ちいさなころ
(…つめたい)
つめたくて、くらい。だけど瑛は誰とも会いたくなかった。誰とも会いたくないときはいつもここに来る。
つめたくてくらいけど、怖くはない。ここは自分の家だ。いかに広くとも自分の知らない場所などここにはないのだから。
両親が近寄る事を禁じている場所にだって、瑛は平気で入って行った。そりゃあ少しは緊張したけれど、入ってしまえば何てことはない。
そして、いつしかそうした場所は彼自身の隠れ家になった。どこだっていい、一人になれるところがほしかった。別に家族が嫌いなわけじゃない。単にそういうものが必要になったというだけだ。
ガタリと背中で扉の開く音がする。差し込む光が、影を作った。
――ここにいたのね。
やわらかな声。勢いよく瑛は振り返る。少し眩しかった。
それから「どうして」と聞いた。どうしておばあさまは僕のいるところがわかるの?ここは誰にも秘密なのに。
――私も、もし隠れるならここにすると思うわ。
どこに隠れようとも、祖母には必ず見つかった。それが何故なのか瑛は未だによくわからない。
いつもならすぐに傍に駆け寄るのだけれど、その時ばかりはどうしてもできなかった。出来ない「理由」があったのだ。
立ちつくす瑛に、祖母はにこりと微笑む。彼女の方から静かに歩み寄った。
――私は別に怒っていないわ。…代わりにお父様にそれはそれは怒られたでしょうから。
――だって…だって、知らなかったんだ!
苦し紛れにそう言うと、一緒に涙も溢れてくる。ああ、だから誰にも会いたくなかったのに。
祖母の言うとおり、父には散々に叱られた。あんなにも怒られたのは生まれて初めてかもしれない。今回ばかりは祖父も助け船を出してはくれなかった。
――…ごめんなさい、おばあさま。知らなかったけれど…でも、やっぱり僕が悪いんだ。
――もういいわ。だから、私と一緒に母屋へ戻りましょう?これ以上皆を心配させる方が良くない事よ、瑛。
そう言って、祖母は瑛の手を取った。多少皺はあって自分の手とはまるで種類の違う生き物のように感じるのだが、瑛はそれでもきれいな手だと思っていた。
母が大事にしているピアノみたいだ。磨き抜かれた美しい象牙の白鍵。
――…それに、あなたが意味もなくあんな事をするわけがないわ。私たちにはわからないけれど、あなたにとっては大切なことだったのでしょう?だから、いいの。
――…ごめんなさい。
淡く微笑む祖母に、瑛は小さくそう繰り返すことしか出来なかった。大好きで大切な祖母であっても「それ」は話せない。
祖母だけじゃない、誰にもそれを話さないと瑛は決めていた。話してはいけないような気がした。
唯一その事だけが、早くに亡くなった祖母に対する心残りだった。許してくれた祖母なら、話してもいいんじゃないかと何度か思った。
けれども、結局言えないままだった。それほどに祖母は突然に、そしてあっけなく死んだのだった、泡になって消えるみたいに。
あなたにとってはたいせつなこと。
確かに大切だ。そして怖くもあった。誰かに話して、夢だと言われる事が、そして自分自身もそう思い込んでしまう事が。
「…花見?」
「ええ、そう。丁度うちにある桜が見頃でしょう?丁度いいと思って」
「……そうですか」
妙に機嫌の良さそうな母の様子に瑛は訝しげに眉をひそめる。
確かに毎年桜は咲くし、花見をしたこともある。だが、こうまで上機嫌なのには何か裏があるのではないかとつい疑ってしまうのはもう癖だ。
母は細い指先で優雅にティーカップを持つ。我が母親ながら何をしても様になる人だなと、ぼんやりと思った。
「なぁに?気のないお返事だこと。家でやるお花見くらいお付き合いしてくださってもいいのではなくて?」
「それは、もちろんそのつもりだけど…何だか楽しそうだと思って」
「ええ、とても楽しみだわ、お花見ですもの。貴方も楽しみにしていらっしゃいな。学校のお友達もお誘いするといいわ」
「はぁ…」
どうにもおかしい。いや、機嫌が良いのは結構な事だ。お陰で色々と面倒な事を言われずに済むのならそれに越したことはない。
あの花椿家主催の舞踏会以来、瑛は至って平穏な毎日を送っていた。「平穏」とはつまり、母から無理に縁談を勧められたり、あるいはそういった「出会い」のありそうな場所へ出掛ける事を強要さ
れないという意味でだ。
学校に行き、時々はカフェに寄り道する。祖父と一緒に珈琲を淹れる。全く理想の、自分の思い通りの生活だった。
けれど、どこか満たされない思いがあることに、瑛は気付いていた。気付いてはいるが、認めたくはなかった。
例えば、思い出すのだ。珈琲を淹れれば「佐伯さんが淹れてくれたのはおいしい」と言ってくれたこと。
家に居れば彼女と一緒に踊りを練習したこと。
庭を通れば、木の上から彼女が落ちてきたこと。
「素敵な夢だと思う」と言ってくれたこと。
大した時間を過ごしたわけじゃない。けれども、そんな少ない思い出が、ふとした時に浮かび上がってくる。淡く、けれども決して消えはしない思い出が。
もう、会うこともないというのに。
そこまで思い、けれども瑛は頭を振って靄のように立ち込める想いを振り払おうとした。少し、いつもと違ったからだ。
今まで会ったどんな女の子とも違っていたから、だからこんな風に思うだけだ。だから少し良く憶えているだけなんだ。
(…花見か)
あいつならきっと喜ぶんだろうなと思う。きっとバカみたいに手離しで喜ぶに違いない。目をきらきらさせて、あの笑顔で。
「今日もあたたかそうね」という母の言葉に、瑛は外を見る。大きな窓から見える庭は、春の陽射しで鮮やかな緑が映えた。
(もう一度)
もう一度会えたら、なんて、そんな都合の良い事を考えているわけじゃない。
「…花見?」
「ああ。友達誘えって言われたんだ」
「それで僕をご招待してくれるというのは一体どんな裏があるわけ?」
「別に何でもない。…何でそういう言い方するかな、お前は」
こいつはイイヤツだけれど、こういうところが好きじゃないと、瑛はため息をつく。
けれども、口を開けばわかりきったおべっかを使われるよりは余程いい。赤城一雪は、そういう意味では誰より信頼のおける友人だった。 瑛がどういった家の生まれだろうと、赤城の態度は特別
敵対するものでもなく、媚びへつらうものでもない。そんな事はどうでもいいと思っているらしい。
しかし、周囲はそうした目で多分に見るので、一雪が影では謂れのない中傷を受けていることも瑛は知っていた。
赤城家は事業に成功した勝ち組の成り金で、その息子は爵位持ちの佐伯に近づいている、という評判だ。
初め、全く根拠の無いバカバカしい話だと瑛は怒りすら覚えたが、当の本人である一雪がどこ吹く風で気にも留めないのでそのままにしている。一度その事を聞けば「仕方ないよ。彼らは何も自分で
手に入れられないんだ。嫉妬くらいはするだろうさ」としゃあしゃあと言ったのだった。彼が「変わり者」だと若干遠巻きにされる原因は、本人の性格も関係あるらしい。
「気を悪くしたのなら謝るよ」と、その変わり者の親友は言った。少しも悪びれず。
「でも、家に招待してくれるなんて初めてだろ?裏があるっていうのは少し考えすぎかもしれないけど、何か事情があるのかと思ってさ」
「無いよ。あれば話してる。まぁ、何かありそうではあるんだけどさ、それは俺にもわからないよ」
「なるほど。とりあえずはお花見自体を楽しもうってわけか」
「無理にとは言わないけど。俺はお前以外を誘う気はないし」
「それはまた、親友冥利に尽きる言葉だ」
大袈裟に言う一雪に、だから何でそういう風に言うかなと瑛は一層げんなりした顔をした。
学校の昼休みは少し長い。食事を終えた生徒たちが出て行った食堂は、がらんとして静かだった。
明かりは窓の外からの光だけだ。それでも充分に明るい。
「ごめんごめん、正直に嬉しいと思ってるよ。ぜひ伺わせて頂きますとも。君ん家の桜ならきっと見応えがあるだろうし」
「…まぁ、それなりに。弁当は母さんが作ってくれるから、悪くないと思う」
「へぇ、君のお母様も料理するんだね」
「普段は人任せだけど。そういう時は作るんだ。今回もやたら張り切ってたし」
「そっか。それは楽しみだな」
嬉しそうに笑う一雪の顔を、瑛はしばらくじっと見る。元々浮き沈みがそうある方ではないけれど、それにしても何だかいつもと違う。
「…何だよ。そんな熱心に僕の顔見たっていい事ないぜ?」
「何か、最近調子良さそうだな、お前」
「僕はいつだって機嫌が良いし、ついでに言えば成績も良いよ、悪いけど」
「そう言うんじゃなくて…何て言うか、何か楽しそうっていうか、嬉しそうっていうか…」
ふっと、一雪はまた笑った。それは、いつもと同じようでけれども全然違うようにも見えた。
何だ、一体。その表情が妙に優しくて、瑛は戸惑った。背中が、痒い気がする。
「まぁ、良い事はあったよ、最近。それでじゃないかな?」
「何だよ、良い事って。教えろよ」
良い事というのは、試験のヤマが当たったとか、茶柱が立ったとか、それくらいの事だと瑛は思っていた。「教えろ」と軽い気持ちで言った瑛に対して、一雪は顔色一つ変えなかったのだから。
けれども、平然とした顔をして一雪が言った「良い事」は全く予想外の言葉だった。
「うん。好きな子がいるんだ」
「へぇ好きな…って、はぁっ!?」
思わず顔を見返すと、彼はやっぱりいつもの調子で「そんなに驚くことかな?」と言った。
驚くに決まっている。大体、こいつはどうしてこんな、「試験のヤマが当たったんだ」と言うのと同じ調子なのだろう。理解できない。
「お、おまえ…よくそんな軽々しく」
「軽々しくなんて、そんなつもりはないよ。君にしか言うつもりはないし。第一、聞いたのはそっちじゃないか」
「そ、それはそうだけどさ…」
やっぱりこいつは変わり者だ、と内心思う。
それにしても全然知らなかった、好きな…子がいたなんて。
当然の流れで、それは誰なのかと口を開きかけて、けれども瑛はそれを止めた。不意に、頭に浮かび上がった光景に、瑛は何も言えなくなった。
あの舞踏会の夜、自分は何を見た?
ちっとも上手じゃなかった。ヒールも脱いでしまって、けれども笑っていた。
あかりが笑っている、その隣には自分でなくて彼がいた。
「まぁさすがに誰かっていうのは話せないけど…、正直良く知らないし」
「そ、うなんだ」
あるわけがないと、即座に思った。ただの偶然だ。自分の知っている情報を繋ぎ合せただけの、推測にすぎない。
一雪の家は爵位こそないが立派な事業を持つ家だ。そこの息子の相手ならもう予めきちんと決まっていてもおかしくはない。 自分とは違って、彼はそういう事にこだわりはなさそうだし。
もし万が一自分の推測通りだったとしてもだ。それはそれで喜ばしいことのはずだ。
あかりには幸せになってほしいと思っている。それは今でもだ。その彼女の相手が一雪なら何も問題はない。
(…どうして)
それなのに、どうしてこんなにも気持ちが逸るのだろう。脳裏に一瞬、彼女の笑顔が浮かぶ。
その話は、それ以上は聞けなかった。
お花見
そう。軽々しく、などというつもりは一雪には毛頭ない。
あの舞踏会の日から、気が付けば一雪は彼女の事を考える。名前と笑顔しか知らない彼女の事を。
一雪に恋愛の経験はない。夢みる乙女じゃあるまいし、そんなものに憧れを抱く事もなかった。「結婚」というのなら、それは当然両親が決めた相手とそうなるのだと思っていた。
良いとか悪いとかの問題じゃない。世間とは、そして常識(あるいは良識、とでもいうのか)とはそういうものだと一雪は弁えているつもりだった。
しかし、一方で気に食わないという気持ちもある。自分は兄とは違い家を継ぐ必要もない。彼に余程の大事が無い限り、一雪には負わされる義務はない。しかし遺され、与えられるものも兄とは比べ
物にならない。そして、その中で最も重要でかつ保証されていなければならないのは「自由」であるはずだ。自分自身で何もかもを決定づけるということ。
自分以外の人の事を、こんなにも考えたことはなかった。会いたいと思う、話したいと思う。
他の女の子に会ったことはないから比べようもないが、その必要もなかった。一雪はあの子が良いと思うからだ。時間が経てば経つほどそれ以外の結論は考えられなかった。
これが「好きだ」というのでなければ何なのだろう。きっと僕は彼女に恋をしているのだと一雪は思う。自分の気持ちだから、間違えるはずはない。
(…とは言ってもな)
ならば実際問題どうすればいいのかと言えば、それはさすがの一雪も二の足を踏む。一番手っ取り早いのは両親を頼ることだろうが、それはあまり気が進まなかった。
おかしな拘りだが、一雪は彼女に関しては自分で何とかしたかった。あまり合理的ではないし、そもそも何も行動出来ていない。彼女に直接話す機会だってあったのに、そこに思い至らなかった自分
はやはり舞い上がっていたらしい。
「…まぁ、悩んでばかりでも仕方ないか」
ふと、落していた視線を上げる。門から入った馬車は未だその動きを止めない。小窓から見える風景の、一体どこからどこまでが佐伯家のものなのだろうと、一雪は嘆息した。あるいは、視界に入る
所は全て、なのかもしれない。
一雪は家柄、とりわけ「爵位」というものには敬意はあっても恐れを持った事はない。名ばかりの権威に、それでも拘りを見せる両親にどこか冷めた気持ちすら感じていたくらいだ。家の名前や伯爵
であるかないかで人と成りが決めつけられるなど前時代の考え方だとすら思う。
しかしながら、かつてはその権威がどれだけの力を持っていたかを、ここにきて一雪は実感していた。自分の家もそれなりに裕福な方だとは思っていたけれど、話が違う。何もかもが圧倒的に違う。
何故それを皆が欲しがるのか、恐れるのか、この家の広大さと荘厳さが言葉では表せない部分を全て説明している。花椿家の時も似たような事を思ったが、ここは見ず知らずの他人の家じゃない。友
人の家だ。
そりゃあんな風になってしまうかもなと、一雪は親友の事を思う。彼の肩にかかるものの重さ、そして、「爵位」のない自分の家との歴然とした違いを。
「やぁ、わざわざ佐伯家のご令息にお出迎えに来てもらうとは恐縮だな」
「その言い方やめろ。…まぁでも、歓迎するよ」
「こちらこそ招待してくれてありがとう。立派なお家だね、話にも聞いていたし想像もしていたけれど思った以上だった」
「それについての感想はなし」
「桜も楽しみだなぁって事だよ?」
「うん、それは期待してくれていいと思う。…こっちだ」
馬車を降り、瑛の案内で更に歩く。庭というよりは少し裏手に行くようだ。
「…あれ?でも色々立派だったけど、馬屋は見なかったな」
「あぁそれは第2邸の近くだから…たぶん帰りは見るんじゃないか」
「へぇ、第2邸ね」
「今はじいちゃんが住んでる。花見の時に紹介するよ…その前に母さんに会うだろうけど」
「光栄だな」
「本気か?それ」
「もちろん。君のお母様ならきっと美人だろうし」
軽口を言えば、瑛は呆れたようなほっとしたような顔をして笑った。
赤城一雪です、と挨拶をしてくれた息子の友人は利発そうな目をしていた。隙のない挨拶、笑顔。きっちりと今日着ている着物のことまで誉めてくれた。
彼があの赤城家の次男であることは既に知っている。
「あの」などという言い方は悪意に満ちているとも取れるが、佐伯夫人にとっては単に「名前を良く聞く」という意味でしかない。
「男の子がお花見だなんてつまらなくなければいいのですけれど」
「いえ、これだけ立派な桜を見れる機会はそうありませんので楽しみにしていました。ですが、正直佐伯くんが自慢していた奥様のお弁当の方が気になります。花よりだんごで申し訳ないですが」
「まぁ」
利発そう、なのではなくて本当に利発な子なのだと夫人は感心する。こんな言葉をすらすらと口にするなんて、お家でよく言われているのだろう。そして、彼はそれを難なくこなすことができる。
つまりこれは「性質」ではなく「作法」であり、教育と鍛練のたまものなのだ。彼だけでなく息子にしてもそれは同じ事で、洗練された応対はその人自身の努力と能力、更にはその後ろにある家その
ものの価値を見る基準となる。
そういった独特の考え方が、時には重荷になるのだという事も夫人は知っている。知ってはいるが、それに耐えるのが自分達なのだ。背を向けようが逆立ちしようがそれは変わることはない。
とはいえ、今日はそういった意味で誘ったわけではなくただの花見だ。どんなに大人顔負けの卒のない挨拶をしたところで、瑛と同い年の子供には違いない。
夫人は緊張を解せるようにと、ゆったりと微笑んだ。
「今日はね、まだお友達をお呼びしているのよ?」
「へぇ…どんな方ですか?」
「うふふ、それはまだ秘密。でも、私のわがままを聞いて下さいましたの」
もちろん、断られるはずはないと踏んでいた。断られるような下手な誘い方などするわけもなかった。強制するつもりなど毛頭ない。けれども夫人はどう言えば相手が折れるか、そしてどう言えば自
分の望みが叶えられるかをある程度は把握していた。そもそも自分の願いが無下に断られるなど、彼女は肉親以外からされたことがない。
この「誘い」には当然狙いはあったわけだが、それを抜きにしても彼女は楽しみだった。
「やっぱり、花がなければつまりませんもの」
「え…?」
ご到着されましたという言葉と共に、視界に入る小さな人影に自然顔が綻ぶ。やっぱり女の子はかわいい。着いて早々、彼女は息子と挨拶を交わしていた。
そしてその後ろに寄り添うように歩く背の高いもう一人の予定外の訪問客に、しかし夫人は目を見張る。
「まぁ…貴方は」
「…ご無沙汰しております」
それだけを言って深々と頭を下げた少年に夫人は初め何も言う事が出来なかった。
思わず感極まって、言葉が出てこない。頭に、かつての可憐な友人の顔が思い出される。
「立派に…なられたのね。お話だけは伺っていたのだけど」
「今日は…すみません。招かれてもいないのに。ご挨拶だけで自分は失礼します」
「何を仰るの。貴方だってもちろんご招待するわ」
お顔をよく見せてと言うと、彼は困惑しながらも自分の方をまっすぐに見た。
彼に会ったのは数えるほどだ。それも随分と小さいころ。一番印象に残っているのは彼の母親の通夜の時だ。
涙どころか、泣きごと一つ言わなかった。静かで、意志の強い眼差しは今も変わらない。
その姿を、佐伯夫人は子供ながらに立派だと思ったが、海野夫人は「不憫だ」と言った。そして「あの子を、ひとりには出来ない」と何もかも勝手に決めて引き取ってしまった。
彼女があれ程に強固な意志を見せることは珍しかった。その行動を、佐伯夫人は慎重さに欠けると当時は思ったものだ。志波家の子供は勝己一人であり、海野家には男子はいない。その事だけでも彼
女への風当たりが強くなるのは充分予測できたし、実際そういった声も当然出た。そのような環境は、遺された子の人生に更に不幸な影を落とすかもしれないと夫人は思ったのだ。
「でも、やっぱり間違ってなかった。今の貴方を見ればわかります。海野さんはご立派ですわ」
「海野の両親には…母には、感謝しています」
「志波さまも、きっとご安心されていることでしょうね」
「そうだと…いいのですが」
遠慮しながらも微かに表情を緩める少年に、夫人は益々好感を持って彼に微笑みかけた。今日は何て幸せな一日だろうとそんな気持ちだった。
優秀そうな息子の級友に、立派に育った友人の息子。そして、いずれかは息子の傍にいてほしいと願う自分もお気に入りのご令嬢。皆が一度に自分の周りにいる事が、まるで一度にたくさんの幸福が
集まってきたように思ったのだ。
けれどもこの花見の席こそが彼女の思惑から外れていく始まりになるとは、佐伯夫人は思いもよらなかったのだった。
「佐伯さん!」
目が合うなり、海野あかりが大きく手を振るのが見える。驚きと、後から遅れて感じる嬉しさに瑛はどういう顔をしていいか迷った。何故彼女がいるのかは容易に想像がつく。きっと母の策略だ。
けれども、少しも悪い気分じゃなかった。それよりも、むしろ。
(…って、何考えてんだ俺は)
彼女は駈け出さんばかりの勢いだったが、今日は着物姿なのでそれは出来ないらしい。代わりにぶんぶんと手を振って笑っていた。その後ろに立っていた男は、軽く一礼して彼女から離れる。
「…そんな手を振らなくても見えてるよ」
「だって、久しぶりに会えたから嬉しくなっちゃって…あ!今日は、お招き頂きましてありがとうございます」
「…ぷ。何だよ、今更改まっちゃって」
「な、ひどい!ちゃんとご挨拶したのに!」
「怒るなって。…どうぞ、今日は楽しんでください、お嬢様?」
おどけて恭しく手を差し出すと、彼女はほんの少し瑛の方を見てからまた微笑んだ。そうして出した手に、彼女のそれがそっと重なる。 あかりの着る薄桃色の訪問着の裾が、ゆらりと揺れた。
「今日も優しい佐伯さんだ」
「そんなの着て転んだら目も当てられないからな。保険だ」
「あ、それとね。今日は勝己も一緒に来たの。断りもせずに失礼だとは思ったんだけど…」
「ああ、別にいいよ。うちの母さんとも知り合いみたいだし…」
「それでね、お願いがあるんだけど…佐伯さんのお家の馬屋を見せてもらえますか?」
「馬?」
お花見だっていうのにどうして馬なのだろうかと首を捻ると、どうやらあの勝己という男の為らしい。
「あのね、勝己は馬術が得意で、それで馬が…馬だけじゃないけど、とにかく大好きで。きっと気になってると思うの。さっきのお迎えの馬車の馬も立派だってずっと言ってたもの」
「なるほど…。いいよ、好きなだけ見てくれれば。一々そんなの断らなくてもいいけど、一応話は通しとく」
「ありがとう!きっと喜ぶと思う!」
子供のように喜ぶあかりを見て、瑛もつられて笑ってしまう。相変わらず裏表のない奴だ。
しばらく歩いている間、あかりの話を瑛はずっと聞いていた。大した中身もない、取りとめもない世間話だ。それでも、それはちっとも嫌じゃなかった。
他人が笑ったり、楽しそうにしている事がこんなのにも嬉しい事なんて今まであっただろうか。家族でさえ、時折向き合う事が面倒になるというのに。
(…だけど)
心のどこかにちくりと針に刺されたような痛みを、瑛はずっと感じていた。
(違うんだ、こいつは)
――むかえにいくよ、ぜったい。
あかりの笑顔を見るたびに、心が揺れる。同時にいつも思い出す風景。あの日の海。
海野あかりが、あの子のはずはない。…そんな都合の良い偶然あるはずがない。
違うとわかっていても、揺れてしまう。母の計画している未来へのレールに乗っかってしまってもいいかとすら思う。
そうして親の言うとおり家も継げばいい。それが一番楽なはずだ。誰も文句も言わない、むしろ喜ばれるだろう。
だけど。
「…あ、赤城さん」
あかりの声に、瑛は我にかえる。そして、ずっと握っていたあかりの手を離した。
(ああ…やっぱり)
好きな子がいる、彼はそう言っていた。
そしてやっぱりそれは自分の予想通りだった。瑛は自分たちの方を見る赤城一雪の顔を見て思い知った。
「赤城さん、佐伯さんとお知り合いだったんですね」
「……また会えたね」
朗らかに挨拶してくれた海野あかりに、一雪は何とかそれだけは答えた。それから花見が始まってもろくに話も出来ていない。
さっきまで、親友が手にしていた彼女の手をふと見つめる。
彼女に会えたことは嬉しい。だが、それ以上に動揺が大きかった。それを、彼女にもそして周りにも悟られたくはなかった。
少し前、そういえば縁談の相手に会わなければいけないと言っていた気がする。よく聞く話だから、その時は大して気にも留めなかった。第一、佐伯はいつもそれを断るのだから無いのも同じことだ
。 きっと海野あかりのことも、そうやって断ってきた多くの縁談相手の一人なのだろう。彼女は気さくそうだから、そうして「無い事」になった後も友達付き合いが続いているのかもしれない。
きっと、そうだ。
(…そんな馬鹿なこと)
あるはずがない。
一雪は自分の中の下らない考えを苦々しく思った。そんな考えはあまりにも常識外れだ。何の将来も考えない女の子を家に招待などするわけがない。
自分の思い描く想像は恐らくほぼ真実で、そして自分にとっては何一つ良い事はなかった。唯一の救いは、本人からはっきりとした話を聞いていないという点だけだ。
けれど、それもあまり意味はない。一雪は佐伯瑛を親友だと思っていたし、そう思うからには彼の事もそれなりに把握していた。表情だけで彼がどう思っているかは大体予想がついた。 更に言え
ば、自分の観察力というものに割と自信を持っていた。今ほど、それが的外れであればいいと願ったことはないけれど。
(あんな顔、初めて見た)
海野あかりの方ではない。だが、そうである方がよほど良かった。
佐伯の方に一切気持ちが無いのなら、その方がずっとずっと良かった。いつもみたいな冷ややかな顔か、うわべだけの笑顔なら。
「…赤城さん」
「…え」
掛けられた声に、顔を上げる。それで、自分がすっかり視線を下げていた事に気付く。
佐伯家の桜は文句のつけようもないくらい立派で、確かに一見の価値はあった。広い庭園の一角に何本も桜が植えてあって、それは見事なものだ。
時々ちらちらと桜の花びらが舞う中に、彼女は立っていた。少し首を傾けるようにして、一雪の方を見ている。
「あの…舞踏会以来ですね」
「そうだね」
「桜、すごく綺麗ですよね。奥様のお弁当も楽しみだし…お茶も頂けるんですって」
「……もしかして、僕は君に気を遣わせてる?」
「そっ…そんなこと!ただ、あんまりお話してなかったから…」
あたふたと手を振る姿が既に答えだと一雪は思ったが、そんな余計な言葉はもちろん口にはしなかった。
女の子に気を遣わせるなんて情けない(母あたりが知れば説教ものだ)けれど、そうして話しかけてくれた事が素直に嬉しかった。
「ごめん。…少し考え事をしていたんだ。大丈夫、桜もちゃんと見てるよ」
「…何か、心配ごとがおありなんですか?」
微かに眉をひそめる彼女に、一雪は笑う。こういう時、顔色一つ変えずに誤魔化せる自分は器用なのか不器用なのかどっちだろう。
「試験が近いからね、面倒だなぁって思っていただけ。…ねぇ、ところで君はどうして僕には敬語で話すの?そんなお堅い奴に見えるかな?」
「そ、そういうわけじゃありません…でも、失礼かと思って…」
「僕にも是非普通に話してほしいな。…着物、似合うね。この間のドレスもかわいかったけれど」
「あ、ありがとう…」
誉められて、照れたように俯くあかりを見て、一雪も一旦口を閉じた。
我に返った、と言うほうが正しい。話したい気持ちが強すぎて、何を言い出すか自分でもうまく制御出来ない。
こういう感覚は初めてで、そしてやはり間違いないのだと一雪は思い知る。彼女の表情や声や、それ以外の些細なことであっても。全てが一雪の心を波立たせる。
知ってしまったら、もう戻れない。そして、引くつもりなど一雪は一瞬も考えなかった。
「さっきからごめん。僕ばかり話してるな」
「いえ、気にしないでくださ…じゃない。気にしないで。お話、聞きたいもの」
「僕こそ、君の話を聞きたいんだけど」
迷わない。少なくとも、自分以外の事を言い訳にして気持ちを誤魔化したりなんてしない。
自分には、その必要はない。何にも縛られることはないのだから。
「君の事が、知りたいんだ」
佐伯家の馬屋は立派だった。言いかえれば、馬屋だけでなくどこもかしこも他の家とは比べ物にならない。
そこにいる馬は皆きちんと世話がされており、穏やかな、幸福そうな目を見ると勝己の気持ちも和んだ。
「…おや、お客様かな」
振り返ると、そこには老齢の紳士が立っていた。年を取っているといっても、洋服を着こなした姿勢の良いその姿からは老いは感じられない。
「あぁ、そうか。君は瑛が言っていた子だね。初めまして、祖父の総一郎です」
「突然すみません。…志波勝己といいます」
「馬がお好きですか。今日は花見をするんだと聞いていたんだが」
「ええ、まぁ…」
何と答えていいかわからず、勝己は言葉を濁した。
元々、ここに来るつもりはなかった。しかし、あかりが一緒に行きたいと言うし、海野の両親からは折角だから佐伯夫人に挨拶をしてこいと言われたので結局は折れたのだ。
それでも、やはり花見の席に一緒にいるのは何となく心苦しくてこうして逃げてきた、と言うことになる。もちろん馬を見たかったのも本音だったが。
心苦しいというよりも、見ていたくなかったのかもしれない。桜ではなく、佐伯瑛と話すあかりの姿を。
「…ところで、君は珈琲はお好きですかな?」
「…は?」
突然の言葉に戸惑う勝己に、総一郎はにっこりと笑った。
「良ければ、この年寄りに少しお付き合い頂けますか」
「はぁ…」
連れてこられた屋敷に、この老紳士は住んでいるらしい。彼の趣味なのか、家の中は舶来のものがたくさん置いてあった。絵画が好きなのか、額縁もたくさん飾ってある。
「…海の絵がお好きなんですか」
「はは、まぁ僕がというよりは妻がね。だから、つい海を描く事が多くなりました」
「じゃあこれは…貴方が?」
「昔はね。今じゃあすっかり遠のいてしまったけれども」
「…凄いですね」
改めて見直す絵は、芸術的な価値に関しては正直勝己にはわからなかったが、それでも良い絵だなというのはわかる。わかるというよりも、ただそう感じただけだが。
「たくさん描かれてたんですね」
「いや、いつもは部屋にまとめて置いているんですが…時々こうして出してきて眺めたくなる時があるんですよ、自分で描いた絵だというのにね」
どうぞと出された珈琲を一口飲む。一応、珈琲がどんなものかくらいは知っていた。だが、この苦みが美味いのかどうかはあまりわからない。
そういえば、あかりは苦いと言ってあんまり飲めなかったなと思い出して、勝己は少し笑った。
「最近じゃあ、瑛…孫の方が珈琲を淹れるのがうまくなりましてね。困った事に学校の勉強よりも余程好きなようで。…あいつはあいつで色々思う事があるようですが」
「…そうなんですか」
「若い時は迷うこともたくさんあるのでしょう。時が経ってしまえば大したことのない話でも、若い時はそれが大きな壁になる事もあるでしょうから」
「そう、なんでしょうか」
「今はままならないことも、いずれ笑って受け入れられるようになる。そうして年を取るんでしょうな。良くも悪くも」
今は、ままならないこと。
手にしていた珈琲の入ったカップを、静かにソーサーの上に戻した。深く息を吸い込むと、珈琲の香ばしい匂いが体の中に満ちる。
「受け入れる準備はもう出来ているんです、とっくに。ずっと、昔から」
何度も、自分に言い聞かせて生きてきた。それだけは今も、これからもどうにもならない事なのだから。
だけど、それでも離れずにここまで来てしまった。時間が経てば、それだけ辛くなるのは目に見えているのに。
「…俺も、早く大人にならないと」
決めなければいけないことを、ずっと先延ばしにしてきたけれど。
「…すみません。おかしな事言って」
「いやいや。…もう一杯どうですか?」
「ありがとうございます。ですが…」
もうそろそろ失礼しないと、と言い掛けて動かした目線の先に、勝己は声を止めた。
そこにあるのは絵だった。ただし他のもののように海を描いた風景画ではない。そこには人が描かれている。
ゆったりと微笑む、美しい女性の絵だ。長い髪はおろしてあって、着ているものも洋服だ。一見外国の女性かと見間違える姿だった。
だが、目を奪われたのはそこではない。
勝己の視線の先に気付いて、総一郎は目を細める。
「あぁ…あれは妻です。若い頃に、一度描いてほしいと頼まれましてね」
「そう…ですか」
こんな偶然、あるわけがない。だが、こればかりは自分の記憶も疑いようがない。
さっきまで珈琲を飲んでいた喉が、からからに乾いていくのを感じた。
「一緒になったばかりの頃ですよ。あの、首にかけているのは僕が彼女に贈ったものでしてね…」
――ずっといっしょよ。だってかつみはかぞくだもの。
(…ああ)
はっきりと憶えている。あれは大切な思い出だから。自分を今まで繋ぎとめた、諦めさせなかった最大の理由。
だから、間違いであるはずがない。
僕の海の名前
(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine
| |