朝
どこまで行っても、青い波と白い砂浜しかなかった。
――どこからきたの?
どこってお家よ。うみに、お家があるの。
問われて、あかりはそう答えた気がする。小さい頃、あかりの家にもまだ別荘というものがあり、夏はそこで過ごしたものだ。それが海の近くだったから、あかりはそう答えた。
――かえりみちがわからないの?
そうだ、とは言いにくかったが、渋々首を縦に動かす。あまり遠くに行ってはだめだとお母さまに言われたけれど、気が付いたら、こんな、全然知らない場所にまで来てしまっていた。
「だって、どこまでもいけるとおもったの」
ずうっと広い砂浜には時々固い(けれどきれいな)貝殻が落ちているだけで、何もない。海と砂浜はどこまでもあって、けれど、きっとどこかで「おわり」があって、だから、そこまで歩いて行って
みようと思っただけだ。怖いことなんて何もない。
でも、ずっとひとりで黙って歩いてきたし、足も疲れて座りこんでいたし、何より太陽がだいぶと傾いてしまっているから実は少し不安だったのだけれど。
――ねぇ、またあえるかな?
「そんなの、わからないわ」
きっと帰ったら一人で遠くまで来た事を、叱られるに違いない。だから、ここにはもう一人では来れないだろう。
「でも、あいたいね。またあえますようにって、わたし、いのることにする」
そうすれば、きっと会えるわ。そしたら、その時はもっとたくさんお話できるだろうし、あぁ、そうだ。かつみもいっしょにあそべばきっとたのしい。
――それなら、ぼくはキミをさがすよ。
さがす?わたしを?どうして?
茜色の光が反射する。顔が、よく見えない。おぼえておかなくちゃいけないのに。そうでなきゃ――。
キミをむかえにいくよ、ぜったい。
…そこで、あかりは目が覚めた。部屋の中は茜色の光でなく、朝のあかるい陽射しに満ちている。何度かまばたきをしてから、体を起こした。
「夢…?」
夢、というよりも記憶だ。ずっと昔の。…それともやっぱり夢なのかしら?
ついさっきまで見えていた光景を思い出そうと頭を捻るが、それはどんどん遠くなり、わからなくなる。
「……変なの」
寝台から降り、窓を開ける。潮の匂いが混ざる新鮮な空気を感じるのと同時に、「お目覚めでしょうか」と、戸の向こうから声がかかるのが同時だった。
「はい。…用意が出来たら、降りますから」
ここの人たち(というのはつまり、佐伯家の使用人の人たち、という意味だけれども)は、あまりにも優秀で、親切すぎる。――だって服くらい、自分で着れるもの。
初日に一度面喰ってからというものの、あかりは最低限の事は自分でするように心掛けている。あまりに自分で何もかもしてしまうのは、かえって礼を欠く事であるらしい。あかりにはよく理解でき
ないが、あまりに断ると寂しそうな顔をされてしまうので結局のところ自分でする事は本当に少なくなった。
さっさと服を着替えて、寝台を直してしまってから、あかりはもう一度窓から海を見る。朝見る海は、何てきれいな青なんだろう。朝日に光る海と空は、誰が色を付けたわけでもないのに、どちらも
青く、そしてそれははっきりと別々の青なのだ。
コツコツと、部屋の扉が叩かれるの同時に、「おい」と不機嫌そうな声が向こう側でするので、あかりはそちらに向かって声を掛けた。
声の主が誰なのかは、わかっている。
「はぁい、どうぞ!」
「……あのなぁ」
扉を開けかれたものの、声の主――佐伯瑛――は、部屋に入る気配はない。振り返ると、彼は何か言いたげな顔をしながら、扉にもたれかかっていた。
「おはよう。…入ってくればいいのに」
「…そんな簡単に、部屋の中に入ってくればいいなんて、言うもんじゃない」
「どうして?」
「どうしてもだ」
詳しく説明したって、お前には理解できっこないだろうし、と、朝から重々しい溜息をつく。
「…佐伯さんて、少し勝己に似てる」
「どこが。全然違うじゃないか」
見た目じゃなくて、そういう変な規則を勝手に決めて動いてるところ。そう心の中でだけ、あかりは言った。口にすればきっと怒るに違いない。…あぁそう、あの背が高く、優しい目をした自分の兄
妹と同じように。
「お前を迎えに来たんだよ。…迎えに行けって言われて」
「そうだったんだ、ごめんなさい。今、ここから海を見てたの。…あんまり綺麗だから、時間を忘れちゃってた」
窓を閉めると、かたん、と、乾いた音がした。見えている海が、窓枠で囲まれる。何だか急に、向こう側が遠くなってしまった気がした。
「…この部屋、一番よく見えるんだよ、海が」
「そうなの?」
「あぁ、…俺が一番気に入ってる部屋」
ふと、不機嫌そうだった佐伯の表情が穏やかにほどける。…元々は、こっちが「本当の」顔なのだ、この人は。そして、その表情はとても好ましいものだと、あかりは素直に嬉しくなる。
あかりが、こうして佐伯家の人々と一緒に海に来たと言う事は、つまり将来的には佐伯家の一人になるという事を承諾して来た、と言う事になる。その事を、あかり自身は自覚していたし、佐伯瑛も
知らないはずはなかった。…最も、彼は初めて自分を見た時にはとても驚いて、それからまたいつもの不機嫌顔になってしまったのだけれど。
「結婚をする」という事が、どういう事なのか、あかりには未だによく理解出来ていない。こうして、隣にいつかは自分の旦那さまになる人がいても、実感が湧かない。
けれども自分の決意――ここに来るという事を決めたこと――は変わらないし、ましてや後悔などない。…あるいは、後悔してしまうのではないかという不安がなかったわけではないが、今のところ
そういう気持ちにはならない。…だから、これで良かったのだと思う。
「ね。今日は海を見に行こう?」
「今日も、の、間違いだろ?」
呆れたように佐伯は言ったが、仕方ない。だって、ここには海しかないのだから。
それに、そんな風に憎まれ口を言っても、次にはきっと笑ってくれるのだとあかりはもう知っていた。この人は、口では意地悪な事も言うし面倒がることも多いけれど、それでも、あかりの希望を無
下に扱ったりはしない、ぜったいに。
それは、嬉しいことだった。単純に幸せで、満ち足りた気持ちになる。
「…いいよ、行こう。どうせ他にする事はないんだしな」
でも、その前に朝食だ、と、佐伯はやわらかく笑ってあかりを部屋の外へ促す。
街中で
どん、と肩がぶつかった。次いで、ばさばさと、紙が散らばる音がする。
「……っと」
「やや、すみません」
「いや、こちらこそ…」
謝るのもほどほどに、ぶつかった男はしゃがみ込んで散らばった紙を拾っている。一見したところ、何かの書類のようだ。
「手伝いますよ」
「…助かります。こちらからぶつかっておきながら、更にお手を煩わせるのは申し訳ないですが」
「いえいえ、困った時はお互いさまです」
この暑いのに、きっちりと洋風のスーツを着込んだ男は、しかし、よく見ればまだ若い。もしかしなくても自分より年若いのではないだろうか。
地面に散らばった紙を拾いあげ、彼は、軽く服装を正してから、若王子に向き直る。「助かりました」と、彼は笑った。とても、好感の持てる笑顔だった。
「考え事をしながら歩くなんて、するものではないですね。…改めて、失礼しました。それから、お手伝い頂いてありがとうございました」
「いえ、僕の方もぼんやりしていましたから。…それにしても、大事な書類が無くなってしまわなくて良かった」
「…無くなってくれた方が、良かったかもしれませんがね」
おや、と、若王子は内心首を傾げる。爽やかな空気に、ほんの一瞬陰りが見えたのは、自分の気のせいだろうか。
夏の空気はじっとりと熱を孕んでいた。遠くで、蝉の声が聴こえる。
「…この暑さですし、お疲れのようですね」
そう声を掛けると、目の前の青年は、はっとして、それから、失敗したとでも言いたげに眉を顰めた。…それも、ほんの一瞬だったけれど。きっと、自分のような人間でなければ気が付きもしないだ
ろう。逆に言えば、それだけこの青年は、表情を隠すのに長けていると言える。
確かに疲れてはいますね、と、彼はまたも笑った。…さっき見せた、好意しか抱き得ない、完璧な笑顔で。
「僕は、父の仕事を手伝っているんですが…随分とこき使われているんです。馬車馬のような、という表現を体感する日々なもので」
「それはそれは。…でも、それはお父様が信頼あっての事でしょう」
「どうでしょうか。今度聞いてみようかな。…と、そろそろ行かないと」
「あぁ、すみません。お引き留めしてしまいましたね。お仕事、がんばってくださいね」
「いえ、こちらの方こそ失礼しました。それでは、僕はこれで」
一礼して、青年は足早に去った。若王子はそれをぼんやりと見送る。あんな風に、何の悩みも逆境もなく生きてきたような、前途洋洋の未来しかあり得ないような若者にすら、何かしら心に抱えてい
るとすれば、世の中生きている人間の数だけ、そういうものが存在するのだろうか。この、雲一つない夏空の下に。
しかし、一歩歩きだせば、もう先ほどのぶつかった青年のことは記憶の向こう側に消えていた。こんな事は、よくある、ありふれた日常の一瞬に過ぎない。
「おっ!やっと来たな。遅ぇよ、若ちゃん!」
「すみません。さっきそこで人にぶつかったもんで」
市の図書館の中はひんやりとしていて、外よりは随分と過ごしやすい。「そんなの理由になるかよ」と、人もまばらな図書館に不満げな声が不躾に響き、若王子は苦笑した。しかし、今回遅れたのは
こちらの非だ。小言は口にしないでおこう。
大体、目の前の彼は尖がっているようで、実は公共道徳の大切さを理解している(が、それでも時々は忘れることはある)。わざわざ言う必要はない。
「それにしても、今日は随分と地味なんですね」
「は?何が?」
「恰好ですよ、恰好」
普段の彼は、それはそれは破天荒で、型破りな格好をして街を闊歩していた。周囲の人間が眉を顰めるどころか、顔色を変えて避けて通るくらいの悪目立ちだった。自分には詳しく報告してこないが
、恐らくは似たような恰好をした輩とちょっとした小競り合いくらいはあっただろう。その彼がこうまで地味な――言い換えれば至極真っ当な――服装でいるというのは、以前から彼を知る自分とし
ては意外だったのだ。
若王子の指摘に、彼は、「あぁ、これ」と、バツの悪そうな顔をして、視線を逸らした。照れ臭いらしい。
「まぁ…なんっつうか。まずはカタチからってのもいいかなと思ってさ。…変か?」
「いいえ、ちっとも」
笑い返せば、彼は幾分ほっとしたような顔をした。そうすれば、実はまだ幼さすら残る面影であることに気が付かされる。
「…並んで立つには、まだまだ程遠いんだけどな」
ぽそりと聞こえた呟きに、けれど若王子は何も言わなかった。…誰にも、知らずと心の内を零す事はよくある事だ。そして、それは他人に聞かれたくない話だと言う事も。
始めましょうか、と、若王子は机の上に拡がる本の一冊を開く。自分程度の声では、ここのひんやりとした空気の一片も動かす事はないのだと、ぼんやりと思った。
(どうしたものか)
ここ最近、赤城大地はそればかりを考えていた。さすがに仕事に支障をきたすほどではないが、それでも小さな失敗はいくつかしてしまい、父どころか秘書にまで溜息をつかれる始末だ。全く冗談じ
ゃない。そもそも、発端は自分ではない。…呆れるくらいなら、面倒事を自分に押し付けるのはやめてほしい、と、何度目かわからない溜息をつく。無論、溜息をつこうが恨み事を言おうが、この問
題はなくなりはしないのだ。
大した事ではない。だが、どうにも気が進まない。進むはずがない。
激務に追われる中、僅かながらの休みの一時であるというのに、気分は憂鬱だった。せっかく出してもらった水菓子も、お茶も、手を付けていない。
「…大地さん」
きちんと扉向こうで入室の許可を取り(もちろん形ばかりの儀礼ではあるが)、秘書は涼しい顔をして部屋に入り、それから軽く眉をよせた。
「…勿体ない。このまま置いておけば、いたんでしまいますよ」
「なら、君が食べればいい」
「私は甘いものは苦手です」
表情一つ崩さずに淡々と言い、備え付けのソファに座る大地の横に立つ。彼は自分の秘書であるが、何せ子供の頃からの付き合いもあるし、年も向こうの方が上なので例え敬語を使っていたとしても
態度は慇懃である場合が多い。仕事に関しては非常に有能なので、文句の一つも言えた試しはないが。
それでなくても背の高い彼に、横に立たれるのは暑苦しい。座ればいい、と、大地は動作だけで示した。…声にするのも億劫だ。
「先ほど受け取った書類、先方にお渡ししておきました」
「うん。ありがとう」
「念のため、中を確認しましたが…、向きが揃っていませんでしたよ」
「あ…、さっき、道で落として…それでだ」
人にぶつかって書類をぶちまけ、おまけにぶつかった相手に拾うのを手伝わせ、更にはつまらぬ愚痴をこぼしそうになった。考えごとも暑さもあったが、それにしても迂闊だったとしか言いようがな
い。
それを証拠に、向かいに座る秘書は形の良い眉をまたも寄せた。今度は間に皺まで作って。
「落とした?そしてそれをそのまま?…貴方はまともな一社会人で、この企業の責任者の一人であるという自覚をお持ちであると考えていましたが」
「…悪かったよ。そんな嫌味な言い方しなくってもいいじゃないか」
「今後は、そのような事が無いように」
秘書はそう言い放ち、それから出されっぱなしの水菓子に手を伸ばす。…甘いものは苦手だと言った癖に。
「…嫌なら無理に食べなくていいよ」
「嫌だというわけではありません。ただ、多くは食べませんが。…慣れました」
「なれる?」
「妻が好きなので。…いただきます」
顔色一つ変えずに答える秘書に、大地はあぁ、と生返事を返す。何せ式の時に一度会ったきりなので、顔は良く思い出せなかった。
「…ねぇ、君はどうやって結婚したの?きっかけは?」
「見合いです。…旦那さまに勧めて頂きまして」
彼の言う「旦那さま」とは、大地の父の事だ。
「なるほど。少なくとも苦手だった甘い物が食べられるようになったくらいだから、幸せではあるわけだ」
「お陰さまで」
やはり、躊躇う素振りすら見せず、彼は淡々と答える。そして、所作の手本のように美しい動作で水菓子を切り分け、口に運んだ。
「まぁ…、そうだろうな」
そもそも「幸せ」かどうかという問いは、矛盾しているような気もする。「結婚」とは契約なのだ。個人の感情云々の話とは違う。…少なくとも大地はそう考えているし、大地にとってはそういうも
のになるだろう。第一、父の紹介なのだから、彼には断ることなど出来なかった。そして、結果夫婦仲が冷え切ったとして、この自分に言うはずがない。表情にすら出さないだろう。
所詮は、そういうものだ。わかってはいたが、改めて考えると心が冷える気がした。
「…何です?もしや、とうとう結婚される気になったのですか」
「いや…、そうじゃないよ。…僕の事じゃない」
自然と、声が沈んだ。…あの弟は、決して素直に納得などしないだろう。それはそうだ、この自分でさえ、釈然としないのだから。
「…一雪のことだけど」
そう切り出して、自分の声は存外低く響くのだと気付く。秘書は手を止め、大地の方を向いた。
「一雪のことだけど、僕が、話すことになった。今日か、明日にでも」
「…そうですか」
「うん。…こういうのは、後回しにしてもいい事ないだろう?」
「…大地さん」
何か言いたげな秘書の視線を、大地は避ける。わかってるよ、と言葉を吐きだした。もっと投げやりに言ってやろうかと思ったが、いかにも子供っぽいのでそれは止めておく。
もう決まった事だ。そして、それに自分は否と言う事は出来ない。
「諦めるなら、早い方がいい」
勝手な言い分であるはずなのに、まるで正しいことのように整然とそれは響いた。
海の傍で
「わぁっ、つめたいっ」
波の音の中に、高めの声が響く。まるで、夜明けに聴こえる小鳥の鳴き声みたいだ。ゆっくり歩きながら、瑛はそんな事を思う。
彼女が、まさか一緒にここに来るとは思わなかった。…いよいよ母は実力行使に出てきたらしい。あんなおっとりした顔をしているくせに、何て強引な進め方をするのだろう。ある程度は無理やり事
を進めようとしてくると思っていたが、まさかこんなに早く、こんな思い切った行動に出られるとは思わなかった。
無論、母の中には、息子が『拒む』という未来は想定されていないからこその行動だとも言えるが。
(……拒む?)
「ねぇ、佐伯さん」
「…ん?」
「さえきさん」、と呼ぶ彼女の声がいちいち耳にくすぐったい。何の謀りもなく、単純に自分を呼ぶだけの声は、嬉しいというよりもいっそ救いですらあった。こんな、ただ呼ばれるだけでも、だ。
彼女がここに来たということは、つまり、彼女が自分の傍にいる事を望んだからに他ならない。それは、何にも代えがたい幸福だった。
ただ、嬉しかった。彼女が、自分の傍にいることを選んでくれたのが。
「前から思ってたんだけど、ここ、こんなに綺麗なのに誰も来ないんだね」
「あぁ…、だって、ここはウチの浜だからさ。ウチの人間しか入れないからな」
「ウチの浜、って…どこまで?」
「まぁ、ここから見える範囲は」
白い砂浜、青い海。ここは、一番好きな場所だ。そして、そこに、彼女もいる。
「…とは言っても、この辺りはヨソの別荘もいくつか建ってるし…実際にはその辺りの線引きは曖昧らしいけど」
「そうなの?」
「あぁ。だって、まさか浜に壁を作るわけにいかないだろ?今回は時期が少し早いから誰にも会わないけど…全く誰にも会わないってわけじゃないよ」
「そっかぁ…これだけ広いしね。迷って、知らずには入っちゃうこともあるよね」
海風が、彼女の着ている服の裾をひらひらとはためかせる。白生地の清楚なワンピースは、彼女の為に母が用意したものだ。いかにも母好みで、そして彼女に良く似合っていた。
ざぶんと返す波に、彼女は小さく歓声をあげる。さっきから、彼女は裸足で波打ち際を歩いているのだ。靴は濡れないところに置いてある。
拒む。そんな必要が、どこにあるというのだろう。こんなにも満たされて、穏やかな気持ちになれるのに、それを手放す必要が、どこに。
「昔、私も迷子になったんだって」
「……え?」
不意に聞こえた声に、思考が途切れた。顔を上げれば、彼女はぼんやりと海の方を見ている。
「昔は、うちにも別荘があって。それで、海で遊んでるうちに迷子になっちゃったんだって、勝己が言ってた。自分では、あんまり憶えてなくて」
「…それって、何時の話?」
彼女とここに来てから、ずっとずっと不思議だった。…あの時の事を、余りにも思い出し、重ね合わせてしまう。
それはきっと、自分の都合の良い妄想なのだと思う。あの時出会った女の子が、彼女であればいい――というよりも、彼女であるはずだ――と、考えるのは。
海の近くに別荘があったというのなら、余程遠方でない限りここ以外である可能性は低い。
勝手な期待に鼓動が速くなっていくのを、瑛は抑えられなかった。
「いつって…詳しくは憶えてないけど、ずっと小さい頃よ。…あ、でも、勝己がもう家にいたから…」
「誰かに、会わなかったか?」
「会う?誰かって、誰に?」
「だからっ……!」
お前が一人で迷っていた時、お前は俺と会ったんじゃないのか。また会おうって、迎えに行くって約束したのは、お前なんじゃないのか。もしかして、もしかして。
「佐伯、さん…?」
不思議そうに見返すあかりの表情に、我に返る。違う。あの日は、もっと日が傾いて、空の色も海の色も違っていた。砂浜と海ばかりの景色の中に、あの子は一人ぽつんと座りこんでいて。
突然、夢のように、いつか聞かされた話のように、そこにあらわれた。
――私は本当は人魚姫だったの。そして、おじいさまは私の王子様なのよ。この海でおじい様と私は出会ったの。
――おばあさまが?にんぎょひめ?
――そうよ。瑛のお母さまだって、昔はそうだったのよ。
――ほんとう?じゃあおとうさまもおうじさまなの?
――そうよ。…だから、瑛だってきっと人魚姫に会えるわ。
もちろん、それはただの作り話だ。今となってはわかっている。それでも、それを信じてしまうくらいに、あの子は突然あらわれて、そして会えなくなった。
ひたり、と、頬に何かが触れる。それは、あかりの手だった。
「どうしたの、佐伯さん。…泣いているの?」
「…泣く…?」
言われて、初めて気が付いた。風が吹くと、濡れた部分がひんやりと冷たくなる。
「なんか…ぐちゃぐちゃだ、俺。…混乱してる」
「大丈夫?気分が悪いとか…、それなら戻った方が…」
「いい。大丈夫だから」
「でも…」
「あかり」
自分の顔に伸ばされている手を、瑛はそっと掴んだ。彼女はむしろ、瑛が名前を呼んだことで離れかけた足を止める。
「俺…」
(やめろ)
言ったところでどうなるものでもない。彼女があの時の人魚姫であろうとなかろうと、この先、自分が進む道は変わらない。変えるつもりは、ない。
だけど、言わずにはいられない。
「…と、思う」
「……え?」
「人魚姫は、お前だと思う」
手を離し、そして、そのままそれを彼女の背に回した。細い背の、そして華奢な肩の薄さを知って、知らず腕に力が籠る。
夢でもまぼろしでもなく、現実に自分に触れるこの温もりが欲しいと、気付いてしまった。
『覚悟を決めなさい』
自分の抱く夢が、どんなにか子供じみて、現実離れしているものか、それはよくわかっているつもりだ。あの祖父ですら、理解を示してくれても後押ししてくれる言葉は言ってはくれなかった。
冷たいとか、そういう問題ではない。瑛の置かれている状況は、それだけ重いのだ。自分の人生は、自分だけのものではない。今までそうして生きてきたし、もっとはっきり言えば、そういう生き方
以外、自分は知らないのだ。嫌だ何だとうっとうしがる素振りをしたところで、本当に『ここ』から抜けることなど、出来やしない、ただの子供だ。何も。自分で決められたことはない。
――どちらかよ。
そこには明らかに「出来はしないだろう」という意味も込められていた。何も答えられない息子に、母は淡々と言葉を紡ぐ。
――私の大切なお友達のお嬢様に、みすみす苦労を背負いこませるわけにはいきませんもの。
揶揄ですら、なかった。そしてそれは、瑛にも全くの正論だと思えた。
母は、神妙な顔つきを一度も崩すことはなかった。
――だから、貴方にはどちらを選ぶべきか、わかるはずよ。
ふと、窓の外を見る。当たり前だが、街灯すらない外は真っ暗だった。今日は雲が出ているせいか、浜と海の区別も俄かにはつき難い。耳を澄ませていると、波の音だけが遠くから聞こえた。
明日には、ここを引き揚げる。海野あかりと一緒に過ごすのも今日が最後だった。
あれから――海野あかりを抱きしめてしまった、晴れの日の午後――も、表面上は何事もないかのように日々は過ぎた。…何事もないかのように、演じたのだ。時折、何か言いたげな視線を感じたけ
れど、わざと気付かないフリをした。
単純に、夢を見ていたかった。彼女気持ち云々よりも、自分の為に。まるで、何事もなく、未来の明るい恋人どうしのような、あるいはそれを予感させる仲であるような、そんな錯覚を起こしていたか
った。
…でも、それも今日で終わりだ。
ずっと座りこんでいた寝台から立ち上がる。部屋を出かかって、一旦足を止めた。…まだ、迷っている。
やっぱり、明日の朝にしようか。こんな夜更けに部屋に行くなんて、非常識だし、恥知らずもいいところだ。
(…いや、だめだ)
今更、延ばしてどうする。言うなら今夜だ。明日には、もっと大物とやりあわなきゃいけない。
(…間違っていない)
彼女の部屋に向かいながら、何度もそう自分に言い聞かせた。思わず人魚姫だなどと言ってしまったが、はっきりとどう思っているかを伝えたわけではない。
母の言う事に逆らうわけでもない。あの人はどちらか選べと言ったのだ。だから、自分は譲れない方を選ぶだけだ。
心を決めてここに来た彼女は、あるいは傷付ける事になるかもしれない。でも、それだっていつかは時が解決してくれるだろう。彼女には、どうしても自分でなければいけない理由はないのだから。
しばらくは周りが騒がしくなるかもしれないが、そのうちに新しい話が出てくるだろう。…例えば、赤城とか。
――僕の好きなのは、あの子なんだ。
まっすぐに、何も躊躇わずに言った親友の顔をふと思い出す。思い出して、今更のように胸が痛んだ。
(だから、何だって言うんだ)
もう、俺には関係のない話だ。どうだっていい。
部屋の扉を叩くと、しばらくしてから彼女は戸を開けた。もしかしたら眠っていたのかもしれない。驚いた顔をしていたけれど、どことなくぼんやりとしていた。
「どうしたの?こんな時間に……」
「ごめん。…話があってさ。入っていいか?」
少しは考えられるかと思ったが、打てば響くような反応の良さで彼女は諒解して、瑛を招きいれる。
「だからお前…そんなカンタンに」
「え?だって話があるって」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさ」
ふわりと、甘い匂いが鼻を掠めた。不意に、先日の海辺の出来事を思い出す。思わず手を伸ばしかけて、抑え込んだ。そんな事、出来るはずない。俺はもう、こいつには指一本触れない。 そう、
強く自分に言い聞かせる。
「…?どうかした?」
「…いや。…あのさ、いつか、俺が珈琲の店をやりたいって言った事、憶えてるか?」
「うん、もちろん。素敵な夢だなって思ったもの」
あの時と、変わらずにそう言ってくれた事が嬉しかった。彼女は不思議そうに、「それがどうかした?」と首を傾げる。
(…お前が、そう言ってくれるなら)
その言葉だけ信じて、俺は、やれると思う。…やりたいんだ。だから。
軽く、息を吸い込む。柄にもなく緊張しているのか、うまく呼吸ができないような気がした。
「俺は…、自分の夢を叶えたい。…少なくとも、何もしないまま、諦めたくはない」
「…うん。…大変だけど、でも、佐伯さんなら、きっと素敵なお店に出来ると思うよ」
「お前、ここには、何て言われて来た?」
「え?」
初めて、彼女の声が驚いたように上擦った。何度か目を瞬いて、それからまっすぐに見ていた視線を、彷徨わせる。
「そ、それは…あの」
薄暗い部屋でははっきりわからなかったが、もしかしたら、彼女の顔は少し赤くなっていたかもしれなかった。
その姿に、早くも挫けそうになる。あの時のように、抱きしめることが出来たら。そうして、離さないでいられるなら。
「明日、お前は家に帰る。…そして、それっきりだ。今度こそ」
「…え?」
「もう、二度と会わない。こんな所に来させたのは悪かったけど、まだ何も正式には決まってないんだし、このまま忘れてほしい」
少し、早口になってしまった。それでも言い切って、彼女を見ると、何を言われたかわからない、といった表情だ。
そして、たっぷり時間をかけてから、ようやく、「どうして」と、小さく聞こえた。
「どうして、そう思ったの?…どうして二度と佐伯さんに会えなくなるの?」
「俺は、この家を出る」
その言葉に、彼女がはっと息をのんだのがわかった。
「…店をやりたいなら、この家は出なきゃいけない。だから…」
「なら、私も付いて行く」
はっきりとつよい言葉に、思わず瑛は話すのを止める。一瞬、自棄になって言っているのかと疑ったが、彼女の表情を見れば、そうではないのがすぐにわかった。
いっそ、恐れすら抱く潔さだ。こんな簡単に、どうして彼女は「ついてくる」などと言えるのだろう。迷わず、それが当然だとでも言うように。
「何、言って…。お前、わかってないから、そんな簡単に…」
「わかってなくなんてないわ。だって、私は…」
「駄目だ!」
たぶん、最後まで聞いてしまったらこっちが折れることになる。…それだけは、絶対に出来なかった。
「俺は、何も持たなくなるんだ。自分の事だけで、精いっぱいになる。お前みたいな何も知らないお嬢さんなんて、単なるお荷物なんだよ。…迷惑なんだ」
迷惑、という部分を、わざと強調した。今度こそ、彼女は黙りこんだ。そして、もう食い下がることを諦めたのだと、雰囲気で知る。
終わったのだと思った。何も感じない。もっと、胸が痛むものかと思っていたのに。
「…今までありがとう。…どうか、幸せに」
嘘偽りない、本心からの言葉だったが、それに対しての返事はなかった。
僕の海の名前
(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine
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