招待状



社交界なんて場所に、この自分が関わる事になろうとは、赤城一雪にとっては思いもよらない事だった。
学友達の中には、何人かはそういった世界に関わっている奴がいるけれど、その反応は様々だ。

しかし、一番近しい友の言葉を信じるならば、そこはさながら「美しい牢獄」なのだそうだ。恐ろしく退屈で、息苦しいところなのだと、彼は言っていた。
そんな場所へ、好んで行ってみたいとも思わないが、しかし興味があるのも本当だった。まぁ、肝試しみたいなもので、怖いもの見たさの好奇心は捨てきれなかったのだ。
ただ、行きたいと望めば行けるというものでもない。親友はああ言っていたが、普通なら皆必死になって、その世界へ仲間入りしようとし、それでも叶わないことの方が多いのだから。

(………僕の両親みたいにね)

両親――とりわけ母のあの情熱は、息子の自分から見ても不思議なほどだ。全ては貴方達の為だと言うが、恐らくはそれだけではないだろう。
赤城家に爵位はない。ただし、代々関わってきた鉄道事業がここ何年かで大当たりし、莫大な富(などと自分で言うのもどうかと思うが、まぁ事実だ)を手にした。
いわゆる、というか、正真正銘の成金だ。そして人間、富を手に入れると次に欲しくなるのは名誉であるらしい。
あとは爵位さえ、あるいはそれに代わる名誉があれば赤城家は子々孫々の代まで安泰だというわけだ。何と言うか、その思考回路こそがいかにも小市民的だと一雪は思うのだが、
両親には聞く耳はない。
一雪は何となく一歩引いたような気持ちではあるが、かといって両親を全面否定する気もない。確かに即物的ではあるだろうが、実際のところ権威が有るのと無いのとでは大きく違ってくる。
現実は、そういう話なのだ。ただ、無いからといって今まで取り立てて困った事はないが。

「………それにしても不思議だよなぁ」

一雪は手にした封書をもう一度見直す。それは手触りだけで一級品だとわかる和紙で作られていて、表には「御招待状」と書かれていた。
これを見た時の両親の喜びようと言えば、見ててこっちが恥ずかしくなるくらいだったが、今でも何故こんな招待状が自分に送られてきたのかわからない。
そうそう、これを見た親友の反応の悪さと言ったら、ひどかった。

(きれいな顔してるくせに、いつも不機嫌そうなんだものな)

彼は物凄く嫌そうな顔した後「実は俺にもきた」と言い、「……お前が行くなら行こっかな」とも言った。自分としては是非そうしてもらいたいものだ。
一人で行くのはやっぱり気遅れするし、などと考えてしまう自分は、やっぱりそんな華やかな場所は向かないかもなと苦笑する。

「……あの、すみません」
「え?」

声は、高い柔らかな声音だった。振り返れば小柄な女学生がこちらを見ている。

「これ、落とされましたよ」
「え、ああ!ありがとう。大事なものだから、助かったよ」

彼女が手にしているのは、さっきまで自分の手の中にあった例の招待状だ。失くしてしまったら大変な事になるところだった。自分ではなく、主に家族が、だが。
彼女からそれを受け取り、「ありがとう」と言って去ろうとしたのだが、目の前の彼女は動こうとしない。どうやら、この招待状に興味があるらしかった。封書の方をじっと見ている。

「これが気になるのかい?」
「……あ、ごめんなさい。じろじろ見たりして」
「いや、別に構わないけれど。何かあるのなら聞くよ。ただし、これを譲るわけにはいかないんだけれどね」

本心はそれほど執着があるわけではなかったが、これを手放してしまった後の事を考えるとちょっと出来ない話だ。
しかし、彼女は「いいえ」と首を振った。別にこれが欲しいというわけではないらしい。

「そうじゃなくて、その……貴方も、それに行かれるのかと思って」
「あなたも、って。……じゃあ、君ももしかしてこの招待状を受け取ったの?」
「ええ。…どうしてかは、よくわからないけれど」
「へぇ…、すごい偶然だ」

こんな所で、自分と同じ招待状を持つ人に会うなんて。それも、女の子だ。
……いや、まぁそれは、どうせなら男よりかわいい女の子の方が嬉しいという、それ位の意味だけれど。
彼女は、「実は、初めて行くんです」と言った。それも同じだ。重なる偶然に、一雪は何だか嬉しくなった。自分だけが新参者というわけではないようだ。

「奇遇だね。僕も初めてだよ。だから、どうしていいかわからなくてさ」
「私も。周りは行けばいいって言ってくれるけど…、そういうものなのかな、やっぱり」

彼女はそう言って心底不思議そうな顔をする。それからふとこちらに気が付いて「ごめんなさい!」と慌てたように言った。

「足を止めてしまって…、じゃあ、当日お会いできますね」
「気にしないで。うん、そうだね、じゃあまた会場で」

ちょこんとお辞儀をして去っていく彼女を見送りながら、名前を聞いておけばよかった、と思い付き、けれど、その頃には彼女の姿は随分遠くあったので諦めた。

(まぁ、いいか。今度会った時に聞けばいいや)

さっきまでより、俄然前向きになっている自分に、一雪は苦笑いした。

社交界なんて場所、自分には一生関わりないと思っていたけれど。
けれど、もしかしたらそう悪いものでもないかもしれない。
少なくとも、彼女に会えるのならそれだけで充分意味はありそうだ。





「本当に、あかりさんはどんな色でもお似合いね、一着に決めるのが大変だわ」
「………はぁ、そうですか」

そう言って、上機嫌で微笑む佐伯夫人に、あかりは込み上げるあくびをかみ殺しながら生返事を返した。
先日、どういうわけか、舞踏会の招待状とやらが届いた。
招待されたのはあかり。主催は花椿家となっていた。花椿家と言えば、羽ばたき市では知らない者はないくらいのとんでもないお金持ちだ。
しかも単なるお金持ちではなく、やんごとなきお家柄だというのだから、名前は知っていても、そのイメージはどこかおとぎ話みたいな感じですらある。
それくらい、あかりには現実味のない話だった、のだが。

(………それにしても、本当に良かったのかな)

招待状を受け取りはしたが、あかりは舞踏会に行くつもりはなかった。
確かに、興味が無いわけではない。あくまで想像だけれども、きっと華やかで夢みたいにきれいで、美味しいものだってたくさん出てくるのだろう。
自分くらいの年頃の女の子なら、誰だって一度くらいは夢見るものだと思う。
けれども、それは所詮想像であり、だからこそ好き勝手に空想出来るのだ。現実に行くとなれば話が違う事くらいあかりだってわかっているつもりだった。
行くとなれば、着ていくドレスだって、行くまでの馬車だって、とにかく物入りになる。
この間、木に登ってボロボロにしてしまったワンピースだって仕立ててもらったものだけれど、あれの比ではない。
それに、行ったところで知り合いもいないし友達もいない。どう考えてもあんまり楽しそうではなかった。

両親も勝己も「行けばいい」と言っていた。どうしてこんな招待状がと思っていたが、別に来てもおかしくはないのだと言う。
それが何故かはあかりにはよくわからないが、折角招待されたのだから行けばいい、というのが家族の意見だった。
(お金の事は心配しなくてもいいと父に言われた)
でも、知りあいも誰もいないし、と言えば、そんなに心配なら佐伯さんにお話を聞いておくわ、と母が言ったのだ。

話を聞く、というのはつまり、その舞踏会にどのように臨めばいいかという話を聞く、という事だと思っていたのだが。

何故か知らないが、後日、佐伯さんの奥様から連絡が入り、またもや招待されたのだった。母の話によると、あの佐伯さんも招待されているから自分も一緒に行けばいいと言ってくれたらしい。
今日呼ばれたのは、「打ち合わせ」との事だった。何の事かと思って来てみたら、待ち受けていたのは何人ものお針子さんたち。
それからは、様々な色の、そして様々な手触りの生地を合わせたり、あとは既成のドレスを試着してみたり、それからは「お嬢様はどんなものがお好きですか?」とレースやら
真珠の飾りやら花を模した飾り――と、とにかく両手の指を使ってもまだ足りないくらいのたくさんの種類の飾りを選んだり。
初めこそ物珍しさもあって熱心に見ていたが、そのうち疲れてどれでもいいような気がしてきた。どれを選んでもとても立派だし、けれどこんな立派なものが自分に似合うとも思えない。
奥様は 、先日のお詫び――つまり、あかりが縁談を「断られた」話だ――も兼ねて、今回、舞踏会に必要なものは全て用立ててくれるらしい。
あまりにも過ぎたお話だから、あかりはもちろん断ったのだが、夫人は取り合ってくれなかった。海野の家にも話は通してあるし、それ位はさせてもらわなければ佐伯家の名誉に関わる、
と、そうまで言われてしまってはあかりとしてはこれ上断る事も出来なかった。


「あの…、本当に良かったんでしょうか。こんなに、良くしていただいて」


テーブルの上の、華奢なティーカップを手にする。薄い陶器の、舶来の美しいものだった。中の紅茶はきれいな赤い色が出ている。
それはそれで香り高くて、とても美味しそうだけれど、あかりは何となく先日佐伯瑛が淹れてくれた珈琲を思い出していた。あの、あたたかな焦げ茶色の飲み物。
そういえば、今日は彼はいないのだろうか。それともまた遅くに帰ってくるのだろうか。


「もちろんよ。あかりさんには随分と酷いことをしてしまったし…もしかしたら、貴女は心苦しく思われるかもしれませんけど、
こうさせて頂くことでやっと私の気が晴れますのよ。そう思ってお付き合いくださる?」
「そんな……私は有難いお話で感謝しています。だって、舞踏会なんて初めてだし…ちょっと心配でしたから」


そう言って、ほんの少し眉を下げて笑うあかりに微笑みで応えつつ、佐伯夫人は少しばかり心が痛んだ。
聞けば、彼女は招待を断るつもりでいたらしい。ああいう場所に行った事がない彼女はさぞ不安だろうと思い、そうして、たとえ無理やりにでも今まで息子をそういった場所へ連れて行ったいた事は 、
やはり正解だった、とも思った。もちろん男子と女子の教育では違いがあるに決まっているだろうが、今こそ、その真価が発揮される時だ、とすら思える。

実のところ、佐伯夫人はあかりと瑛の事を諦めたわけではなかった。諦める気など、露ほども無い。

彼女との縁談を息子が勝手に断った時には、目の前が暗くなるほどの怒りを感じたが、同時に、今までとは感触が違う事も感じていた。
今までだって、あの手この手で息子は縁談をやり過ごし、相手の事など一瞬たりとも考えず鼻にもかけない態度だったが、今回はそれが違った。
本人からは何も言わないが、明らかに気にしているようだった。しかも、舅からの話によると瑛は彼女を第2邸に連れて来たらしい。
(瑛には内緒だけれど、これは保護者の義務だからね、と舅は言っていた)
夫人にしてみれば、それは信じられない話だった。第2邸は彼の尊敬する祖父が住んでいるというだけでなく、彼の気に入りの場所なのだ。
面倒事を嫌い、本邸には連れて来づらかったと言う事情を差し引いても、そこに彼女を招いたというのはかなり気を許しているに決まっている。
これを、どうして諦めてしまえるだろう。今回の干渉(彼女は気付かないだろうが、息子は薄々気付いているに違いない)は、親としては当然の事だ、と夫人は思っている。


(……それに、やっぱり女の子ってかわいいわ)


息子の事を抜きにしても、夫人はあかりを気に入っていた。女の子というのは柔らかくて甘やかで、まるでお砂糖菓子みたいだと思う。
それに、彼女は受け答えがとても素直で皮肉を言ったり反抗したりしない、あの捻くれ者の息子のように。

(とにかく、私は絶対に諦めませんから)

心の中で新たに決意を固めつつ、夫人はあかりに「お茶のおかわりはいかが?」と微笑みかけるのだった。一分の隙もない、完璧な貴婦人の笑顔で。





たまには言う事を聞いておこうか、などと思ったのがそもそもの間違いだった、と、瑛は舌打ちしたい気分だった。
こういった「行事」に顔を出さなければいけないのは、家の事を考えると仕方がないことだったし、それに、勝手に婚約破棄などした手前、
これくらいの妥協はしてもいいだろうと思ったのだ。自分だって、ただ闇雲に全てに反発する気はない。

花椿家の主催の舞踏会というのは年に何回かはあるが、その会は盛大で色んな人間が来ている(とはいえ大方は面倒臭い種類の人間だが)ので、楽しい時も無くはない。
だから、今回は自分から行ってもいい、と母に告げたのだった。

(……それで、何でこんな事になってるんだよ)

もう一度大きくため息をついて、目の前で奮闘する海野あかりに目を向ける。彼女は足元を見ながら必死になって踊りを練習している最中だった。
舞踏会、とはいえ、本当に踊りを踊るのかと言えば、それはほとんど形式的なものだ。ほとんどは会話会食に時間は費やされるが、それでも、何も知らずに行くわけにはいかないのもまた事実だった 。
それはそうだが、海野あかりが一緒に行くだなんて話は、瑛にとっては寝耳に水の話だ。いや、百歩譲って彼女がそこに行くのだとしても、何故自分が一緒に行かなければいけないのだろう。
それは持って当然の疑問だと思ったが、瑛は結局何も言わなかった。母に言ったところで、どうせ有耶無耶に丸めこまれるのがオチだ。

(それに……)

彼女が初めて舞踏会なぞに行く事は、話を聞かなくても今の現状を見るだけで明らかだった。聞けば海野家は子爵らしいが、彼女は社交界とは無縁の生活を送って来たらしい。
それでなくてもぼんやりだし、何しでかすかわからない。彼女を一人であの場に放り込むのは、何となく心配だし、気の毒な気がした。
バカみたいに人の良い彼女の事だ。つまらない奴に騙されたりするかもしれない。参加している人間は、家柄は悪くなくとも性格が良いとは限らない。

(まぁ、俺もその一人かもしれないけど)

何が嫌かと言えば、ああいう場に行けば周りに合わせて、話しもしたくない人間と笑いたくない時に笑い、全く興味のない話をしなければいけない事だ。
別に、教えられてそうなったわけじゃない。いつの間にか、そんな風に生きる術を身に付けてしまった気がする。
それは、曝け出さずに済む分、ある意味自分は守られるわけだが、どうしようもなく心が冷えた。失望したと言ってもいい。
でもそれが、変わり映えのない退屈な周りに対してか、そんな風にしか振る舞えない自分に対してか、最近良くわからない。

「……きゃっ」
「…っおい、大丈夫か」

組んでいた手に力が籠もる。こうして動きが止まるのは何度目だろう。踊り云々の問題の前に、彼女はあの踵の高い靴がどうにも慣れないらしかった。
こんな調子で踊りなんて出来るようになるのかと呆れたが、それでもこんな拷問みたいな靴を涼しい顔して履きこなす女たちより、戸惑いを見せるあかりの方が、瑛にとってはずっと身近に感じられ る。

「……ちょっと休憩しよう。足、痛いだろ?」
「え…ううん、まだ平気」
「いいから。お前が良くても俺が休みたいの、ほら、手、貸してやる」

彼女の手を取って、そういえばこんな風に自分から手を伸ばしたのは初めてかもしれない、と思った。
いや、初めてじゃない。あの時、あの海でも、俺は自分から手を伸ばしたんだ。
握った手が、あんまりにも小さくて頼りないから、びっくりしたのを憶えている。

「佐伯さん?どうしたの?」
「え?あ、いや……何でも」

駄目だ。今日は調子が悪い。昔のことなんて思い出して、どうかしてる。
思い出したって、どうにもならないのに。
ついため息をつくと、あかりは申し訳なさそうに瑛の方を見た。

「ごめんなさい。私が、ちっともうまくならないから」
「…いや、違うんだ。そうじゃないから。まぁ、頑張ったほうだよ、そんなすぐには出来ないって」

そう言うと、今度は珍しそうに目を丸くされる。

「…佐伯さんでも、人を誉めることあるんだね」
「……何だよ、貶した方が良かったか?」
「ううん、そんなことない。嬉しい」

にっこりと笑顔を向けられて、瑛は思わず言葉が出てこない。まっすぐに向けられるそれは、本当に単純に嬉しいという笑顔で、だから、どうしていいかわからなくなる。
彼女の向けてくる感情は、どんなものであったとしてもどれも純粋で、自分には不釣り合いな気がした。あんな風に、自分は笑えないと思う。
どうして彼女は、こんな自分と一緒にいるんだろう。

そして、何故、自分はそれを拒まないのだろう。

「うーん、それにしても、やっぱりこのハイヒールが問題だなぁ。ちゃんと履けるようになるかな…」
「新しい靴だから、まだ固いんだろ。馴染んでくれば、もう少し楽になるよ……足、平気か?」
「うん。少し痛いけど…これくらい平気。それにしても、佐伯さん、今日は何だか優しいね」
「…………何だよ。俺ってどんな人間だよ。いつも意地悪ばっかり言ってるみたいじゃないか」
「ちがうの?」
「…そーかわかった。じゃあこれからはお前には二度と優しいこと言わない」

そう言っても、彼女は楽しそうに笑うだけだった。自分には出来ない笑顔で。
すごく癪に障るはずなのに、瑛はそれ以上しかめっ面をしていられなかった。つい、つられて口元が綻ぶ。

それは、本当に心からの笑顔だったのだけれど、瑛は自分で気付くことは出来なかった。





赤城一雪



花椿家の屋敷は、羽ばたき市からすこし郊外に位置する。
そこは山手にあり、街の中心から馬車でなければ行く事は難しい。
逆に言えば、徒歩で来る者など、来客としては認められないとも言えるのかもしれない。小高い山の中にそれはあるのだが、その山全てが花椿家 の敷地らしい。
やっぱり所詮成り上がりの成金と、由緒正しき富豪は格も桁も違うな、と赤城一雪は思った。
別に負け惜しみではなく、正直な感想だ。特に羨ましいとも思わない。大体こんな広い家、一体誰がどうやって掃除するのだろう。あまり快適な 生活は望めそうにないけれど。
この広さで、ただ一つ羨ましいと思える事は、簡単に一人になれる事だな、と一雪は肩をすくめる。それだけは羨ましいし、有難いことだ。

舞踏会だなんて、来ているのは良家の子女なわけだから、もっと気楽なもの――あるいは退屈なのものかと思っていたが、とんでもない思い違い だった。
今日、ここに来ているはずの親友は「美しい牢獄」などと揶揄していたが、そんな儚げなものとはとても思えない。
自分が慣れていないせいもあるだろうが、ここは喩えるなら戦場だ。矜持と権威を武器に、そして更にそれを拡大、増幅させるべく繰り広げられ る攻防、とでも言うのだろうか。
しかも、それを優雅に、微笑みさえ浮かべ、一見全く関係無いようなどうでもいい世間話を笠にしてそれは繰り広げられるものだから、こちらも 気が抜けない。
どれが必要か必要でないか、意味があるのか無いのか、それを見極めるのに、ひどく神経を使った。
こんな場所を「退屈だ」なんて、よくも言えるものだ。その神経の方を疑うよ、と一雪はため息をつく。しかしその感覚こそが、彼が名家出身で ある証明とも言えるのだろう。

(中々、一筋縄ではいかない世界ってわけか……やれやれ)

やっぱり自分には合いそうもない世界だと、一雪はもう一度ため息をついて遠くに見えるシャンデリアの灯りを見る。ここは離れの別館で――と はいえ、自分の家よりも大きな別館だが――
そこでも更に隅の、バルコニーだった。灯りは付いておらず、月明かりだけが白い光りを落としてくれる。けれども、疲れた体にはそれで充分だ った。

もちろん、口論で自分が論破されるなど、一雪はかけらも思っていない。むしろ自信があると言ってもいいほどだが、回りくどい遠まわしな言い 方は、あまり好きじゃない。
言いたい事をそのまま言うわけではなく、逆にぼかすようなその会話は自分には向かないらしい。
けれども、疲れたのはそれだけじゃない。赤城家は一応、爵位は無い家とはいえ、資産のある家ではある。
それが一体どこから伝わっているのか、それと知って自分に近づいてくるご令嬢の多いことといったら。あれには本当に参った。
たとえばこういった場所で、そういう出会いを期待している人間もいるのだろう。いや、はっきりそれが目的である者もいるに違いない。それに 関してとやかく言うつもりはない。
たとえ家が由緒正しき家だとしても、それがそのまま生活の保証になるかと言えば、それは昔の話で、今は全く関係が無い。
もちろん相応の資産を有し、名実共に「名家」である家は確かに存在する。だが、それはむしろ少数なのだ。ほとんどは名はあっても先立つ物が 無いのが現状らしい。
とはいえ、こんな贅沢をしなければ生きていけるだろうに、彼女らはそれが忘れられない家で育った娘たちだ。自分で生き抜くことも出来ないく せに贅沢はしたいのだ。
そういった魂胆が見え透いていて、一雪は冷めた気持ちで彼女らに(一応は)対応した。深窓の令嬢なんて、そんないいものじゃないことだけは 今夜だけで良くわかった。

(……そういえば、あの子は今日来ているのかな)

少し前に、公園で今日の招待状を拾ってくれた女の子。あの子もここに来るのだと言っていた。そういえば見かけていない。
彼女も、初めて来るのだと言っていたっけ。だったら、疲れてしまって帰ったかもしれない。自分より、もう少し年が下のように思ったけれど、 どうだろう。

(あの子だったら、どんな話をするかな)

間違っても、「赤城さまのお宅もここのようにご立派なんでしょうね」と興味津々で聞いてきたりはしないのだろう。だとしたら、悲しいしがっ かりする。
小柄な女の子だった。くるんとした瞳で、一瞬向けられた笑顔が、かわいいなと素直に思った。


あの子に会えるならここに来る意味もあると、そう思ったけれど。


そんな風に考えるに自分に一雪は苦笑いする。いつから僕はこんなロマンティストになったんだろう。ここでありもしない運命の出会い――とい う名の打算に満ちた生き残る手段――を信じる、あの愚かな人達と変わらないじゃないか。

運命だなんてそんな不確かなもの、一雪は信じない。欲しいと思うものには意味と理由があり、そしてそれを手に入れるには意志と計画と行動が 必要になる。

けれど、これは一つの予感だ。賭けだと言ってもいい。自分の心の中にある、確信に近い予感。


「……うぅ…いたた。やっぱりダメかもこの靴…」


コツコツと響く音に一雪は何気なく視線を移す。ここは灯りがないから、室内は暗く、目を凝らさなければ良く見えない。
衣ずれの音と共に聞こえた声。それは、確かに聞き覚えのある声だった。


―――じゃあ、当日お会いできますね。
そう言って、向けられた笑顔。

「……君、は、もしかして」

運命なんて信じない。けれど、もしもそれが自分にあるのなら。もしも、もう一度会えたなら。





その時は、きっと迷わない。





ハイヒールに慣れない足が、ずきずきと痛む。
あかりは、歩く度痛む足に顔を顰めながら、離れの方へと向かった。
今日の舞踏会は、踊りもそうだが、食事も立食という欧風の様式らしく(立ったままご飯を食べるだなんて、あかりには信じられない事だったが )、めったに座ることが出来ない。
席はあるが、大体が年かさの紳士や婦人で埋まっていて、若いあかりが座るには少し憚られた。

(それに……)

やっぱりここにはあんまり居たくない、と、ひっそりため息をつく。
ここにはあの佐伯瑛と一緒に来たのだが、来てからは、あかりの予想を超える出来事ばかりで本当に疲れた。
まず、会場の広さと豪華さに圧倒され、そしてそこに来ている人達の格調の高さといったら、あかりはただ口を開けるしかなかった。
とりあえず夢のようなおとぎ話の世界は、だが現実に目にするとそれはおとぎ話だからこそ憧れていられるのだと知った。これらをすんなり人生 の、或いは生活の一部に受け入れるには
それ相応の水準の生活と教養が必要なのだ。あかりは今までそういう事を深く考えたことはなかった が、自分がこういう世界に入るには浮いた存在である事だけはよくわかった。

全然会ったことない人にでも、笑って挨拶をして自己紹介――その繰り返しだ。別に人と話すことは嫌いじゃないけれど、形式ばった挨拶を繰り 返すのは正直疲れる。
だが、それもこれも実は大した事じゃなかった。問題は、彼――いや、正確には佐伯瑛と一緒にいること、だ。
この会場に着いてからは、彼はまるで別人のように振る舞った。事前に聞いてはいたが、あそこまで違うといっそ見事だと思う。
優しい微笑みを浮かべて挨拶をする彼は、間違い無く王子様だった。そして、王子様の周りはあっという間に自分くらいの年のお嬢さま達が取り 囲んでしまう。
あかりの居場所なんてどこにもなかった。近付こうとしても、そんな隙はどこにもなかったし、むしろ阻まれているとすら感じた。
別にべったり一緒にいたいわけじゃない。彼は彼で都合があるだろうというのはあかりだってわかっている。

けれど、思った以上に、自分は彼に頼っていたみたいだ。離れて、一人にされてしまうと心細かった。
知ってる人は誰もいないし、出される豪華な料理だって、美味しいのだろうが正直味は良くわからないし。
足だって痛いし。何だかちっとも楽しくない。それどころか寂しかった。慣れてない自分と、ここに来れば王子様な彼。

(お家のごはんが食べたい。…やっぱり勝己に一緒に来てもらえばよかった。もう帰りたいよ…)

「……いたた。やっぱりダメかもこの靴…」

この日の為に新調してもらった靴。慣れればマシになると言われたけれど、結局やっぱり痛かった。
ハイヒールも満足に履けないのに、こんな所にノコノコ来るなんてバカみたいだ。そう思うと、何だか情けなくて涙が出てくる。でも泣いたりし たらますます情けない。
そう思って、目の端の涙を指で拭っていた、その時。

「君は、もしかして…」
「………え?」

ここは離れで、そして自分以外には人はいないと思っていたのに。驚いて顔を上げると、バルコニーの方に男の人が立っていた。どうやら先客が いたらしい。
薄暗くてよく顔は見えないが、向こうも驚いているらしかった。彼は1、2歩近づいて、そして今度は嬉しそうに「やっぱり、君だ」と言った。 あかりの事を知っているらしいが、
当のあかりは目の前の人物を思い出せない。

「あ、あの。失礼ですけど、どちらさま…?」
「憶えてないかな、以前、公園で…ええと、君に、ここの招待状を拾ってもらったんだけど」
「……あ!あの時の」

言われて思い出した。少し前の、公園での出来事。その人も初めてここに来るのだと言っていたっけ。
理解したあかりの顔を見て、「思い出してくれたみたいだね」と、彼は満足そうに笑った。


彼の名前は赤城一雪というらしい。あかりも慌てて海野あかりです、と自己紹介した。お互いに、ここで出会えた事を二度目の偶然ですねと言い 合い、しかもこんな暗い所でと笑い合った。
初対面だけれど、妙な親近感だ。どちらも初めてここに来たという共通点のせいかもしれない。

「確かに豪華だけれど…何だか疲れちゃって」
「僕も同感。それで、ついていけなくなってこんな所に引っ込んでたんだ。……ところで君、ここには一人で来たの?」
「いいえ、えっとその、知りあいの方と一緒に」

佐伯さんと来た、というのは、あかりは言わずにおいた。別に自分は言ったってかまわないが、瑛には余計な事を言うなと何度も言われていたの を思い出したのだ。

「へぇ。でも、いいの?それじゃ一人でこんな所にいるのは不味いんじゃないか?」
「いえ、いいんです。一緒にいなきゃいけないわけじゃないし、足も、痛いし。少し休みたいから」
「足?」
「ハイヒール。履いたことなくて、慣れなくて…」
「ああ、そうなんだ。じゃあ脱げばいいよ」
「はぁ…、て、え、え?」

思わず相手の顔を見返したが、彼は平然とした顔で「だって、足痛いんだろう?」と聞き返してくる。
そりゃ痛いし、出来ればこんなもの脱いでしまいたいけれど。けれど仮にもここは舞踏会の会場内で(別館とはいえ)さすがに脱ぐというのはど うだろう。
迷っているあかりを見て、「気にすることないよ」と彼は笑った。

「ここには誰もいないし、痛いのに我慢して履くことなんかない。脱いだら、ちょっと冷たいかもしれないけどね痛いよりマシだろ?」
「そ、そう、かな。いいかな、脱いじゃっても…」

何となく、彼の言葉に圧されて、あかりはそっとハイヒールから足を抜く。ひんやりと冷たい空気と、けれどそれ以上の開放感が確かにあった。
靴を脱いで、ぺたりと足を床につけるあかりを見ながら、一雪はおかしそうに笑う。

「ずいぶん踵の高い靴、履いてたんだなぁ。本当は小さいんだね。君」
「べ、別に小さくなんて…。人を子供みたいに言わないで下さい」
「あ、ごめん。だって、なんか可愛らしいからさ。その靴を脱いじゃうとホントに小さい子供みたいだ」
「もう!赤城さん!」

思わず声を上げると、彼はますますおかしそうに笑う。何だか変な人だ。一体何がそんなにおかしいんだろう。
けれども、靴を脱いで確かに足は楽になったので、それに関してはお礼を言わなければと、あかりは彼に向き直る。

「あの…ありがとう。やっぱり脱いだ方が楽になりました、足」
「うん、どういたしまして………あれ、会場の方、音楽始まってるね」
「あ、本当」

促されて耳を澄ませば、風に乗って音楽が聴こえてくる。軽やかで優雅な音楽。
と、目の前に、すい、と、手が差し出された。

「……踊ってくれる?足が痛いだろうから、無理にとは言わないけれど。出来れば」
「…私、すっごく下手ですよ?」
「なら教えてあげる。僕だって自慢出来るほど上手いわけじゃないよ。大丈夫」

足は、少しズキズキするけど、動けないほどじゃない。この人は、ちょっと変だけど親切な人だ。
おかげで、ここに来て初めて少し、心が軽くなった。
差し出された手に、あかりは自分の手を乗せる。





「よろしくお願いします」と言えば、「喜んで」と彼は笑った。





(…疲れた)

海野あかりを送り届けた馬車の中で、佐伯瑛は一人ため息をつく。一人きりになったそこは急に寒々として、両腕を擦りながら組み直した。
海野家の人達は、一見するとやはり人の良さそうな家族だった。婚約を破談にしたことについて嫌味の一つも言われる覚悟だったが、それもただ の杞憂に終わった。その事について、思った以上に安堵している自分がいる事が、今だに瑛は自分で納得し難いのだった。

いいや、それだけではなく。

花椿家にいる間、瑛はほとんどあかりには関われなかった。ある程度は「阻まれた」、といっても言い過ぎでないだろう。
毎度のことだが、ああして囲まれてしまうのは本当に辟易する。うんざりだ。
予想はしていたものの、いざそうなるとすっかりあかりの姿を見失ってしまった。自分としては、なるべくあかりといてやりたかった。
それ は、自分の気持ちというよりも、責任だ。連れてきたのは自分だし、何かあったら今度こそ個人の問題では済まなくなる。
母としては、むしろそういった「思わぬ問題」をすら期待しているのかもしれない。そんな思い通りになんてなってやるものかと瑛は思っていた 。
「何事も無く」今日一日を終える事が、最善の策で最上の意趣返しなのだ。どこかそんな気持ちでさえいたというのに。

だから、姿が見えなくて思わず探し回ったのも、不安になったのも、ようやく見つけた時のあの安心感も、すべてはその為なのに。

窓の外は暗い。頼りない街灯しかない路地は、海の底を走っているみたいだと思う。月の光が淡く影を落としているのを見てから、瑛は目を瞑っ た。
やっと見つけた彼女は楽しそうに笑っていた。誰かと一緒だった。あれは、見憶えがある。間違えようもない、学校の友人―というか、むしろ親 友と言ってもいい―の赤城一雪だ。そういえば、彼にも招待状が届いたような話を聞いた気がする。
その二人が楽しそうに笑いあい、たどたどしくも手を取り合って踊っているのを見て、どうしてもそれ以上は足が進まなくなった。
どういう 経緯で二人が知り合ったかは知らないが、あの雰囲気の中、自分が割り込んでいくのは酷く滑稽に思えた。
わけのわからない苛立ちが湧き上がる。別に、自分などいなくても構わないのだ。何だかんだ言って、彼女はうまく馴染んでいたのだ。
誰も 知り合いがいなかったんだろうから、友達が出来るのは結構な事じゃないか、と、冷やかな気分にすらなった。

帰りの馬車の中でも、彼女は楽しそうだった。連れて来てもらって良かったと嬉しそうに言った。

それは、どういうつもりもなく本心なのだろう。だけど、聞けば聞くほど面白くなかった。楽しかったのは赤城と話せたからだろう、来てよかっ たのは、あいつと出会えたからだろう、そんな事ばかり考えた。

(何だっていうんだよ)

どうしてこんなにも苛々しなければならないのだろう。もう終わった事だ。あかりだって自分に興味はないのだし、こっちから動かなければもう 会う事だってない。

もう、会う事はない。

その事実に、何故こうも動揺するのか、わからない。わかりたくもない。
これじゃあ、まるで母の思惑通りじゃないか、そんなの冗談じゃない。

目を開ければ、遠くに家の灯りが見えた。大して安らぎもしない、自分の家の灯りだった。





ゆめのあと



佐伯瑛に送られて帰ってきて、あかりはさっさと窮屈なドレスを着替えてご飯とお漬物をぽりぽりと食べていた。
一緒に出されたほうじ茶を飲むと、心底ほっとする。
あのお城みたいに煌びやかなところで食べたご馳走も確かに美味しかったけれど、やっぱり自分にはこっちの方がずっと満足する、とあかりは肩 の力が抜ける思いだった。

それにしても不思議な一日だったと、ぼんやりと舞踏会の事を思い浮かべてみる。思い出せば思い出すほどきらきらと夢みたいに現実味のないと ころだった。それ以外は足が痛かった事ばかり思い出す。
帰りに送ってくれた佐伯さんも、随分疲れていた。黙ったままでは気詰まりで色々と話しかけてみたけれど、むしろ黙っていた方が良かったのか もしれない。
あの人は、ああいう世界に生きる人なんだわ、とそれだけはわかった。あの人気と、そして彼の如才なさ。本心は違う所にあったとしてもやっぱ り彼はああいう風に生きていくのだろう、きっと。

そんなに嫌ならやめてしまえばいいのに、と、しかし、あかりは口には出来ずにいた。それはどうしてか、彼をひどく傷つけそうな気がした。

本当は優しい人。叶えたい夢を持っている人。
あまり深く考えた事はなかったけど、もしかしたら佐伯さんは苦しいのかもしれない。だからああやって自分に嘘をつくみたいな態度を取るのか もしれない。

「……まぁ、私が何か出来る訳じゃないけれど」

でももしも、何か出来る事があるのなら私は迷わないでいよう、とあかりは思った。そして、どうか佐伯さんがもっと笑っていられますように。

「…あかり?お前、まだ…食べてたのか」」
「だって、お腹空いちゃったんだもん」

出先で散々食べたんじゃなかったのかと呆れ顔の勝己に、あかりはそれでも頬を緩ませる。彼が夕食後に本邸に顔を出すのは珍しい。

「こんな遅くにそんな食べたら眠れなくなるぞ」
「平気だよ。これくらいそんなたくさんじゃないもの。…あっ!そうだ!ちょっと待って」

確かに時計はもう12時を回っている。けれど、疲れ過ぎたせいか、あるいは勝己の言った通りなのかわからないが、あかりはちっとも眠くなかっ た。家の中が静まり返っているせいで、声が妙に大きく響く。

「おい、あんまり大きな声出すな。もう皆寝てるのに」
「ごめんごめん。あのね、ちょっと待ってて、私、すっかり忘れてた。ちょっと後ろ向いててくれる?」
「……どうして」
「着替えるから。今日着ていたドレス、見せてあげる」

そう言うと、彼は一瞬驚いたような顔をして「…部屋に戻る」と一言言った。

「どうして?見たくないの?」
「そうじゃなくて。…俺のいる所で着替えるな。子供じゃないんだから。…部屋で待ってるから、呼びに来ればいい」
「だから、後ろ向いてって言ったんじゃない」
「とにかく、それはダメだ。…じゃあな」

それだけ言い残して、彼はさっさと引き返してしまった。後ろを向いてるのも、部屋に戻るのも、どっちも見えないんだから同じじゃない、とあ かりは思う。
大体、勝己は細かい事を気にしすぎなのだ。黙ってで歩くなとか、遅い時間にごはんを食べるなとか、子供じゃないとか。
子供じゃなくったって、彼が自分の家族であることは変わらないというのに、時々それすら否定されているようで淋しくなる。

(部屋だって、勝手に離れに移っちゃうし)

もちろん、自分と彼は本当に血のつながった兄妹ではない。年だって本当は同い年だし、似ているところも全然ない。
でも、ただそれだけだ。たったそれだけの事を、勝己は何だってあんなに気にするのだろう。わからない。

ドレスに着替えて―お腹の部分は少し窮屈になった―、離れに続く廊下を歩く。大した距離はない。けれど、離れたばかりの頃はこの廊下がどん なに長く感じた事か。
こんな風に離れたがる勝己にも腹が立ったし、そして好きなようにさせる両親にも腹が立った。こんな所に一人にするなんて酷い、そう言って泣 いたけれど両親は聞き入れてくれず、何より勝己自身があかりが泣こうが喚こうが頑として譲らなかったのだ。あんな事は初めてだった。悲しく て悔しくて大嫌いだと言ったら勝手にすればいいと言われた。
だけど、そうして冷やかに言った彼の方こそ悲しそうな顔をしていたのを、あかりは今でもよく憶えている。

「…入ってもいい?」
「ああ」

部屋に入れば、彼は背を向けて机に向かっていた。あかりが声をかけて、こちらに振り向く。スカートの裾を持って、くるりと一回転して見せた 。

「どう?凄いでしょコレ。佐伯さんの奥様が生地から選んでくれてね、作ってくれたの」
「へぇ…、いいな、似合ってる」

短い、けれど欠片も嘘のない言葉にあかりはやっぱり嬉しくなる。優しい笑顔、やっぱり変わらない。

「それでね、すっごく大きなお屋敷で、来る人もみんな上品で何だか凄くって…夢みたいなところだった」
「そうか。楽しかったなら、良かった」
「楽しいっていうか…、凄すぎて、楽しいとか思う暇もなかったなぁ…佐伯さんも忙しそうだったし…あ!それと、もう一人お友達になったの。 赤城さんって言う人でね」
「そうか」
「でね、踊ったんだけど、二人とも上手じゃないからすっごくおかしな事になっちゃって、笑っちゃった。でも踊りなんて普通は知らないもの、 仕方無いよね」

そう言うと、彼はおかしそうにくつくつと笑った。自分をからかう時の、彼の癖だ。

「踊りなんて…出来るのか、本当に」
「で、出来ますよ!そりゃ…急だったからあんまり上手じゃないけど。勝己なんて全然出来ないでしょ!」
「…やってみるか?」
「え?出来るの?」
「さぁ?でも、見てみたいと思って」

すい、と出された手を取って、向かい合って立つ。そうすると、背の高い彼はそれだけで様になる。やっぱり勝己も来ればよかったのにと何とな く思った。
足はこうで、手はこうしてと言いながらやるけれど、ちっとも踊りにはならない。さっき赤城とやった時よりもひどい状況だ。

「……ホントに下手くそだな」
「勝己が下手くそだからだよ!…えへへ、でも勝己も来ればよかったのに。その方が絶対楽しかったのに」

だって、踊りなんて別に出来なくても良かったのだ。みんなお喋りばかりしていたのだから。(何の話だか、あかりにはさっぱりわからなかった が)
何気なくそういった言葉に、けれど、勝己は少し笑って否と首を振る。諭すような、諦めているような顔で。
どうしてそんな顔するの、と聞こうとした瞬間に、足に一瞬痛みが走る。ヒールで擦りむいた個所が床に触れてしまって、思わずよろめいた。

「ご、ごめん…」
「足、痛むのか」
「うん、ちょっとだけね」
「悪い、知ってたらこんな事…」
「平気だってば!…て、わっ…」

瞬間、ふわりと体が浮いて、視界がぐんと高くなる。それが、勝己に抱えられてるからだと気付くまでに、少し時間がかかった。
背中と膝裏にある腕はがっしりしてて、ちょっと暴れてもビクともしない。

「ちょ、下ろして!大丈夫だってば!」
「ダメだ、もう寝る時間だしな。…せめて送り届けるくらいはきっちりさせてくれ」
「だから歩けるってば!高い!怖い!」

「送り届ける」だなんて、まるで他所の家みたいだとあかりは思ったが、実際にはそれどころでなく。
結局、そのまま部屋まで連れて行かれ、やれ消毒はきちんとしろだの、包帯はきっちり巻けだの、口煩く説教されたためすっかり閉口してしまっ た。




やっぱり、舞踏会なんて簡単に行くものじゃない、と改めて思ったのだった。











僕の海の名前
































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