きよしこのよる
ご注意!母ばっかり出てきます。
「〜♪、〜♪」
上機嫌でオーブンを開ければ、たちまち香ってくる甘い匂い。私は一人でにっこりと笑った。
別にクリスチャンでも何でもないけれど、クリスマスというのは無条件に幸福な気分になれるのだから不思議だ。さすが神様の誕生日、といったところだろうか。
娘の為にこっそりプレゼントを用意する楽しみは残念ながらさすがに無くなってしまったけれど、それでもやっぱり私はクリスマスが好きだ。だから家の飾り付けだって毎年するし、小さなツリーも物置きから出してくる。
クリスマスは神様のお誕生日、そして幸せを感謝する日。
「えーっと、クッキーは準備出来たし、あとはケーキのデコレーションで…お料理はもう準備出来てるし…」
ひとしきり考えていると、上からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。そういえば、娘は学校でクリスマスパーティがあると言っていた。それで慌てているらしい。
ばん、とドアが開いてあかりはダイニングに飛び込んでくると、途端にぎょっとしたような声を上げた。
「お母さん!?またそんなにたくさん作って、どうするの!?」
「あかり、そんな慌てたら忘れものしちゃうわよ?落ち着きなさい」
「そ、そうだけど…!それ、お父さんと私じゃ食べきれないよ?去年だって遊くんのお家に手伝ってもらったのに…」
「そうだったかしら?でも、材料余らせちゃっても仕方ないし…楽しいものだからついたくさん作っちゃって」
「もう…いっつもそうなんだから…あ!いけない!私もう行かなきゃ!行ってきまぁす!」
「気を付けてね〜」
あかりを見送ってからもう一度テーブルいっぱいのクッキーの山を見詰める。確かに、クッキーばかりこんなにあっても困るかしら。
まだブッシュ・ド・ノエルと普通のデコレーションのホールケーキを焼いたんだけど。(生クリームとチョコレートクリームの二つ)あとパンの生地も寝かせてあるし後はお料理も……。
「…やっぱり多かったかしら?」
考えてみれば今日は夫婦二人なのだから、確かに少し張り切り過ぎたかもしれない。もう若くないのだから食べ過ぎなんて事になるのも良くないし。
「まぁ、とりあえずクッキーとケーキ一つはお隣にお裾分けするとして、後は……」
遊くん、また喜んでくれるといいのだけれどと、思い出して私はまた笑った。あともう一軒の心当たりも電話して聞いてみよう。
「あの人も」、喜んでくれるといいのだけれど。
***********
「さすがに凄い人だわねぇ」
この時期の百貨店は当たり前だが人で溢れていた。ここで働いている人達はクリスマスどころじゃないわねと苦笑する。
今日来たのは年末年始の買い物の為だ。昨日で日舞の教室もやっと終わり、今日慌てて来たというわけだ。とはいえ、大方の準備は義母がしてくれているので私の用意するものはあまりない。
いくつか要りようの物を買い、それからエスカレーターに乗り込んで階を移動した。すれ違う人はカップルだか夫婦だか、まぁ色々だったが皆それなりに幸せそうというか浮かれた顔をしている。
この時期独特の華やいだ空気。多少軽薄なきらいのあるそれは、けれど私は嫌いではなかった。この年になってクリスマスも何もないけれど、楽しいのは良いことだと思う。
ふと通りすがりに色とりどりのマフラーや手袋がディスプレイされているのが目に入った。そこは紳士物のコーナーで、他の場所よりかは幾分人も少ない。
だから、目に留まったのかもしれない。
(…へぇ)
マフラーの並んでいる棚の前で、佇む女性。綺麗な人だった。でも和服を着るには少し痩せているかもしれない。随分と熱心に棚を見詰めている。
ダンナにプレゼントかしらと思い、そういえば自分も主人にプレゼントなんて忘れている事を思い出した。靴下くらい買ってやってもいいかもしれない。
だが、まずは目的の物からだ。今日、買いに来たのはダンナの物でも息子の物でもない。義母へのプレゼントだ。
息子曰く「最近、膝痛そうだから、膝掛けとかがいい」と言ったのでそれを買いにきた。普段はガサツだが、ああ見えておばあちゃん想いの優しい子なのだ。
そういえば今日も学校の事を自慢げに話していた。(内容は多少脚色してあるとは思うけど)
何だか最近学校が楽しいらしい。勉強に関してはもう期待もしていないけど、機嫌良く通っているのなら何よりだ。
(…うん、中々良いのが買えた。色もキレイだし、おばあちゃん喜んでくれるといいけど…って、あら?)
義母への膝掛けも買って、さて帰ろうかと元来たところを歩いていると、さっきのマフラーの棚の前に、あの女の人がまだ立っていた。
困ったような顔をして立ち尽くすその人は、それですら絵になるのだから不思議だ。店員は困ったこの人には気付いていないらしい。
私は迷わなかった。だって、二回も会ってしまった(というか一方的に見つけただけだけど)のだから、これはこのまま通り過ぎる訳にはいかない。
時間は急がないし、今日は幸之進は学校のクリスマスパーティだし、お父さんにも靴下を買ったから問題ない。
「何か、お困りですか?」
「えっ……」
驚いて振り返るその人は、やっぱり傍で見てもキレイだった。こんな人が熱心にプレゼントを選ぶ相手とはどんな男だろう。少し興味が湧いた。
「あなた、さっきからずっとここにいたでしょう?随分熱心に探してるのね」
「熱心というか…迷っているだけで。…男の子の欲しいものなんてわからないし」
「オトコノコって…親戚の子か何かですか?」
「いえ、私の息子ですけど」
「むすこぉ!?」
思わず大きな声を出してしまい、持っている荷物を取り落としそうになった。幸い周りは気付かなかったらしく、変な目で見られずに済んだ。
それにしても信じられない。確かにそれくらいの年齢ではあるかもしれない。でもそういう問題ではないのだ。年とかじゃなく、この人にはそういう空気が感じられない。
たとえばこんな紳士物のマフラーをするような年ごろの息子がいる雰囲気なんて。
「失礼ですけど、息子さんってお幾つなの?」
「えっと…高校生です。…せっかくクリスマスだから、何かプレゼントでもと思ったんだけど…。私、あの子の欲しいものとか好きなものとかよくわからなくて」
「……はぁ」
よくわからないとはどういう事だろう。まぁ確かに私もあの子の考えている事はよくわからないけど、それにしたってそんなに悩むほどの事だろうか。
「そうねぇ…あなたの息子さんだったら、こういう物よりもう少し、何て言うかこう…上品なものがいいんじゃない?」
「そ、そうですか?あの、ところであなたは店員…さん?」
「んなわけないでしょ。こんな大荷物の店員がいるわけないじゃない。通りすがりのおばさんです。そうねぇ、息子さんの好きな色とか、好みの感じとか、何か少しくらいわかるでしょ、自分の息子なんだから」
そう言うと、何故かその人はほんの一瞬だけ辛そうに顔を歪めた。あら、私何か言っちゃいけない事言ったかしら。
それにしても、このお嬢さんみたいな人に幸之進みたいな年齢の息子がいるだなんて。世の中わからないものだ。
その人は、ふと棚にあるマフラーの一つに手を伸ばした。それはきれいな青色をしていた。
「好みというか…あの子は海が好きだから。…昔から、今も」
ふわりと控え目に微笑むその笑顔は、今まで見た中で一番美しい笑顔。
**********
年末ともなると、風が冷たい。
暗くなりかけの空を少し見上げてみる。クリスマスのイルミネーションがあちこちにあって、星なんて見えやしない。
こういうの、あの子だったら何て言うかしら。素直に綺麗と言うかしら、それとも皮肉の一つでも言うのかしら。
どちらかというと後の方ねと、私は少し笑った。こんな事で、笑えるようになったのだ、私は。
負の感情と言うのは、人間いつまでも心に溜めこむことはできないらしい。いつの間にか息子の居ない日常に、私は慣れてきていた。以前程の焦りを感じなくなっていた。
元気でやっていてくれるのなら、それでいい。
主人は、瑛の事に関してそこまで寛容には考えていない。今でも家を出ている事を許してはいないし時々あの子が帰ってきてもその話で喧嘩だ。少し前もそれで揉めたから、年末はきっと家には帰ってこないだろう。
(使ってくれればいいけど…)
クリスマスだからと勢いで送り付けたマフラー。通りすがりの女の人が何故か親切にあれこれ教えてくれた。凄い荷物だったけれど、大丈夫かしら。
気風の良い感じの人で、私が迷っているのを見かねて声をかけてくれたらしい。息子がいると言ったら何故か驚かれたけど、その人も随分と綺麗な人だった。姿勢がとても綺麗だったのが印象的だ。
本当は、『珊瑚礁』まで持っていこうかと思っていた。だからこうして羽ばたきまで出てきたわけだけれど…結局勇気が出なくて、プレゼントも宅配で頼んだ。
手紙も書いてきたけれど、それも入れられなかった。結局今も、私のバッグの中に入っている。
品物だけ送りつけるなんてと、また呆れられるだろうか。
――メリークリスマス!あなたも良いお年をね!それと、笑ってなきゃ幸せが逃げちゃうわよ!
あの親切な人は、別れ際そんな事を言っていた。元気の良い人だった。家に帰っても、あんな感じで家族の世話をしているのだろう。
(しあわせ、か)
私の幸せより、あの子が幸せであってほしいと思う。離れていても、それくらいは祈りたいのだ。
そして願わくば、いつかのように一緒に暮らせますように。
ふと、コートのポケットの携帯電話が震える。取り出して見て、私は慌てて通話ボタンを押した、切れてしまわないように。
「瑛!どうしたの、一体!」
『どうって、別にどうもしないよ。俺が電話したら何か悪いことでもあるわけ?』
「そうじゃないけど…」
そうではないけど、向こうから掛けてくることなんてほとんどないのだから驚くのは仕方ないと思う。風の音で何だか声が遠い。私は必死で携帯電話を耳に押し当てた。
『あのさ、俺、今から学校のクリスマスパーティ行かなきゃならないんだ。だから、手短に話すな』
「学校の…そうなの。楽しそうね」
『そうでもないけど…まぁアイツに会えるのは、…って、話、逸れた。あのさ、俺、今年は年末帰らないけど』
「ええ」
『でも、この間父さんとケンカしたからとか、そんなんじゃないから。単に、店が忙しいってだけだから。…気にしてたら、悪いと思って。じいちゃんにも電話しとけって言われたし』
「そう、わかったわ。おじいさまによろしくお伝えしておいてね。寒いから、風邪ひかないようにね。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、それから…」
『ああ、ああ、わかったから!じゃ、もう切るよ。ええっと……母さんも、メリークリスマス。良いお年を』
ぷつりと音がしなくなった電話を、けれど私はいつまでも耳に当てていた。
笑ってなきゃ幸せが逃げるとさっき言われたばかりだけど。
本当に幸せだと思った時、泣きたくなるのはどうすればいいのだろう。
**********
「ちょっと勝己ー!これ!忘れてるわよ、今日プレゼントがいるんでしょ!」
リビングのソファに投げ出してあったそれを、玄関先にいる息子に手渡す。今日はクリスマスパーティがあるらしい。
任意参加のその行事に、もしかしたらもう行かないと言うかと思っていたが、意外にも息子は割と楽しみにしていたらしい。
図体ばっかり大きくなってちっともかわいくないと思っていたけれど、結構カワイイところもまだあったらしい。…怒るから言わないけど。
でも、どうしてもやっぱりからかわずにいられなくて、勝己の受け取ろうとする手をひょいと避けてみた。
「…何するんだ」
「それにしても、アンタこんなのどこで探してきたの?結構カワイイじゃない」
「………別にいいだろ、ほっとけ」
「去年はほんっとにどーでもいい〜って感じだったのに、今年のは勝己が選んだとは思えないもの。…もしかして、渡したい子のイメージとか?」
「………………うるさい、いいだろ」
「あ、否定しないんだ!やっぱりそうなんだ〜!おとうさーん、今日はお赤飯よー!」
「〜〜っ、いいから早くそれ渡せ。遅れるだろ」
もう少し怒りを露わにするかと思ったが、思ったよりも冷静な態度が返ってきて何だか面白くない。はいはいと手渡すと、奪うようにそれを持って靴を履く息子の背中に、ダメ押しにもう一言言ってみた。
「そのプレゼント、あかりちゃんが受け取ってくれるといいわね」
「っ!」
「あはははははは、やっぱビンゴだった!」
立ちあがろうとした勝己が、がくんと前のめりになるのを私は見逃さなかった。あーダメ。やっぱり笑いが堪え切れない。おもしろすぎる。
物凄い形相で勝己がこっちを振り返るのと、電話の鳴る音が聞こえたのはほぼ同時だった。
「ほら、そんな顔してちゃあかりちゃんに逃げられちゃうわよ!しっかり楽しんでらっしゃいね、行ってらっしゃーい!」
「うるさい。お袋こそ、早く電話出ろ。……行ってきます」
後ろで玄関の戸が開いて閉じる音を聞きながら、私は電話を取る。受話器から聞こえて来たのは、まるで春風みたいな声だった。
『…あ、もしもし海野ですけれども。こんな時間にごめんなさい…今、大丈夫かしら?』
「海野さん!もちろん!久しぶりー、元気でした?」
『ええお陰さまで。志波さんもお元気そうで何よりです。…そういえば今日は子供たちはクリスマスパーティですってね』
「そうみたいねー。今、勝己もやっと出たところ。あかりちゃんは?」
『ええうちもさっき。もう出るまでバタバタしててあの子…誰に似たのかしらねぇ』
「ウチもいつまでもグズグズしちゃって、誰に似たんだか」
『そう、それでね。子供たちばかり楽しいのはズルイと思って。…なんて言うのは口実なんですけれど、私、ちょっと色々張り切って作りすぎてしまって。志波さん、明日は時間ある?もし良かったらご招待したいのだけど』
「行きます、もちろん!嬉しい!!」
私は、もちろん二つ返事でOKする。用事なんて無いし、あったとしてもよほどの用事でなければそんなのキャンセルだ。
明日が、俄然楽しみになった。
『良かった。じゃあお待ちしてますね?…あ、今夜はそうすると志波さんのところもご夫婦お二人でクリスマスなのね』
「そうねー。でもクリスマスって言ってもウチは鍋だけど。ケーキだけは買ってあるんだけどねー。きっと勝己もまた食べるし…」
背中の後ろで「かあさーん、鍋どこだー?」という暢気な声が聞こえてきた。まったく、本当にムードも何もあったもんじゃないわと苦笑する。
まぁでも、ウチはこんなものよね。これくらいが、ちょうどいい幸せだ。
『あらごめんなさい。お待たせしてるみたいね。…それじゃあ志波さんまた明日。それと、メリークリスマス』
「海野さんも!メリークリスマス!」
出来る限りの気持ちを込めてそう言って、私は受話器を戻した。それから、腕まくりをしてキッチンに向かう。
今日は、いつもよりちょっとだけ丁寧にしようと思った。…鍋だけど。
Merry Christmas!!