物憂げな



本邸には、久しぶりに来た。もちろん遠慮する必要などないのだが、第二邸の居心地の良さが足を遠ざけていた気がする。
屋敷はどこを見ても塵一つ無く掃き清められ、広大な庭も、見る限りは美しく整えられている。威厳を保ちながらも客人をもてなす空気がここには在る筈だったが、今はそれもひっそりと影を潜めているらしく、どこか淋しげだ。

「…もしや、大旦那さま、でいらっしゃいますか…?」
「あぁ、勝手に入って悪かったね」

総一郎は柔和に笑い、今日来た目的を告げる。だが、一方の使用人は言いにくそうに顔を曇らせた。まだ年若い女中だ。

「でも…奥様は…」
「…そうか」
「申し訳ございません。先日の件で奥様はすっかり塞ぎこまれていて…とてもお話など出来る状態では」
「いや、別に構わないよ」

あるいは、そういう事態も予想していた。何も無理矢理会おうなどと言う気はない。
恐縮しきって再度頭を下げる使用人に、よろしく伝えてほしいと口を開き掛けたところで、「お待ちなさい」と奥から声が聞こえた。細い、しかし凛とした声。

「お義父さまを門前払いなど、私が許す筈ないでしょう」
「ですが奥様…!」
「良いのよ」

奥から現れた彼女は、ごく単純な、短い言葉だけで使用人を黙らせてしまう。だが、使用人が止めようとしたのも無理はないなと、総一郎は僅かに眉を顰めた。体は痩せて今にも倒れそうな雰囲気だし、顔もやつれて疲労が色濃く表れている。しかしそれでも、彼女の美しさは失われないらしい。顔の造作ではない、彼女の持つ空気そのものの話だ。どれだけ打ちひしがれていても、その気品と強さが失われない事は、彼女が生まれながらにして貴族であることの証明だとも言えた。

「お待たせして、申し訳ありませんわ。…ご案内致します」

そう言って見せた彼女の横顔は、孫に良く似ている。





「ずいぶん、疲れているようだね」

応接室に通され、落ち付いたところで、総一郎は切り出した。彼女は少し言葉に迷ってから「…そうですわね」とぽつりと零す。

「色々、ありましたから」

そして、それからふっと笑う。彼女にしては珍しく皮肉気な感じで。

「それで?お義父さまは私を叱りにいらしたのかしら」
「どうして私が君を叱らなきゃいけないのかな?」
「あの人は、はっきり私にそう言いましたわ。私のせいだと」

「あの人」とは、彼女の夫であり、瑛の父親であり、そして自分の息子でもある。

「あいつは…そんな事を」
「当然ですわ。私は任されていたのに、この体たらくですもの」

それは随分と勝手な言い草じゃないかと総一郎は思ったのだが、黙っておいた。考え方はともかくとして、この夫婦はそうして成り立っているのだから自分がとやかく口を挟むものでもない。

「どうすれば良かったのか、今となってはわかりません」

張り詰めていた感情が、微かに揺らいで聞こえた。

「私だって、わからないわ」
「…誰のせいでもないよ。もちろん君が悪いはずがない」
「まさかこんな事になるだなんて、きっと誰にもわからなかったはずだわ。…それなのに、あの人は全部私が悪いと仰いますの」

もしや泣かれてしまうだろうかと思ったが、彼女は肩を竦めて不満を露わにしただけだった。拗ねたような、まるで子供のような言い方に笑っては悪いと思いながらも、総一郎はつい口元を緩めてしまう。彼女は、強い人だ。
総一郎の様子を見咎めた夫人は、ますます向きになって総一郎に詰め寄った。

「笑うなんて酷いわ。私は真剣に悩んでいますのに」
「うん、そうだね。いや、申し訳ない。でも、君は相変わらず変わらないなと思って」
「それってどういう意味ですの?まるで私がいつまでも物知らずの小娘みたいじゃありませんか」

まったくもう、と息捲いて、しかし夫人はふと笑った。泣き笑いのような顔で。

「…本当にもう、誰も、ちっとも私の言う事なんて聞いてくれないんですから」

珈琲屋をやりたいと、瑛は両親とやり合い、今は第二邸にいる。父親は当然ながら勘当だと言い、佐伯家の領地そのものから出て行けと言ったのを、母親が何とか頼みこんで第二邸にと収まったのだ。何だかんだ言っても瑛の事をかわいがっていた彼女からすれば、一人息子の決意は手酷い裏切りであり、夫の「勘当だ」という言葉はあまりに冷酷に思えただろう。今回の件で、一番すり減っているのは、実のところ彼女なのではないかと総一郎は心配していたのだ。

「瑛は、元気にしているよ」
「そうですか。それなら、いいんです」

元気だが、清々すると言った感じではない。海から戻って来てからは、その表情が晴れることはなかった。さすがに親の事が気に掛るのだろうと思っていたのだが、どうやらそれだけではないらしい。

「…瑛よりも、あかりさんが心配だわ」
「あかりさん?」

そういえば、聞き覚えのある名前だ。…あぁ、そうだ。瑛が一度連れてきたあの女の子。
夫人は息子の時よりも余程深刻そうに溜息をついた。




夏の間、一緒にいたという子だろう。しかし、総一郎は瑛から彼女の名前さえ聞いたことがなかった事に気が付いた。






志波勝己は、鬱々とした気持ちを抱えていた。
あれほど佐伯家に熱望されて別荘に招待されたにも関わらず、あかりはまたしても「二度と会う事はない」と追い返されて帰って来た。今回も、あの一人息子の独断らしい。佐伯家からはすぐさま詫び状と品物が届いたが、無論そんなもので許されるはずもないと、勝己は思う。嫁入り前の娘を、良いように振り回されたのだ。しかも、二度も。こちらが押し掛けたならまだしも、向こうから望んだというのに。
しかし、海野の両親は人が良いというか、暢気というか、「それならば仕方ない」と、特に気に留める風でもない。あかりにしても、もっと怒ったり泣いたりするのかと思えば「佐伯さんは悪くない」の一点張りだ。彼女のそうした態度も、自分を苛立たせる要因の一つだとわかっていた。

(…いや)

一番苛立つのは、誰でもない、自分にだ。

夕方。暑さも少し和らいで来た頃、勝己は二階にあるあかりの部屋へ向かった。当たり前だが、彼女の部屋までの道のりに迷った事など一度もない。(そもそも迷う程の距離も無い)
幼い頃は何も考えていなかったし、もう少しすると、そこには僅かに葛藤が生まれた。絶対に近付かないと、頑なに拒んだ時もあった。
今は、どうだろう。また少し変わってきている。でもそうして変わってしまった事は、弱い証拠だと、思っている。

「…あかり、いるか?」

程なくして扉が開かれる。現れた彼女は、特別落ち込んでいる風ではなかったが、だからといって機嫌が良いというわけでもなさそうだった。

「なぁに?」
「出掛けよう」

くるりとした瞳が、軽く見開かれた。

「今から?」
「あぁ、散歩だ。夕飯までには戻る。…一緒に、行かないか?」

一緒に何かしようと誘ったのは久しぶりだった。そして、その為にいちいち「一緒にどうだ」などと聞いたのも珍しいことだ。
その昔、そんな事をわざわざ聞いた事はなかったのに。聞くまでもなく一緒が当たり前だったのに。

「…じゃあ、森林公園の方に行こう?」
「ああ、わかった」

外は昼間の熱がまだ残っていたが、それでも肌触りは随分と優しい。あかりは一人で「この時間は涼しいね」とか「蜩が鳴いてる」とか思いついた事を口にするので、勝己は歩きながらそれにいちいち相槌を打つ。
公園はあまり人がいなかった。この時間なのだから当たり前なのかもしれないが。

「勝己、ありがとう」

人気のない道をさりさりと歩きながら、あかりがぽつりと零した。

「何がだ?」
「私が落ち込んでいると思って、散歩に連れて来てくれたんでしょう」
「……まぁな」

それもあるが、それだけではない。あかりの為と言いながら、これは自分の為だ。彼女と「他人」にはなりきれない自分の。

「…海はどうだった?」
「楽しかった、とても」

彼女の顔が、見た事もない表情になる。それを、勝己はぼんやりと見るだけだ。

「そうか」
「うん」

しばらく無言で歩く。蜩の消え入りそうな鳴き声が、遠くに聞こえた。

「…佐伯さんは何も悪くないけれど」

けれども、そんな蜩の声より、あかりの声の方がずっとか弱い。

「でも、やっぱりかなしい。…ううん、うまく言えない。でも、どうして、って責めてしまいそうになる」
「責めればいい。悪いのはあいつだ」
「ううん、違うの。佐伯さんは…悪くない」

悪くないの、と繰り返し言うあかりの声は、今度こそはっきりと涙声だった。
あかりがこんな風に泣くのを、家では見た事が無い。恐らく彼女は自分の前だからこそこうして泣くのだし、そして更に言えば、そうして泣くのではないかという予想もある程度はしていた。
連れ出したのは、元よりそのつもりだった。泣いてしまえば少しは楽になるだろうし、あるいは大した事はないと笑って終われるならそれでもよかった。
「家族」の自分に出来るのはそれくらいだ。そう思っていた、さっきまでは。

(…見たくなかった)

こんな風に声を殺して泣く姿を、見たくなかった。「家族」の自分には所詮何も出来ない、そして、彼女の中に「佐伯瑛」という存在に対して以前とは全く違う感情が在る事と、両方を思い知らしめる姿。

「…ごめんなさい。急に泣いたりして」
「…いや」

(…どうして)

どうして佐伯瑛はあかりを拒むのだろう。そして、拒まれる彼女を、どうして自分は受け止められないのだろう。
彼女と「家族」でなければ。両親も生きていて。つまり、今置かれるこの境遇でなければ。

そうであれば、本来彼女の傍にいるのは自分であるはずなのに。

「かつみ?どうしたの?」
「…何でもない」

考えるな、と自分に言い聞かせる。考えたところで現実は何一つ変わらない。だから、離れることを選んだはずだ。
何も出来ないのなら、せめて彼女の望む「家族」でいようと、決めた。

「そろそろ帰るか」




そう言って笑ったつもりだったが、うまく笑えたかどうかはわからない。






時は少し遡る。

「…どういうことだよ」
「今話したことが全てだ」

赤城一雪は混乱していた。対して、向かい合っている兄大地は淡々としたものだ。「悪いと思っているけれど」と、彼は感情の見えない声でそう付け足す。

(悪いと思っているけれど、だって?)

夕食後、突然部屋にやって来て何を言うかと思えば。心にさざ波がたつようにざわめくのを感じた。これは怒りだ、と、一雪ははっきりと自覚する。自覚というよりも、むしろ自分でそう変換したのかもしれない。混乱も、不安も焦りも、心の中に渦巻く似通った種類の感情を総括して。…いくつかの種火を寄せ合えば、一つの大きな火になるのと同じように。
そうでもしなければ、とても立ち向かえる話ではない。

「全然、わからない。そもそも、あの子の事を兄さんに話した憶えはないけれど」

あの子とは、もちろん海野あかりのことだ。この、年の近い兄とは割と何でも話す方だけど、あの子の話はしたことがなかった。もちろん名前くらいは口にしたかもしれない。でも、それだけだ。
話したのは、佐伯にだけだ。話す、というよりも、確かめたかったという方が正しいかもしれないが。とにかく、兄や、まして他の家族が知る話じゃない。そのようなつもりで話した事なんて、なかったはずだ。

「僕に話してくれたかどうかは問題じゃないよ」
「問題だよ。憶測で勝手な事言われるなんて、たまったものじゃない」
「…そうだな。僕は確かに単なる憶測で話している。この憶測が外れていて、ただの笑い話で終わるならどんなにいいかと思ってるさ」
「………」

実のところ、外れてはいない。一寸も。
ぐ、と、無意識に一雪は握り込む手に力を込める。

「…そうだとして、それをどうしてとやかく言われなきゃいけないんだよ、僕は――僕が、誰を好きでも家には関係の無い話だ」
「もちろん関係無い。…あの子じゃなければね」
「だから!どうして!」

一雪は声を荒げた。大きな声のはずなのに、ひどく情けなく響くのは何故なのだろう。
大きな声を出して、何事なの、と、母親が心配して部屋に入ってきたのが見える。

「…わかった、じゃあもっとわかりやすく説明しよう。どうして海野あかりさんの事を忘れろと言ったのか」

淡々と言葉を紡ぐ兄に、飛び入りの母ですら、はっと何かに気が付いたような表情で兄を見た。

「佐伯くん、というのはお前の友達だろう」
「…え」

確かにそうだが、何故急に彼の名前が出てくるのだろう。…それも、こんな場面で。

「佐伯家は、一人息子の為に何度も海野家に縁談の話を持ち出している。…最も公にされているのは二度程で、しかも一度目は息子の勝手で話がなくなっているけれど…それでも、この話だけでも、あの家がどれほど海野家のお嬢さんにご執心か知るには充分だ」

(…そんな、まさか)

縁談?そんな話、あるはずがない。何故なら一雪は彼に直接確かめたのだ。確かに、佐伯瑛と彼女は仲が良かった。いかにも家族ぐるみの…そういった将来が約束されている風にも見えた。だから、婚約でもしているのかと聞いたんじゃないか。だから、ありえない。

(いや、待て)

必死であの時の記憶を引っ張りだす。確かに、彼に探りを入れた。…だが、それに対してはっきりとした答えを、自分は聞いただろうか。
握りしめた手の平に、じっとりと汗が広がるのがわかる。

「佐伯家が、何故そうまでしてあのお嬢さんに固執するのか理由はわからない。けれど、理由なんてどうでもいい。大事なのは、その事実そのものだ。佐伯家はここいらでは知らない者はいない程の名家。…そして、我が社の大事な取引先でもある。…これだけ言ってわからないほど、お前は馬鹿じゃないよな?」

もちろん一雪には理解出来た。要するに、佐伯家に恥をかかせてはいけないということだ。…少なくとも、うちがそれに関わるべきではない。
あの家と取引をしているという事は、仕事の業績だけでなく、その事実だけでも大きな影響がある。立場的には佐伯家が絶対的に強いのだ、もしも信頼を失うような事になれば、それ以外のところでも影響は出る。…潰されかねない。
一雪が横から彼女を攫うような真似をすれば、その恐れが現実と成りかねない事は、容易に想像がついた。

「…だけど、そんなの僕の知った事じゃない」
「一雪」
「だって、そうじゃないか!僕の知らないところで、勝手に兄貴たちが言ってるだけだろ!」

理解は出来るが、納得は到底出来ない。丸きり勝手な言い草だ。普段お前は自由にすればいいと言っておいて、いざとなれば、こうして理不尽な事情を押し付けてくる。
佐伯にしても、そうだ。それならそれで、何故はっきり言わなかった。可哀想だとでも思ったのか、それとも何も知らずに舞い上がっている自分を影で笑っていたのか。
どちらにしても、酷い話じゃないか。どいつもこいつも、勝手な事ばかり言ってきて。

「とにかく、彼女の事は諦めろ。…気持ちはわかるけど、何も彼女しかこの世にいないわけじゃない」
「…気持ちがわかる?」

兄の言葉に、暴力的な感情が更に煽られる。…あぁ、怒りで目眩がしそうだ。
それでも、一雪は嗤った。とにかく、どうにかして目の前の兄を傷つけてやりたい。それだけが頭にあった。

「一番勝手な事言っておいて、良い兄貴ぶるなんて見事な偽善者だよ。…あんたに僕の気持ちがわかるわけないだろう。誰も本気で好きになった事なんてないくせに!」
「ユキちゃん!お兄様に向かって何て事を言うの!」

顔色を失った母が悲鳴のように叫ぶ。
だが、対する兄の表情は何も変わらない。凪いだ海のように静かで、それが余計に悔しかった。…いつもそうだ。普段から穏やかで、自分の為に何かを欲するところなど見せたことがない兄に、一雪は敵わない。





「…何とでも言えばいい。これはもう決まった事だ。お前には従ってもらう以外にない」









『勝己なんて大っきらい!』

昔、そう言ってよく喧嘩をした。喧嘩と言っても原因は大体あかりの方にあり、勝己は一方的に理不尽な言われ方をする事が多かった。(と、いうのはあかり以外の人間の見識だ、もちろん)
そもそも、言い合いにさえならないのだ。喧嘩の時の彼はいつも押し黙ってしまう。そのくせ、苦しそうな悲しそうな顔をしてあかりを見た。その表情を見ると、いつも罪悪感で胸が痛くなる。それを誤魔化す為に、余計に言い募るか、泣くか、あるいは自室に逃げるしか出来なくなる。勝己は大抵のわがままも無理も聞いてくれる。ただ、ダメなものはダメなのだ。あかりが泣こうが喚こうが、彼が一度心に決めた思いというのは覆されることはない。

(…だからって、酷い)

拭っても拭っても涙が止まらなかった。頭には、さっきまでの激情はない。だが、勢いよく泣いている体は、中々落ち付かせる事が出来ないでいた。

「…っく、ふ…」

無理に止めようと息を殺すと喉が痛い。こんな風にいつまでもだらだら泣くのは、まるで聞きわけの無い子供そのものだ。…そう言われても仕方ないだろうか。

――いい加減になさい。

母の言葉は厳しかった。あんな風に厳しい口調で叱られたことはなかった。

――いつまでそんな、子供じみた我儘を言うつもりなの。

(…違うわ)

言われた言葉を思い出して、目からまた涙が溢れてくる。もう泣きたくはない、何故泣いているのかもわからない。
打たれた頬は、さすがに痛みは引いていたが、まだじんじんと熱かった。手の平を当てるとつめたくて、多少は心地良い。

勝己は、今の学校を卒業するのと同時に家を出るのだという。

馬術の成績が認められ、大学への推薦入学が決まり、更には学費免除され、学生寮へも優先的に入寮出来ることになった。もちろん、完全に自立というわけではないが、とりあえずは家を出ても大学生活は困らないらしい。
この話を両親は喜び、彼を讃えたが、あかりにとっては寝耳に水の話だった。もちろん大学への入学が決まった事は嬉しい。けれど、それで何故家を出なければいけないのだろう。
いつだったか、勝己が離れに移りたいと言った時の事が重なった。どうして?と、あの時もあかりは同じように詰め寄った。

――出て行くだなんて、どうしてそんな事を言うの?そんな事、また何の相談もなく勝手に決めるの?家族なんだから、離れる理由なんてないじゃない!

頭ではわかっている。勝己は、海野の家で世話になる事を申し訳ないと思っているのだ。だから、これを区切りに少しでも負担にならないようにと考えての行動だと。
だけど、あかりにはそれがたまらなく淋しかった。無理に出て行かなくとも彼は充分自立している。それを理由に、彼がここから離れたがっている風にしか、あかりには思えない。

(…どうして)

母に殴られた後、勝己は苦しそうに顔を歪め、けれど、それでも「出て行く」とあかりにはっきりと告げた。「前から考えていた事だ」とさえ言った。

「…どうしてなの」

ぐすぐすと鼻を鳴らして、呟いてみる。目の上あたりが、まだ熱い。

(佐伯さんも勝己も、どうして離れて行ってしまうの)

涙に濡れた自分の手をかざしてみる。人魚姫だと思う。そう言って、彼が掴んでくれた手。今でも夢見るような気持ちになれる、甘い思い出。あの時、あの海に行って良かったとあかりは思った。そうしてこれからも、彼と二人で一緒にいるのだろうと思っていた。それは、きっと幸せなことだと、今でも思っている。
一度目に会った時とは違う。あかりは、一緒にいたいと思ったのだ。けれど、それは叶わなかった。

(…みんな一緒にはいられない)

勝己が家から大学へ通う事も、佐伯の夢にあかりが付いて行く事も、そんなに難しいことなのだろうか、母が言うように、子供じみた我儘だろうか。
それとも、こうして離れていくことを受け入れるのが大人になるという事なのか。あかりにはわからない。…ただ、ひどく淋しいことだけは確かだった。





ごろりと、体の向きを変える。部屋は静かで、それがとても心細かった。





「まだ起きていたのね」
「…奥様も」
「あら、そんな呼び方よして。私だってあなたの『家族』でしょう?」

いたずらっぽく言う夫人に、勝己は返答に詰まってしまう。そんな彼に夫人は「まぁお座りなさい」と席を勧めた。
夜は静かだ。静謐でさえあるその空間に、彼女の声が滑らかに響く。

「…さっきはごめんなさいね」
「…いえ」
「あの子は…、悪気はないの。ただ、わかっていないのね…あなたの事を」
「わかっています」

わかっている、そんな事は。別に、彼女は何もわからなくてもいいのだ。それは誰にも責められない、この自分でさえも。
さし向かいに座る彼女は、どこか遠くを見ていた。いつも笑みを刻む目元には、今はひっそりと憂いの影がかかる。

「…私はね、あなたを志波さんからお預かりしたことを後悔した事は一度だってないわ。主人ももちろんそう思っている。私たちはあなたと家族になれて本当に幸福だったの…あかりもね」
「それは…俺が言うべき言葉です。本当に、感謝しています」
「…本当に、そう思うの」
「もちろんです」
「あかりが、他の男の人のところにお嫁に行ってしまっても?」

思いもかけない言葉に、勝己は言葉が出てこなかった。喉が、急速に乾いていく。心臓が波打った。この人は、突然何を言い出すのだろう。
彼女は至極真面目な顔をして勝己を見詰める。真摯な目だった。冗談ではないらしい、けれど、冗談であるほうがよほど良かった。

「佐伯さんとの事は、あの子には辛かったでしょうけど…、でも、それで終わってしまうわけではないわ。あの子だっていつかここを出て行くの、違う?」
「それは…」
「あなたがここを出ると決めたのは、もちろん家の事も、あなたの気持ちもあってでしょう。自立することは素晴らしいことだもの、反対なんてしないわ。だけど…それだけじゃないでしょう、あなたは」
「母さん」

苦し紛れにそう呼び掛けて、彼女の言葉を遮るのが精いっぱいだった。頭が混乱する。まさか、この人は知っているのだろうか。今までずっとひた隠しにしてきた、誰にも知られてはいけないと心の奥底に静めて、決して口にはしないと決めた想いを。

「あなたは…ここに来たせいで自由を失ってしまったんじゃないかと思う時があるの。あなたを引き取ったのは…私のわがままでもあるのよ。だから…いつもどこかであなたに窮屈な思いをさせてるんじゃないかと、そう思っていた」
「…そんなこと、思った事は一度もない。ここに来て…俺は幸せだった。窮屈だなんて感じた事は、ない」
「じゃあ、あなたはいいのね。あかりがお嫁に行ってしまっても。もしかしたらお婿さんが来るかもしれない。そうしてあなたのいた部屋に住むかもしれないわ」
「どうして…っ」

たまらなくなって、勝己は椅子を倒して立ち上がる。けれどもそれだけだ。彼女の真っ直ぐな視線から逃げる事はできない。
嘘も、つけない。

「どうしてそんな…そんな事を俺に。一体どうしろって言うんだ」
「あなたの、思うままにしてほしいの」
「そんなこと、出来るわけない」
「何故出来ないの?あなたが爵位のないお家の生まれだから?海野家を養えるだけのお金のあるお家じゃないから?そんな事、くだらないわ。家柄やお金があればあかりが幸せになれると、あなたは本気で思っているの?」

厳しい言葉に、言葉も忘れるほどだった。頭の奥が痺れるようになって、上手く考えがまとまらない。
こんな風に、心の内に踏み込まれるとは思ってもみなかった。違う、と、言わなければと思う。考えすぎだと、笑えばそれで話は終わる。…だが、それがどうしても出来ない。
黙ったままの勝己から、先に目を逸らしたのは夫人の方だった。彼女は長く息を吐き、小さな声で「ごめんなさい」と呟く。

「いいえ。…いいえ違うの。こんな風にけしかけるつもりはなかったの。でも、私はあかりの母親だけど…あなたの母親でもあるのよ。ありたいと、思っている」
「……かあさん」
「あかりの幸せの為に、あなたが耐える必要はないと言いたかったの。見ていればわかるわ。あなたが…どんなにあかりを大事に想ってくれているか。…どんな思いで…この家を出ていくと決めたか」

そこで、言葉が途切れた。かすかに震える細い肩を見て、思った以上に動揺して、喉が痛くなる。この人はいつも泰然として、悩みなどないのだと思っていたのに。 あかりを思うのと同じように、自分を思っていてくれたことは知っている。そして感謝している。それでも、まさかこれほどまでとは思いもよらなかった。

「…私は、傲慢だったのかもしれない。でもだからこそ、あなたにも望むようにしてほしい。例えあかりがそれで傷ついてしまっても、あの子は、そんな弱い子じゃないわ。…だから、何も枷に感じることはないの」

そっと、夫人の手を勝己は握った。細い、少し冷たい手だった。

「…ありがとう。…今は、少し混乱してる。でも、母さんの気持ちは嬉しいから。…それと、俺はあかりを傷つけたりなんてしない、絶対に」

何も約束出来なくても、それだけは誓える。…傷付けるくらいなら、俺は望むままに出来なくてもかまわない。

「だって、『家族』だろう?俺たちは」





そう言って、勝己は笑った。笑えたはずだ、きっと。











僕の海の名前




















(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine