水中夢



長雨に、桜を思い出す。



今年は梅雨が早いのか、五月晴れの季節も早々に去り、よく雨が降った。しとしとと降る雨は、街全部を灰色の空気に包みこむ。
夏になりきれない空気を、雨が冷やしているような気がした。机に頬杖をつく指先が冷たい。

(佐伯さんはまたカフェにいるのかしら)

さっきまで佐伯家でのお花見の事を思い出していたはずなのに、もう頭の中で場面が切り替わっている。
少し前、(いいえ、大分前?)あかりは偶然に佐伯に会った事を思い出していた。雨と、珈琲の匂い。
あの日、佐伯はあかりに夢を話してくれた。珈琲のお店の話だ。

彼自身は色々と悩む事があるようだが、あかりは単純に素敵な夢だと思った。そして佐伯ならそれを実現することは出来る気がした。
出来る気がする、というのは確かな根拠があるわけではない。むしろあかりには何故実現できないか具体的な問題について考えたことがなかっただけだ。
やりたいと思った事は、出来るのだと信じてきた。これまで自分の生き方に、思い悩んだことなんてなかった。

からら、と、引き戸の開く音がする。けれど、あかりは窓の外を見たままだった。教室に誰が入ってきたのかは、頭の端でわかっている。

「…窓を開けているの?あかりさん」

しっとりと響く声に、あかりはゆっくりと振り返る。水島密は少し首を傾げるようにして微笑んでいた。
表情には疲れなど微塵も表さない彼女だが、その声には微かに疲労が混じっている事を、あかりは感じ取る。

「だめよ?夏が近いと言っても、まだ冷えるんだから。風邪をひいてしまうわ」
「…ごめんなさい」
「でも、一番いけないのは待たせてしまった私ね」
「私、ひとりでも帰れたのに」
「だって今日は送って行くってお約束でしょう?…それに、私も一緒に帰りたかったの」

迎えはもう来ていると思うわ。密はそう言って笑った。

あかりの友人である水島密は、今、学校、そして家族からの「説得」を受けている。彼女は突如、留学することを周りに明かした。しかも、音楽留学だ。
一番に打ち明けられたあかりはとても驚いたし、今でもまだ信じられないくらいの話だが、彼女の両親や学校はあかり以上に驚き、更には憤慨もし、悲嘆にくれた。
それはそうだ。水島家といえばやはり名家だし、密にしてみても留学を考えているなどとは露程も感じさせなかった。だから周りは(そしてきっと彼女の両親ですら)卒業後はそれ相応の家に嫁ぐものだと信じて欠片も疑わなかった。そしてどうやらそういう話もいくつかはあったらしい。
けれども彼女にとって留学は「譲れない夢」で「以前から考えていたこと」らしく、最終学年の今年になって彼女は初めて動きを見せた。そして、決まっていた縁談を「お断り」し、外国語を独学で習得し、留学先の師事したい先生に何とか手紙を書いて送った。更には返事も受け取っていた。後は彼女が「向かう」だけというところまで、彼女はたった一人でやりきった。

夏休みが明ける頃には、彼女は行ってしまう。遠い遠い海の向こうへ。

水島家の馬車に二人して乗り込んでからも、密はしばらく無言だった。疲れているんだとあかりは思う。彼女は連日学長室に呼び出されていた。

「…さすがに」
「え?」
「さすがに、少し参っちゃう。こうまで周りから理解されないとね」

ふっと、密はひっそりと笑った。その顔はひどく大人びていて、あかりには遠く感じる。彼女が自分と同い年の女の子だなんてとても思えない。
私は密さんの味方よ、と、あかりは心では思ったけれど、すぐには口に出せなかった。理由はわかっている。あかり自身が彼女の夢を心から応援できないからだ。
だって、「外国」にたった一人で行ってしまうなんて。船で何カ月もかかるような所なのに。言葉もまるで違うし、誰も助けてくれる人はいないのに。
けれども、彼女は行くのだという。ここに留まろうという気は全く起きないらしい。それが羨ましいのか寂しいのか、ともかくあかりは複雑な気持ちになってしまう。

「…怖くはないの?」

そんな言葉が、口から零れた。ずっと、聞こうと思っていた事の一つだ。怖くないの?寂しくないの?本当に一人で行けると思っているの?
だって、私にはとてもできない。
あかりの問いに、密は笑った。さっきよりは少し和んだ笑顔で。

「もちろん怖いわ。不安な事だらけよ。皆無理だと言って反対するし」
「それなら、どうして」
「もう、そうするしかないから」

ひんやりとした空気に、密の声が凛と響いた。

「私だって、たくさん悩んだし、迷ったわ。縁談だって決まっていたし、実際今だって、やっぱりやめてしまおうかって思う時があるの」

だけどね、と密は続ける。柔らかな、しっとりとした声。

「ある時、ああやっぱり行くしかないなって。自分でもびっくりするくらい突然にそう思った。それまで悩んでいたことが馬鹿みたいに。それしかないって」
「…それしか、ない」
「行きたい、んじゃなく、行くしかない」

だから、私はもう迷わないの。密は静かにそう言ってまた黙って窓の外を見た。

「それに、そんな大層な事じゃないと思うわ」
「…そんなこと、ないわ」

事もなげに言う密に、あかりは小さく反論する。けれども密はまた笑って首を振った。

「誰だって、いつかは突き当たる事よ。私は偶々決めたのが留学だっただけ。そうでしょう?」
「…よく、わからない」
「あかりさんだって、きっといつか決めるわ。…場合によっては私よりずっと大変なことかもしれない」
「外国へ行っちゃう事より大変な事なんてあるの?私が…そんな事出来るわけない」

どうしてか、涙が出そうになってあかりは俯いてこらえた。…どうせ、密には隠しきれはしないけど。
私は寂しいんだ。密さんが外国へ行ってしまうことも、夢を持ってどんどん先へ行ってしまうことも。もう、いつ会えるかわからないくらい遠くへ行ってしまうことも。

「…密さん。外国へ行ってしまっても、私の事、忘れないでね?」
「もちろんよ、忘れるわけないじゃない。私の大切な親友だもの。手紙だって書くし、また戻ってくるわ」

きゅ、と握られた手は暖かった。「わたしも」と、あかりは涙声でそれだけ何とか返した。
いつか「決める」。そんな時が来るのだろうか。「それしかない」と思えること。




どうしてか、佐伯の顔が浮かんだ。夢を語った、彼の横顔。






「…失礼しました」

部屋を出る前に一礼し、戸を閉めてから、瑛は重く息をつく。
何かを変えられるかもしれないという一縷の望みを託し、進路希望の欄は空白で提出したのが間違いだった。かえって面倒な事になっただけだ。
「ご両親」に進路に関して「お話を伺われる」のは、瑛の一番避けたい事態だ。得意の社交的態度で一流大学に行くと言っておいた。口だけなら何とでも言える。

そう、口だけなら何とでも。

廊下の窓の外は、雨に濡れてねずみ色だ。じっとりと湿気を含んだ空気が重い。

(…雨か)

ふと、いつかの雨の日を思い出す。肩までの髪、自分とは全然違う細い腕、くるくるとよく変わる表情、笑顔。
よく笑う奴だよなと、思い出して瑛は笑う。お花見の時も、雨の日偶然会った時も、舞踏会に行く前に踊りを練習した時も。初めて会った時も。

思い出して体が温かくなるようなこの感覚を、いい加減無視することは出来ないのはわかっていた。思い出して嬉しくて、そして苦しくなる感覚。
放課後の学校には生徒はあまりいなかった。学校は人のいない時間が好きだ。せいせいする。

春の花見は楽しい思い出になった。自分でも、彼女を良く見ていた自覚はある。あの子はよく笑って、そして誰とでもよく話していた。自分とは違う、素直な、心からの笑顔を彼女は隠さない。
出会う度にもう二度と会わないと思うから、自然よく憶えておこうとするのかもしれない。そしてその想いは、重なるたびに強くなる。

「あれ?まだいたんだ?」
「…赤城」

誰もいないだろうと思って戻った教室(荷物を置いたままだった)には、見知った顔がいた。そこで、意識が外側にかえる。
それが親友の顔だと認識した瞬間に、瑛は動揺を隠しきれなかった。赤城一雪はそんな瑛を見てからかうように笑った。
彼とは、最近ちゃんと話していない。あの、花見の日以来。

「…何?僕がいたらそんなに変かな?ちょっと図書室で調べ物してただけだよ」
「そう、か」
「君は?こんな時間まで学校にいるなんて、そっちこそ珍しい」
「ちょっとな。…進路の事で」
「ふぅん」

意識して避けていたわけじゃない。と、出来れば言いたかったが、自信はない。
だって、どうしたって思い出してしまう。そして、何て言えばいいのか全然わからなくなってしまう。
赤城は取り立てて瑛の進路には興味はないらしい。頷いただけで、それ以上は何も聞かれなかった。
いや、違う。頃合いを見計らっている。きっとこいつは踏み込んでくる。
俺みたいに、ぐずぐず悩んだりしないんだ。いつだって、驚くほどにあっさりと赤城は物事をこなしていく。
強いんだ、俺なんかより全然。どんな事にでも迷わないし、畏れない。

『覚悟を決めなさい』

思い出したくもない先日の母とのやり取りが脳裏に浮かぶ。理不尽な押し付けだと憤慨したいくらいの気持ちなのに、瑛にはそれが出来なかった。
母ですら、瑛はまともにやり合えない。それなのに何故父親に同等で話が出来るだろう。
いい加減、子供じみた駄々をこねるのはおやめなさいと、母は言った。見苦しいわよ、瑛。

『貴方はどうしようもない甘えたの子供だわ。苦労も世間も知らない、絵に描いたようなおぼっちゃまだわね』
『…母さんたちがそうしたんじゃないか。俺を、そういう風に育てて、これからだってそうしていくんだろ?』
『そんな言葉で私を動揺させようというのなら、とんだ考え違いよ、瑛』

母の声は静かだった。そして優雅さを失わない。それがかえって厳しさを際立たせる。押しつぶされるような圧倒的な威厳が、そこには存在した。

『…覚悟を決めなさい。それと、「権利」だなんて甘い言葉を私の前で二度と口にしないで頂戴』

その言葉の意味を、しかし瑛は何となく汲み取る事が出来る。もっと自分が莫迦なら(あるいは子供なら)何も気が付かずに母に楯突く事も出来ただろうに。
あれくらいの言葉に揺らされる自分の心が情けなかった。母が言う「覚悟」とは、言葉の強さほど無理のあることではない。佐伯瑛として生まれてきた時から既に決まっていた事だ。

(…くそ)

貴方が決めなさい、と母は言った。全てを「受け入れて」前に進むか、それともまだ駄々っ子のように、甘い甘いお菓子のような夢を見続けるのか。
言外に、そんな事出来やしないでしょう、と母は言っているのだ。珈琲の事を本気でやりたいと思うなら、瑛は佐伯家とは縁を切らなければいけない。戸籍上は息子であっても、もうあの家に居続けることは出来なくなるだろう、援助などあるはずがない。本当に一人きりで生きていかなければいけない。そんな困難な道を、選べるはずがないでしょう、と。
無論、そんな事は初めからわかっていた事だし、家に未練があるわけではない。だが、母は瑛にもう一つ「忠告」した。

そして、それが決定的だった。思わぬ事態が、瑛の心を迷わせ続けている。

「何だ、深刻そうな顔して。何か言われたの?」
「いや…まぁ、ちょっと、な」
「そっか。…確かに、君は大変そうだ。お家も立派だし」
「そんなの、お前だってそうだろ?」

赤城家といえば、爵位こそ無いが、ここいらの新興企業家の中では最も力があり規模も大きい。父親からそんな話を聞いた。
しかし、赤城はといえば「僕には関係ないよ」と、どこ吹く風といった感じだ。

「父さんの仕事を継ぐのは兄貴だからね。僕は丸っきり自由だよ。その代わり、家もお金も兄貴が持ってっちゃうんだろうけど」

赤城は冗談めかして肩をすくめた。

「今は兄貴も独身だからいいけど、これでお嫁さんでも来てごらんよ。ますます僕の居場所なんてなくなっちゃうね、きっと」
「…そういうもんかな」

瑛には兄弟がいないから、よくわからない。

「兄貴はあんまり興味がないみたいだけど、母さんが張り切っててさ。大ちゃんには早くかわいいお嫁さんを見つけてもらわないと、って」
「たいちゃん?」
「あぁ、うちの兄貴ね。母さんはそう呼ぶんだ」
「じゃあ、お前は?」
「…僕は別に普通」
「嘘だね」
「…そこまで正直に言わなきゃいけない義務はないだろ?」

赤城は困ったように眉を下げて笑う。いつも本音を隠さない彼にしては珍しい。よほど知られたくないんだなと、瑛は顔を緩めた。
彼は赤城家の次男だが、家の事業に直接携わる事はないらしい。彼には弁護士になるという夢があるので、あるいは弁護士となって関わるのかもしれないが。
ただまっすぐに夢に向かって突き進む赤城が、瑛は羨ましかった。嫉妬と諦めがない交ぜになったような気持ちでいつも彼を見てしまう。
自分自身に正直でいられること、そうする事が出来る強さを持っていること。

(…俺には出来ない)

用意された道を是とせず、だからといって全てを捨てて夢に走る事も出来ない。思うとおりにならなくて、その事に不貞腐れて、周囲を遠ざけて冷ややかなふりをして。
お坊ちゃんだと、言われても仕方の無い体たらくじゃないか。

「…あのさ、一度、きちんと聞かなきゃいけないと思った事があるんだけど」

冗談めいた笑みを消して、赤城は真面目な表情でこちらを見る。
不意に、海野あかりの笑顔が頭に浮かぶ。桜の花なんかより、きらびやかな舞踏会なんかより、ずっとずっと鮮やかに思い出せる笑顔。
ほんの少しも躊躇う素振りを見せない赤城は、眩しいような気すらした。

「君は、あの子と、もしかして婚約でもしているのかな」

予想した以上の直球な質問に、一瞬どう言えばいいのか言葉が出てこなかった。いや、迷う事自体がおかしいだろうと、瑛は自身の迷いに混乱する。
本当のことを、言わなくちゃいけない。赤城は友達で、それは瑛にとっては本心で、だからこそ彼に嘘をつくのは手酷い裏切りなのだとわかっている。
わかっているのに。
口の中はからからに乾いていった。迫る心臓の音が、正常な思考を阻んでいる。ちゃんと呼吸をしているはずなのに、苦しくて仕方がなかった。

「…前に話しただろ、好きな子がいるって」
「あぁ…そういえば、言ってたっけ」

苦しくて苦しくて、瑛は赤城から目を逸らしていた。窓の外には薄墨で汚されたような雨空しか見えない。

「あの子だよ。僕が好きなのは、あの子なんだ」
「……へぇ」

(…聞きたくない)





ここは本当にちゃんと空気があるのだろうか。まるで水の中のように苦しい。





決心



「そんな事、本気で仰ってるの!?」

狼狽した声を上げたのは海野夫人の方だった。思わず上げた大きな声は、天井の高い応接室に響いたが、ここの使用人は優秀らしく、少しも動揺することなく端に控えている。
対する佐伯夫人は、相変わらず「優雅」の化身であるかのように悠然と微笑みを絶やさずそこにいる。どこから見ても完璧な侯爵夫人の微笑みを、しかし今回はのんびり観賞する気にはなれない。

「あら、貴女がそんな声を出す事ないじゃない。それとも、何かご不満?」
「いいえ、そうではないわ。そうではないけれど…」

とりあえず、気を落ち着かせるために紅茶の淹れられた器を持ち上げる。美しく赤い飲み物は、鼻先に近付ければ花のような香りがした。

「貴女の驚く顔、久しぶりに見たわ」

うふふ、と佐伯夫人は悪戯が成功して満足した子供のような顔をしている。貴女のそういう顔、私も久しぶりに見たわよと、海野夫人は心の中だけで呟いた。

「…この話、佐伯さまはご承知なの?」
「いいえ、私の個人的考え」
「だったら、尚の事タチが悪いわ」
「でも、もう決めたのよ。それに自慢じゃないけれど、あの方は私を叱ったりはしませんわ」
「今度こそ、初めて叱られるかもしれなくてよ」
「そうねぇ、そうしたら実家にでも帰ろうかしら?あの方、私がいなければなぁんにも出来ないのよ?」

何てこと、佐伯家の真の主人はもしやこの人なのかしら、と、海野夫人は頭を抱えたい気分になる。彼女の息子は随分と反抗するらしいが、その気持ちも全くわからないでもないわと、この場にはいない彼にほんの少し同情した。
しかし、こうなると彼女の「個人的考え」に変更が加えられることは無さそうだった。もう決めたのよと彼女が言ってしまえば、それはそうなのだ、昔から。

「…少し、冷静にならなければいけないわ。貴女の言っている話は…確かに、うちにとっては素晴らしいお話だけれど…」
「でしょう?だから、貴女がそんなにも遠慮することはないのよ」
「こんな事が世間に知れたら…貴女は、佐伯家が笑いものになってもかまわないって言うの?」
「そうは言ってないわ。…まぁ、その辺りは巧くやればいいじゃない?」
「そんな簡単に…」

言い募る海野夫人を抑え、ちりんと呼び鈴を鳴らす。そして「お茶のお代わりを」と使用人に頼むと、もう一度彼女は向き合った。

「…先日、勝己さんにお会いしたわ。お花見の時にご挨拶頂いて。とても立派になられて…私、感激しましたのよ」
「あぁ…ごめんなさい。招待もなく失礼かとは思ったのだけど、折角だからご挨拶をと思って」
「とても嬉しかったわ。…そして、貴女はやっぱり立派な方だと思ったの。私にはとても真似出来ないわ。…自分の息子だけで手一杯。それすら持て余している感はあるわね」

佐伯夫人はふと視線を外し、窓の外を見やる。窓の向こうには整えられた庭がどこまでも広がっていた。

「…それでも、考えたの。私は何が出来るかしらって。…もちろん、あの子にはこの家を継がせます。それがあの子の生まれた時からの義務ですもの。…何から何まで、あの子の希望を叶えさせるわけにはいかない」

その言葉は、生まれも育ちも、全てにおいて上流である彼女だからこそ出来得る思考だと、海野夫人は黙って言葉の続きを待つ。与えられる者は、与えてくれる者たちに対してその身を惜しんではいけないというのが彼女の持論だ。端的に言えば、富の代償は自由だということになる。そうして支えてくれる人たちに対して自分を犠牲にする生き方をむしろ誇りとして生きるのが「彼女ら」だ。

「…私、あの子はきっとあかりさんに恋をしていると思うの」
「…本当に?」

それは、思わぬ言葉だった。あかりの方はそういった雰囲気はなかったが、まぁ、あの子はまだ幼いから仕方ないのかもしれない。
本当よ、と、夫人は自信たっぷりに言った。それくらいわかるわ、だって、私はあの子の母親ですもの。
そして、続けて言った。だから、せめて恋だけは叶えてあげたいのよ、と。

「多少は強引になってしまったけれど…、そうね、あるいは、貴女が仰るように佐伯家の名に恥じる行為かもしれないわ」

だけど、ちっとも構わない。と、彼女はきっぱりと言う。そして、それから、ほどけるように微かに笑った。
そこに混じる寂しげな表情は、母親としての想いか、それとも、家を継ぐということの重圧を知っている者としての想いか、それは俄かには判別がつかない。
だが、その表情は見ている海野夫人にも胸が詰まるような思いを感じさせた。普段の完璧な侯爵夫人の顔ではない微笑み。

「…何もかも手放して、ここにいるのは辛すぎるでしょう」





途方もない不安と淋しさがそこにはあるというのに、それでも彼女の美しさは失われない。
「お茶のお代わりをお持ちしました」という、使用人の声が静かな室内に響いた。





(…………)

その夜、あかりは眠れずにいた。暗い部屋の中で、横にもならずに窓の外をぼんやり見ていた。夏の夜はにぎやかだと思う。夜に活動し始める虫たちの声があちこちから聞こえるのを、何となく聞いていた。窓を開けていたので、時折、昼間よりは涼しい風が顔を撫でていく。

「…ダメ」

ずっと一人で考えていたけれど、何も答えが出てこない。こういう時、あかりが取る行動は一つだった。寝間着のまま部屋を出ようとし、だが、少し考えて簡単な上着を羽織って出る。
これで、部屋の前で追い払われる心配はない、たぶん。

夕食の時間、明日から夏休みだとはしゃいでいたあかりに、両親は「話がある」と切り出した。それなら俺は、と部屋を出ようとした勝己もその場に同席するように母が促して。

「…海?私が?」

話とは、春に花見に招待してくださった佐伯夫人が、またもやあかりを招待してくれる、との事だった。今度は海らしい。近くに、佐伯家の別荘があり、そこで半月程過ごすのだそうだ。
単純に、あかりは素敵なお話だと思った。先だってのお花見もとても楽しかったし、けれども半月も家族でもない自分がお邪魔するのはどうなのだろう、と一方で疑問も残る。
そして、もっと根本的な疑問として、何故あの方はこんなにも自分を良く誘ってくださるのだろう、ということだ。婚約の話はとっくに無しになったのだし、それに罪悪感を感じて心を砕いてくださっているというなら、もう充分すぎる程だというのに。
更に言えば、舞踏会の時もお花見の時も、両親はこんなにも真面目な顔はしなかった。こんな、改まって「話がある」だなんて。

「あの、何かあったの?話って一体…」
「そんな、構えることはないわ。…そうね、お父様があんまり真面目な顔をされるから、驚かせてしまったわね」

ふわりと、母は笑う。けれども父は、変わらずに真面目くさった顔をしていた。





コンコンと、扉を叩く。程なくしてそれは開かれた。部屋の主はあかりを見て、けれどもさほど驚いた様子もなく、ただ呆れたように溜息をついた。

「…そんな顔しなくてもいいのに」
「今、何時だと思っているんですか」
「だって、眠れなくて。それから、敬語はやめて」

彼はまだ灯りを消さずに起きていたらしい。この部屋は使っていない倉庫を改装して部屋にしたのだが、それなりに広さがあって、居心地もいい。
窓が小さいのがもったいないけれど、と、そんな事を考えながら、あかりは断りもなしに勝己の寝台に上がり込んだ。

「…っ、おい」
「大丈夫だよ、寝ちゃったりしないから」

そういう問題じゃない、と、勝己は苦虫を噛み潰したかのような顔をしたが、あかりは見ないふりをした。だって、最近の勝己は細かい事にうるさすぎる。勝手に一人で出歩くなとか、用もないのに部屋にくるなとか、寝間着一枚で部屋に来るなんて言語道断であるとか。

「ねぇ、こんな時間まで何してたの?」
「別に」
「別にって…、何もしてないってことはないでしょ?」
「別に、何でも」
「…もうっ、けち!」

私には煩い小言を言うくせに、勝己のことは何も教えてくれないのね、と、あかりは口唇を尖らす。昔はこんな事なかったのに。私たちの間に、秘密なんて何一つなかったのに。
少なくとも、あかりの方には今でもない。

「俺のことはいい。…眠れないって、どうしたんだ」

寝台の上に座りこむあかりの近くに、勝己は椅子を持ってきて座った。勝己は何時からか、勝己の方からあかりの隣には決して座らない。

「考えていたの」
「…考えるって?」
「今日、お母様に言われた話」

勝己の表情に変化はなかった。ただ、視線があかりから、その下の方へ動いただけだ。

『…これは、佐伯様のご厚意でもあるわ』

母はそう言った。だから、あなたもきちんとそれにお応えしなければいけないのよ、とも。

「ねぇ、勝己はどう思う?」

話とは、要約すれば縁談の話だった。以前、佐伯瑛が勝手に断ってきた話を、もう一度「正式に」取り決めたいという。息子の方はその気がなくても、夫人はまだ諦めたわけではないようだった。
はっきり言ってしまえば、海野家の方に断る理由などない。佐伯家という家柄を考えればそれは自明の理というものだ。例え、あかりの意思を無視して勝手にまとめられたとしても、皆が諸手を挙げて喜ぶ縁談に違いない。

だが、そういった強引な形は、佐伯夫人の意向に反するらしい。彼女としても友人の娘であるあかりを、そういった形で佐伯家に迎えたくはない。何より、彼女はあかり自身にも好意を持っていたからでもある。
故に、一つの提案がされた。それは、佐伯家のあかりに対する破格の譲歩だった。

もしも、あかりにその気が無いのなら、今回の海行きの話は聞かなかった事にしてほしい。
けれど、前向きな考えがあるのなら、この招待を受けてほしい。

『つまり、あなたが選ぶのよ』

考えられない話だった。どちらを選んでもあかりは傷付かない。下手をすれば、嫁入り前の娘が選り好みして男を選ぶような話だ。しかも、相手はあの佐伯家の一人息子だというのに。
違う見方をすれば、それだけ佐伯家は真剣なのだということになる。黙っていても、いくらでも親戚になりたい家はあるだろう。それを、爵位はあっても大した財産もない海野家に、ここまで食い下がるというのは誰にも予想の付かない事だった。あかりが話を受け入れようが断ろうが、こんな話が世間に出回れば佐伯家の名は陥落することは間違いない。それくらい大変な事なのだと母はあかりに言って聞かせた。

いつかの雨の日、親友の水島密と話していた「決めなければいけない時」が、こんなにも早く訪れるなんて、と、あかりは思い出す。
けれど、どれだけ考えてみても、あかりにははっきりした答えが見えない。一人ではとても決められそうにない。

……いや、答えは何となく出ていた。ただ、自信がないのだ。

「…俺は、良い話、だと思う」

長い長い沈黙の後、一言一言を区切るようにゆっくりと、勝己は言った。まるで、彼自身もそれを確かめるかのように。

「立派な家なのは言うまでもないが…、何より、良い人たちだと思う。…きっと、幸せになれる」
「…うん、そうよね」

頭の中に思い浮かべてみる。優しいお祖父さま、そしてちょっぴり強引だけど、やっぱり優しくて綺麗な佐伯さんのお母さま。
…それから。

「…私、本当言うと、どうするかはちゃんとわかっていた気がするの。…でも、自信がなかった。何って、それは、うまく言えないけど」

彼の事を思う時、いつだって思い出すのは寂しげな表情だった。何故かわからない。そんな顔、あからさまにされた記憶もないのに。
だけど、心からの笑顔だって知っていて。だから、最後には、彼にはそうして笑っていてほしいと思う。
そして、その為に傍にいる事を望まれるのならば、それを彼が望むのなら、あかりには迷う理由なんてない気がした。

「…ありがとう。やっぱり勝己に話を聞いて良かった」

勝己も、良い話だと、つまりあかりが迷う必要はないと言ってくれた。これはとても重要なことだ。
例えあかり自身が迷っても、勝己がちゃんと背中を押してくれる。あかりにとっては、それは本当にとても大切なことだった。

「決めた。…私、行くわ」





だからこそ、その時あかりは晴れやかに笑う事が出来たのだった。











僕の海の名前




















(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine