでも夏生は氷上の言葉の多くをよく忘れてしまっている。別に、病気だとかいうのじゃない(出会った当初は病的に記憶力が悪いと思ったものだが)。彼女は自分にとって大切な言葉しか憶えていない。そういう事なのだと、最近わかった気がする。
  
「氷上くんが、わたしにプロポーズしてくれた特別な話だもん」 
「ぷっ、プロポーズなどではないよ!ただ、クリスマスプレゼントだと…!」 
「でも、プロポーズみたいなもんじゃん」 
「そこは断じて違うぞ。あくまであれはクリスマスプレゼントの話だ」
  
更に言えば、彼女は自分の都合の良いように話を曲解するのが得意だった。だが、それでかえって話が進むと言う事実がままある事も、残念ながら認めなければならないが。 
夏生は、自転車の荷台に乗りながら、ブーツを履いた足をぶらぶらと揺らしている。そうしてぼんやりと、雲に覆われた空を眺めていた。
  
「…あのさぁ、氷上くん」 
「何だい?」 
「私がゲイノウジンしてるの、どう思う?」 
「どうって…」
  
突然の言葉に、言葉が詰まった。いや、突然、というわけでもない。彼女が「ゲイノウジン」になった事を考える時、いつも答えはきちんと出ることはない。 
本当のところ、自分はまだ信じ切れてないのかもしれない。テレビ画面の向こうの彼女と、今こうして自分の傍にいる彼女と、氷上にはいつもどうしても結びつけて考える事ができないでいる。
  
「ねぇ、そういえば。赤城くんは、ちゃんとうささん買えたかな?」 
「え?…あぁ、お礼のメールをもらったよ。きっと渡せたんじゃないかな」 
「そっかぁ。良かったね」 
「そうだね」 
「今日はさ、皆も喜んでくれてホント楽しかった!また出来ればいいのに」
  
カラカラと、自転車のチェーンの回る音がする。人一人乗せた自転車は、いくら女の子だと言ってもそれなりに重い。 
僕にとっては幸せだと、氷上はハンドルを握る手に力を込める。幸福の重みだ、これは。華やかな幻想なんかじゃなく、ちゃんと信じられる現実。
  
非常に矛盾した想いだと自分で弁えているが、氷上は彼女の芸能活動についてはむしろ誇らしく思っている。一方で、そこに映し出される彼女が、自分の知っている彼女とはどんどん離れていくことに怒りすら覚える。本人であるのに、本人ではない。そうとしか思えない。それなのに、そんな「彼女でない」彼女ですら、自分は魅入ってしまう。 
見境いが無いと言われても、言い返すことも出来ない。情けない男だと、思う。
  
少しだけ夜空を見上げる。雲に覆われた空には、一つたりとも星は見えなかった。本当に、残念だ。今日はどうしてこんなにも曇っているのだろう。
  
「…僕は、不安なんだろうな」 
「へ?何?とつぜん」 
「さっきの話だよ」
  
自分ではおよそ想像もつかない場所で、彼女の世界が構築されていく事に。そして、自分はそこには入り込む事は出来ないし、その気もない事に。 
理解も想像も出来ないものは、氷上を不安にさせる。失いたくないものが関わる場合は、特に。
  
「とても月並みだけれど、僕は、君が離れてしまうようで不安なんだと思うよ」 
「そんなこと、あるわけないよ」
  
軽い、けれども断固とした口調で夏生はそう言った。あるわけがない、私が氷上くんから離れてしまうなんて。
  
「氷上くんが辞めろって言うなら、私、いつでも辞めるよ」 
「違うよ、そんな事じゃないんだ。そういう事じゃない。ただ、君がテレビの中で笑っているのを見ると…。すごく遠いような、全然知らない人を見ているようなそんな気持ちになるんだ」
  
たくさんの人達が、君を褒めて、君を好きだと言う事は、自分の事のように嬉しいと思うのにね。
  
「私が笑っていられるのは」
  
それまでとは違う、ひどく真剣な響きに氷上は足を止める。振り返ると、強張ったように真面目な顔をしている夏生が自分を見ていた。
  
「私が笑っていられるのは、氷上くんがいてくれるからだよ。何度でも言うけど、氷上くんが、私の事を好きでいてくれるからだよ」
  
でなきゃ、あんなバカバカしいこと出来るわけないと、彼女はくぐもった声で呟いた。
  
「…ごめん」 
「氷上くんって、時々私より頭ワルイんじゃないかと思う」 
「そうだな。…僕は、君から見ればわかってない事が多いんだろうな。…でも、自分の仕事をバカバカしいなんて言ってはダメだよ」 
「バカバカしいよ。けれど、そういうものが求められる事はあるし、私はそういうバカバカしい事にすごく向いてると思うからやってるんだもん」 
「…驚いたな、そんな風に考えていたなんて。見直したよ」 
「もーっ!そういう時は惚れ直したって言うの!」
  
本当はね、と、氷上は再び自転車を引っ張りながら歩き始める。夏生は相変わらず足をぶらぶらさせてその自転車の荷台に乗っている。
  
「本当は、晴れていたら一緒に星を見ようと思っていたんだ。冬は星が綺麗に見えるから」 
「あーん!やっぱり残念だなぁ!さすがの私も、雲を晴らすことは出来ないや」 
「うん。だから今夜はやっぱり残念だったけれど、今度、時間が出来たらまた行こう。この自転車で迎えに行くよ」 
「うん!楽しみにしてる」 
「それで…あと、実はプレゼントがあるんだ、君に」
  
え、と、夏生は目を見開いて、それから少しだけ訝るように眉を寄せた。
  
「それってもしや、計算ドリルとか英単語集とか…」 
「まぁ、それは別にちゃんと用意しているけれどね」 
「わぁぁん!やっぱりぃぃ!」 
「こっちは…でも、気に入ってもらえるかわからないけれど」
  
一度自転車を止めて(もちろん道路の脇にだ)、氷上は小さな細長い包みを彼女に手渡す。綺麗にリボン掛けされたそれを、夏生は少しの間手にとって、それから断りもなくリボンを解いて包みを開けていく。 
それから、歓声が上がった。
  
「ペンダントになってる!」 
「小さいけれど、まるで星空みたいに見えるんだよ。それを見つけた時、君に贈りたいって思ったんだ」
  
贈ったのは小さな万華鏡だ。細い鎖がついていて、首にかけられるようになっている。考えてみれば、こういうものを彼女にプレゼントした事はなかったと思い、そして、それなら贈るのはこれしかないと思ってしまった。覗くと、小さな星空が見える万華鏡。
  
「…っ、ひかみくんっ!」 
「うわっ…ま、待ちたまえ!いきなり抱きついたりしたら危ないだろう!?自転車が…!」 
「だって、だって嬉しいんだもん!すっごく嬉しい!氷上くん、大好き!」
  
がっちりと首をホールドされて、危うく自転車を倒してしまいそうになった。何とか自転車を立て直し、彼女の背中に腕を回す。質量のあるファーのジャケットを着ているけれど、それでも自分よりはずっとずっと華奢なのだと改めて知った。力を込めれば、簡単に折れてしまいそうなくらいに。 
喜んでもらえて良かった、と思う。そして、僕も好きだよと、心の中で言った。君は時々突拍子もないし、話を聞いていない事が多いし、僕が全然知らない世界を進んで行くのだろうけれど。
  
この小さな星空が、僕の代わりに君の傍にあるよ。
  
その想いを込めて、氷上は夏生にキスをした。とても大切に想っていると伝わるように、優しく、触れるだけの。
 
 
 
 
  
「……氷上くん、もう、ケッコンしよう!やっぱりそれしかない!」 
「なっ…!だから、君はどうしてそう話が飛躍するんだ!」 
「えー!別にヒヤクなんてしてないよ!ケッコン、ケッコン!」 
「し、静かにしたまえ!近所迷惑になるじゃないかっ!」 
「大丈夫だよ!氷上くんのことは私がシアワセにしてあげるから!私、超自信あるよ!」 
「わかった!わかったからその話はまた今度だ!風邪をひかないうちに帰るぞ!」 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
HAPPY MERRY CHRISTMAS !!
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
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