嵐の前
「……酷い天気」
まだ日も高い時間であるはずなのに、空は暗く、低い。厚い雲は重たげで、吹く風は生温く耳に煩かった。雨は、ない。
花と水の張った桶を持ち、海野夫人は顔を上げる。ここに来ると、自然背筋が伸びた。
今日の空と同じ色の石が周りには立ち並ぶ。辺りに人はいなかった。ただ風の音だけが墓標をすり抜ける。
ふと、その昔「子供たち」がまだ小さかった頃を思い出した。
この場所を怖がって泣くあかりを、勝己はいつも戸惑ったように見ていた。普段は面倒見のいい彼がここに来ると彼女を持て余していた。勝己にしてみればあかりに泣かれるのは子供ながらに心外だ
ったのだろう。
あかりには怖くはないのだから泣いてはいけないと諭した。ここは、勝己のお父様とお母様が眠っていらっしゃる場所なのよと。あの子はなぜと言った。かつみのおとうさまとおかあさまはあかりの
おとうさまとおかあさまでしょう?こんなところにねむってなんていないわ、と。涙に濡れた目で見上げて、憤然と。
夫人はこの場所を、墓地を恐ろしいと思った事は一度もない。近しい人が眠る場所に恐怖など何故感じるだろう。
今日は、自分以外誰も連れてきていない。
「彼女」とは、女学校時代からの付き合いだった。華奢な体で、「可憐」という表現は彼女の為の言葉であるような人だった。
元々体の強い子ではなかった。だから卒業間際に縁談が決まった時は、ご両親も本人もとても喜んでいたのを憶えている。
大切そうに彼からの手紙を見せてくれた事や、結婚してからすぐにお宅へお邪魔した時の幸福そうな笑顔や、そんな事がまるで昨日の事のように思い出される。
見慣れた墓石。見慣れた家名、「志波家」の文字。古いが、汚れなど見当たらない。
磨かれた墓前に花を供え、膝を折り、目を閉じる。
時の短さを、嘆いてはいけない。あるいはその哀しみの深さも。
志波氏が不慮の事故で亡くなった時も、彼女は取り乱す事はなかった。幼子の手を引き、彼女は毅然とした表情ですらあり、そこにはかつての「可憐なお嬢さま」の面影はどこにもなかった。 け
れども、気持ちの上では強くとも、彼女の体は確実に蝕まれていた。弱い体に無理をさせて子供を産み、それ以来彼女の体調が良くなることはなかった。そんな時に起こった不運だった。
――今ほど、自分の弱さを呪う事はないわ。
一度たりとも弱音を口にした事がない彼女が、初めてそう言った時には、もう彼女は寝台から一人で起き上がることも出来なかった。「大丈夫よ」と、何の意味も持たないと知りながらも夫人はそう
言った。きっと良くなるのだから、大丈夫よ。
彼女は微笑った。青白い顔。けれども、光を失わない瞳に捕えられる。悲しくも、現実を見通して受け入れる理性の目。
――ありがとう。でも、私にはわかるの。…きっと、あの子を置いて行ってしまうわ、私は。
――そんなこと、ないわ。
――親は子よりも先に死ぬものだけれど、…少し、早すぎるわね。
――やめて!
病人に向かって大声をあげるなど、礼儀知らずもいいところだったがそれでも言わずにはいられなかった。恐らくは彼女の言う通り、予言する未来は来るだろう。
彼女の主治医すら、匙を投げたのだ。後はもう「来るべき日」がせめて安らかであるようにと。本人には知らされてなかったが、夫人はその事を知っていた。
知っていて、尚、自分だけはそんな風に容易には受け入れられない。第一、こうしてたった今も生きているのに死んでしまうかもしれないなどと信じられない。
細く、白い手が、自分の方に伸びた。
――いいの、泣かないで。貴女は何も悪くないのだもの。
――…私は、貴女に何もしてあげられない。
――そんなことないわ。
その時見た笑顔は、一生忘れない。
――私の、お友達でいてくれてありがとう。
それから程なくして、彼女は亡くなった。言葉どおりに。ひどくあっけなく。
葬儀の最中、たくさんの大人たちに囲まれて、けれども泣き声一つ上げない勝己を見た時から、心は決まっていた。
誰の言葉も聞かなかった。何も躊躇わなかった。自分の娘と然程変わらない小さい手は、ほんの少し空中で迷い、けれども間違いなく自分に伸ばされた。
海野でも志波でも、もちろん声は上がった。ほとんどは非難と批判であり、あるいは擁護のメッキがかかった策略の声だった。夫ですら当初は反対だった。親友である佐伯夫人も同じ意見だった。犬
や猫の仔をもらってくるのとは訳が違うのよ、と、彼女は珍しく厳しい顔つきでそう言った。
そんな事はわかっていた。周りの反応も当然だと思っていた。自分だって頭の片隅ではそれを理解していた。「理解」は。
けれども、どうしたって勝己を自分以外の元へやる事など出来なかった。志波家の財産が目当てだとか、跡取り息子が欲しいのだとか、色々な事を言われたがそんな事ではない。そんな言葉で怯むよ
うならば、初めからこんな事するわけがない。
ともかく実質的な生活にしろ、法律的な問題にしろ、普段の自分には考えられない迅速さと周到さで夫人は粗方の問題を片付けていった。最終的には夫の了承を得て周囲も黙らせた。 周りにも相
応の了解を得たというよりは、夫人の決して変わらない心に、周りが折れたのだ。 それまでの最大の理解者であり支援者だった(精神的な面で、だが)のが誰でもない娘のあかりだったのだから
皮肉な話だ。
あれから十数年。勝己は大きくなった。彼は問題を起こした事もないし、優秀な子だ。もう誰も彼を余所者扱いなどしない。
『かつみのおかあさまは、あかりのおかあさまでしょう?』
(…そうね)
二人の扱いに、差など付けた事はない。あの子を引き取った事に、今更後悔もない。あるわけがない、少なくともあれは、私の為だったのだから。
勝己が家に来て、救われたのはむしろ自分だったと、後になって気付いた。
あの話には続きがある。あかりがここへ来る度に泣いていた時の事。勝己には気にしないようにとだけ話した。それ以外にはうまく言葉が見つからなかった。
あかりは怖がりだから、この場所の雰囲気が怖いだけで、ここに来ることが――つまりは志波の両親の墓参りをする事が――嫌なわけではないのだと言うと、意外にも彼は「わかっているよ」と答え
た。
――あかりはこわがりだから、泣いてもいいんだ、べつに。オンナノコだし、しかたないんだ、知ってるよ。
――…勝己は偉いのね。
――ぼくは、おかあさまたちとはもう会えないけれど、かわりにあかりといられるからいいんだ。「かぞく」だから、ずっといっしょだよね?
「あかりのことは、ぼくがまもるよ。だから、あかりは泣いてもいいんだ」
事もなげにそういう勝己を、夫人にしても特に気にも留めなかった、その時は。
閉じていた目を開ける。灰色の石は物を言ったりはしない、が、どうしてか息が詰まるような思いだった。気のせいよと言い聞かせて立ち上がる。誰にも言わずに出てきたからあまり長居はしていら
れない。空は相変わらずどんよりと曇っていた。
風は、まだ止まない。
――ずっといっしょよ。
――ずっと?
――そう!だっておかあさまがいったもの。かつみは「かぞく」なのよって。
――ずっと…いっしょ。
「………」
閉じていた目を開ければ、そこは見慣れた部屋で、見慣れた家具がある。何もかもが自然に馴染み、落ち着く空間。
ふと、体に感じる柔らかな温かさに気が付く。誰かが、毛布を掛けてくれたらしい。
いや、誰かと言うのは適切でない。間違いなく「彼女」だ。他愛無い事だと知りつつも口元が緩む。
休日。居間で眠ってしまったらしい。家の中は静かだった。父は仕事だし、母も出掛けているらしい。
夢を、見た。夢、というよりもあれは記憶だ。遠い日の、幸福な記憶。
昔の事というのは、水が濾過されて純度を増すように時が経つほど美しさも大切さも増すらしい。
取るに足らない、子供の言葉だったというのに。
当然のように傍にありながら、しかし遠ざかるばかりの今となっては、そんな物ですら自分は必死に忘れまいとしているのだろうか。
だとしたら、滑稽な事だ。
しかし、ここにきた事を、勝己は一度も後悔したことはない。海野の両親に感謝こそすれ、恨んだことなど一度もない。
自分を引き取った際、何かしらの苦労があっただろうとは、勝己の想像でしかない。そういった事を、態度でも言葉でも示された事がないからだ。
彼らは「家族」で間違いなく「両親」だった。今までも、そしてこれからも。
強い風が窓をたたく。外はまだ昼間なのに暗い空で奇妙な天気だった。嵐の前触れかもしれない。
(…やめよう)
自分はこの家に信じられないような恩恵を受け育ててもらった。それは幸せなことで、いっそ誇らしいとも言える。
尊敬と、感謝だけだ。
「…あ、勝己。起きたのね」
扉を開けて入ってきたあかりは、勝己を見るとすぐに傍へ寄って来た。何の躊躇いもなくすぐ隣へちょこんと座る。
ふわりと、甘い香りがした。
「珍しいね、こんな所で居眠りだなんて」
「…毛布、ありがとう…で、一体何をしてたんだ?」
そう言いながら、わずかに体の向きを変える。手の中に毛布を握り込んだ。
こんな事くらいで心臓がざわめくなんて、どうかしてる。
彼女は何も気付かずに邪気のないいたずらっぽい笑みを向けた。子供の頃と、何も変わらない笑顔。
「えへへ、ばれちゃった?あのね、この間ね、お父さまが舶来のお茶を頂いてね?で、淹れ方を教わったから勝己に淹れてあげようと思って」
「いいのか?そんな勝手に…」
「いいの!だってお茶なんて大事に飾ってたって仕方ないもの。お母さまもいいって言ってたから大丈夫!」
今、持ってくるから待ってて!とあかりはぱたぱたと走って行ってしまった。目だけで彼女を追い、姿が見えなくなってから、勝己は深く息を吐いた。
お茶を飲んだら、さっさと部屋に引っ込んでしまおう。でなければ母を迎えに行くと言って外に出ればいい。
(あの人は、俺を信じすぎている)
あかりが如何に子供っぽくあったとしても、彼女が年頃の娘であるのには違いない。
そんな娘を自分のような男と二人にして家を空けるなんて、のんびりしすぎている。
無論、それは自分への信頼だ。昨日や今日のものではない。十数年共に生きてきてこそ生まれる信頼。
「…花見?」
「そう!もうすぐ森林公園の桜が咲くでしょう?勝己の学校が始まってしまう前にってお母様と話していたの」
「そうか。…もう春なんだな」
かちゃり、と茶器を置く。赤い色をした熱いお茶は、寝覚めの体には心地良かった。
あかりは嬉々として話を続ける。
「雨が降らないといいんだけれど。もしかしたらお父様も来られるかもしれないって言ってたし…、お弁当を持って、皆で行こうね!」
「わかった。予定、開けておく」
そう答えながら、頭の中では別の事を考えていた。
春。学校が始まれば自分は最終学年に在籍することになる。
茶碗の中の赤い液体の表面に迷う自分が揺らめいて、勝己は一瞬眉をひそめた。
決めなければならない事がある。
赤城大地
赤城家の邸宅に対しての評価は主に二つの意見に分かれる。曰く「輝かしい成功の証明」あるいは「成り金の恥知らずな見栄」だと。
取りたてて広くも豪華でもないと思うが、先代の質素な家を考えれば影口や僻みの一つも言われるかと、皮肉気に赤城大地は我が家を見上げた。
どのような評価、批判を受けようと、赤城家が事業に成功し、尚その勢いが衰えていないのは事実である。
しかしながら、それは棚からぼたもちのような幸運ではない。商才に長けた父が時期を見誤る事なく仕事をした当然の「結果」なのだ。
父の名誉の為に言えば、彼は金の為に仕事をしているわけではない。だが、その価値を決して軽んじてはいない。生活にしろ教育にしろ、「一流」のものを手にする為には「元出」が必要なのだとい
うのは父の口癖だ。
「あら、大ちゃん、お帰りなさい」
「只今帰りました。…と、いっても、少し寄っただけなんですけれどね」
母は自分の上着を受け取りながらも「ええ、わかっていますとも」と少しばかり拗ねた口調で言った。もちろん本気ではない。
高めの声は、この人の年をわからなくさせるなと我が母ながら思う。
「今、お茶を淹れますわね。…それくらいは出来る時間があるんでしょう?」
「どうかな。まぁ、お茶ぐらい飲んでも父さんに怒られないとは思うけど」
「お父様は厳しいのね」
「不詳の二代目ですからね」
冗談めかしてそう言うと、「あら、大ちゃんは立派よ」と母は今度は口を尖らせた。
居間に入ると灯りを点けなくとも明るい。太陽の光がたっぷりと入る南向きのこの部屋は、白が基調で広々としていた。
母の淹れた紅茶は舶来の物だ。このお茶も、母の選んだものなのだろう。それだけではない。食器にしろ家具にしろ、この家にあるものは大抵母が選んだものだった。
そういった物を選び、扱う母の才能に、父は全幅の信頼を寄せているといっても過言ではない。
母は商家の一人娘で、蝶よ花よと育てられた箱入り娘だった。
母方の祖父はそれこそ金に糸目をつけず母を育てた。作法でも何でも一流だと評判の人に習わせた。自分は粗末な麻や綿の服を着ても、娘には決してそんな物を着せなかった。
食べ物も着物も流行りものも芸術も、異国の物でも何でも、目新しいものは全て娘に与えた。「見たことがない」と狼狽し恥をかかない為だ。母はそれら全てを吸収して、一商家の娘には持ち得ない
知識と教養を持つ事になる。
そうして心血注いで育てた娘に、祖父が連れてきた男が父だった。いや、父が先に母を選んだのか、それはわからないが。
どちらにしても、とびきり強い上昇思考を持った人間に育てられた母と、元々そういった意識の塊である父に育てられたのが自分たち兄弟だ。
両親は常に自分たちの教育を第一義に考えてくれたから、その点に関しては感謝している。…期待に添えているかどうかは微妙なところだが。
そういう意味では自分は全くの二代目気質なのだった。もちろんこれだけ大きくなった事業を傾かせるわけにはいかない。しかし、この上更に発展させる気も大地にはあまりない。 弟の一雪の方
が自分より余程有能だと思うのだが、彼には全くその気がなかった。父も、彼に家業を継がせるつもりはないらしい。
まぁ、その方がいいのかもしれない。弟は周りには頓着ない性格だが、あれで中々苛烈な所もある。自分くらいが丁度いいのだろう。
「なぁに、大ちゃん。何を考えてらっしゃるの?」
「いや別に。僕は立派な父と弟がいて幸せ者だとね」
「だから、大ちゃんだって立派よ?あのお父様と一度も喧嘩にならずに話が通せるのは大ちゃんだからよ」
「はは。まぁ、誉め言葉として頂いておきますよ」
「それに雪ちゃんはまだまだ子供だし…そう、雪ちゃんといえばね」
母の顔が光が当たったように輝く。時折、まるで女学生のようになるのだ、この人は。
母の最近のもっぱらの話題と言えば、一雪が花椿家の舞踏会に招待された事だった。それこそ、事がわかった時は赤飯でも炊こうかという勢いだった。
(一雪は「冗談じゃないよ」と顔をしかめ、赤飯は無くなったが)
「雪ちゃんにもお嫁さんにしたいお嬢さんが出来て…大ちゃんもいつまでも独り身だなんていけませんよ?」
「気が早いよ、お母さん。…一雪の事にしたって、そこで一度会ったってだけでしょう?」
「あら。その一度の出会いが一生の出会いになるものよ。私とお父様だってそうでしたもの」
「はぁ…まぁ、僕はしばらくは仕事が恋人ですよ、離れたくったって離れられやしない」
「またそんな事言って逃げるんだから。大ちゃんにだってお話はたくさんあるのよ?お父様も急ぐ事は無いっていうから進めてはいないけれど…」
「それは有り難い事です。仕事も出来ない男に嫁ぐ事ほど、不幸な事はありませんから」
不味い。話が何だかおかしな方向になってきた。何とか話を別の方向に持っていかなければ。
しかし、意外な事に話を変えたのは母の方だった。おもむろに立ち上がり、持ってきたものは何の特徴もない茶封筒。
「直接、会社の方がここに持っていらしたのよ。大地さんにお渡しくださいって…忘れないうちにと思って」
「…受け取ってくれたんだね、ありがとう」
「それにしても余程急ぎの物なの?仕事場でなくわざわざ家にだなんて…」
それには答えずに大地は立ち上がる。無論、家に戻ったのは母が持つその書類の為だ。
敏感に空気を読んだ母は「ごめんなさいお仕事の事なのに」と零す。
肩を落とす母に、大地は笑いかけた。彼女は何も悪くないし、何も知らなくていいと思う。
否、知られるわけにはいかない。
「いや、気にしないで。でも悪いけれど、お茶は部屋に運んでもらえる?」
「ええ、わかりました。…ここでは読めない程大切なものなのね?もしかして恋文かしら?」
あくまでも明るく振る舞う母は、やはりさすがだ。そしてこの人も一筋縄ではいかない。
「ただの”恋文”とはいえ、折角の逢瀬ですからどうぞ見守ってやってください、今だに婚約者も決められない不詳の二代目をね」
(やれやれ…どうにも後ろ暗いな、こういうのは)
お茶を受け取り、部屋の扉を閉め切って、大地はため息をつく。おもむろに茶封筒の中の数枚の書類を取り出した。
書類、とはいえこれは実のところ仕事の物ではない。仕事関係の書類は家には持ち込まないし、その事は母も知っている。恐らくは何かしら不穏な空気を母も察知しているに違いない。
誰にも内密に、とは父の命だ。言われなくても、こんなものを公然と表に出すわけにはいかない。だからこそ父ではなく自分が動くのだ。
書類の表題は「報告書」だった。「海野あかり、及び海野家について」
一雪は舞踏会から帰ってきて、珍しくもその時の様子を家族に話してきかせた。信じられないが、意外にも彼は楽しかったらしい。
弟の様子に、母はもちろんのこと、父も満足そうだった。社交界という目の前に見えながらも決して入ることの出来なかった世界に、息子が馴染んできた事は両親にしても嬉しかったのだろう。その
点に関しては兄である自分も異論はない。 けれども、ある名前を弟が口にした瞬間から、父の目付きが僅かに変わった。一雪が「唯一話が合って」「一緒に踊った」という「海野あかり」の名を
聞いて。
大した量でもないが、それらの紙に書かれた内容を大地は丹念に読んでいく。せっかく階下から持って上がったお茶は冷めてしまったが、今はとりあえずそれはいい。
こんな探偵じみた事、しかも弟の恋路を探るなど冗談ではない。けれども、これは慎重にならなければいけないと父は言った。
「どうあっても、うちが転ぶような事だけは避けなければいけない」と、そう言った。
初めはその意味が良く分からなかった。が、この報告書を読めば嫌でもわからされるというものだ。
「まったく…我が弟ながらとんだお嬢さんと仲良くなったもんだ」
全くの偶然とはいえ、そう言わずにはいられなかった。
海野家は、子爵の家柄だがその暮らしぶりは質素だ。慈善事業を展開しているが決して上向きとは言えない。
まぁ慈善事業というものはそもそもがそう言った性格のものだろう。むしろ海野家の当主は誠実に職に殉じていると言える。
しかしながら、それでも海野家の名が、そして実際に家そのものが路頭に迷うことなく存在し得るのは、もちろん神の思し召し、というわけではない。
どういうわけか、海野家は多くの事業家、あるいは富裕層の家との関わりを多く持っていた。そこには名のある爵位のある家も含まれる。そして彼らは皆揃って海野家には好意を示している。
それは、「破格」と言っても過言ではない程のものだと考えていい。故に、事業に金銭的困難が生じた場合、いつもどこからか救いの手が差し伸べられ、かの事業は細々と、しかし確実にその結果を
出しつつある。
つまり、海野家の最大の財産は金でも土地でもない、「人脈」なのだ。海野家の方から援助を願うわけではない。けれども彼らにどれだけ多くの、そして大きな後ろ盾があるかは調べれば額に汗が滲
むほどだった。
海野家はそれほど大きな家ではない。後継ぎは一人娘がいるだけだ。いや、一人、男子の遺児を引き取っているが、彼が後継者だという話はない。
品のない見方をすれば、「人脈」とはつまり「金のなる木」であり、故に、彼女への縁談話は両手両足では足りないほどあったらしいが、形となる前に悉く立ち消えになっている。その中で唯一、そ
の娘と婚約までこぎつけたのが佐伯家だった。
しかし、それも破談になったらしいが。
大地はふと「報告書」から目を離す。佐伯家は、赤城家の上客――とはいえ立場的には向こうの方が上だ――で、商売上でも付き合いの深い、そしてその関わりには特別に配慮しなければならない家
だ。
佐伯家と海野家の婚約破棄が真実なら、弟は宝くじを引き当てた程の幸運を手にした事になる。周りが手に入れたくても入れられなかったものを、彼は全く順当な手立てで手に入れる事になるだろう
。しかも海野家は爵位持ちであり、「成り上がり」の赤城家には願ったり叶ったりな話だ。
けれども、婚約破棄はあくまで噂だ。表立って発表されたわけではない。
名門侯爵家である佐伯家が、海野家に固執するのはおかしな話だ。だが、この報告書にある「事情」を考えればそう簡単に諦めるとも思えない。
更に最悪の事態を想定すれば、弟の態度如何でその海野家のお嬢さんが傷つき、それが家絡みの話になったとすると、赤城家自体もただでは済まなくなる。「信頼」とは砂の城のようなものだ。いか
に慎重に積み上げていっても、崩れ、失われるのは一瞬の事だ。
そして、その危うい砂の城の上に自分たちの生活がある。
「…海野あかりさん、ね」
彼女の名を口にした時の弟の顔を、大地は今でもはっきりと思い出せる。いつもどこか一線引いたような、皮肉めいた事ばかり言う弟が、その時ばかりはただの子供だった。
彼は押し隠していたつもりだっただろうが、それは明らかにいつもとは様子が違っていた。母がそわそわと彼の未来を思い描くくらいには、高陽して、そして微笑ましかった。
一雪の想いは純粋なものだろう。だからこそあの舞踏会の時の話も珍しく饒舌に語ったのだろう。そもそも弟は爵位だの何だのに興味はない。彼には夢があるし、むしろそんな事とは無縁でいたいと
思っているくらいだろう。
たとえ彼女がどこの「海野あかり」さんであったとしても、一雪の気持ちは変わらないだろう、きっと。
けれども、幸か不幸か弟が引き当ててしまったのは「彼女」なのだ。
(…ややこしい事にならなきゃいいが)
世の中とはうまくいかないのが常であり、悲しいかなそれこそが現実である場合がほとんどだと大地は知っている。
一応あんなのでもかわいい弟には違いない。けれども自分に出来る事は残念ながら今のところ思い当たらない。
出来れば何事もうまくいきますようにと、叶うとも思えない都合の良い願いを、それでも大地は祈らずにはいられなかった。
僕の海の名前
(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine
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