海野邸にて
「本当に、何てお詫び申し上げればよいのか……」
「そんな、頭をお上げになって、佐伯さん。聞けば、うちの娘も随分と無作法をしたとか」
ある日の、うららかな昼下がり。海野家には客人が来ていた。海野家夫人――あかりの母親は客人に穏やかに微笑む。
先日、娘のあかりが佐伯家に招かれたのだが、帰ってきた時には腕に包帯を巻き、その日の為に仕立てたワンピースはボロボロになっており、さすがに驚いた。
門まで迎えに出ていた勝己は血相を変えて「医者を呼ぶ」と言ったほどだ。まぁ、あの子は何かにつけあかりには過保護なので仕方がないのだが。
話を聞けば、自分で木に登り、落ちたらしい。佐伯家のご子息が助けてくれたから大事なかったものの、相変わらず考えなしと言うか、向こう見ずな行動には呆れてしまった。
(理由を聞いた後の勝己の表情といったらなかった。彼女はあの後、両親以上に彼にこってり絞られたらしい)
あかりの話では、「佐伯家の方は皆さん良い方」で、「お家もお庭も立派だった」と話してくれた。「佐伯さんはとっても良い方よ」とも。
そして、「でも、結婚はしないとおっしゃってたわ」と言ったのだった。
つまり、それは縁談を断られたという事なのだが(主人や勝己は固まって言葉も出なかった)、当の本人はあまり気にしてないらしい。
まぁ娘が傷ついていないのなら特に急ぐ話でもなし、とにかくご迷惑を掛けたお詫びのお手紙だけは出しておくようにと言いつけ、自分もその旨の手紙を書いて送りその話はそれまでだったのだが。
それからすぐに、佐伯さんから電話が入ったのだった。「とにかく一度お会いしたい」と。気の毒なくらい疲れたお声で。
顔を合わせるなり、彼女は申し訳ないと頭を下げ、とりあえずゆっくり話をしましょうと椅子を勧めて――今に至る。
「本当に、勝手に無かった事に、だなんて……あかりさんからお手紙頂いた時には本当に、目の前が暗くなりました」
あかりは、庭先での無作法を詫び、更には心配頂いた事に感謝し、さらに「佐伯さんのお幸せを心よりお祈り申しております」と締めくくったらしい。
本人は悪気も何も無かったのだろうが、受け取った方は確かにぎょっとするかもしれない。
「あの子に他意はありませんのよ。驚かせてしまってごめんなさいね」
「いええ、もちろん。あかりさんは何も悪くないわ。むしろ瑛に心無い言葉を言われて、傷付いていらっしゃるんじゃないかと思って…」
「大丈夫。あの子はまだ子供だし、それに、瑛さんの事はとても良い方だと申してましたわ」
「………本当に、あの子ったら。突然、婚約のお話を断るだなんて…失礼にも程があるわ」
眉をひそめて憂う佐伯夫人は、それでも絵になる美しさだ。女学校時代から変わらないのねぇと、素直に羨ましい。
美しくて聡明で、正しく「深窓のご令嬢」だった彼女は、けれど意外にも大恋愛の末、今の佐伯氏と一緒になったのだった。
まるで、外国映画のようねと友達と言い合った事を思い出す。
「……なぁに海野さん。私の顔に何か付いているかしら?」
「いいえ、貴女は相変わらず綺麗な方だと思って」
「…貴女も相変わらずね、そういうところ」
不意に女学生時代に戻ったような気になり、思わずお互いに笑い合った。
部屋に入ってくる日差しは優しい。柔らかな陽は、秋になった証拠だ。
「貴女は心配しすぎているのよ。ご立派な息子さんだもの、きっと素敵な方をご自分で見つけるわ」
それとも、悪い虫が付くとでも思っていらっしゃるの?と、片目をつぶってみせれば、佐伯夫人も可笑しそうに笑う。
「それは心配していないけれど…。何せ、あの子はあんな風だし。騙されるような子じゃないでしょうけれど、でもね、心配なの」
「心配?」
「何だか…悩んでいるような気がして。けれどそんな事、私たちには決して言わないし。だから家の事はもちろんだけど、誰か、何でも打ち明けられる子が傍にいてくれればと思って」
「………それは、別に結婚相手じゃなくても良いんじゃなくて?」
「あら、結婚を前提でないお付き合いなんてさせられませんわ、お相手にも失礼ですし。それに、そういうお嬢さんと一緒になれる事があの子の幸せでしょう?」
そういうものかしらと思ったが、彼女はうっとりと夢見るように言うので、まぁそれはそうなのかもしれない。
結婚と幸せについてはともかく、悩みを打ち明けられる友人は確かに大切だ。佐伯家はとにかく立派なお家だし、そこの一人息子ともなれば悩みも多いのだろう。
「…まぁ、お役に立てるかはわかりませんけど、うちの娘も話し相手くらいなら務まるでしょうから」
今度は、木になんて登らないようにと言いつけておきますわ、と、海野夫人はいたずらっぽく笑うのだった。
星空
「……それで、その猫がどんどん木の上に行ってしまうから、どうしようかと思って。それで私、こうなったら登るしかないと思ったんです」
「やや、それは手に汗握る展開です。ところで海野さん、木登りが出来るんですか?」
「はい!こう見えて、私、得意なんです。木だけじゃなくて壁だって登れます。勝己には、いつも怒られるけど」
「まぁ、それはそうでしょうねぇ」
膝元に眠る猫を撫でながら、若王子は、あの長身の青年の渋面を思い浮かべて苦笑する。
これまで彼女の「武勇伝」はよく聞かされていたが、これからも彼の苦労は無くなる事はなさそうだ。
それにしても、彼女はあの佐伯家から縁談が来ていたにも関わらず、持ちかけられた側から断られるという稀な経験をしたわけだが、その割には落ち込んだ風でもない。
事情を知る大人たちは、どう接していいか戸惑ったものだが(彼女は知らないが、この話はかなり広範囲で有名な話なので)、本人がこの様子なので多少拍子抜けしたほどだ。
森林公園で偶然出会った彼女は、笑って自分の元に駆け寄って来てくれて、その時あった「猫の話」を熱心に話してくれているのだった。
「黄緑色の目をした黒猫で…まだ子猫でした。でも結局、私が助けなくても、ちゃんとあの子は降りれたんだけど」
「猫の代わりに、海野さんが落っこちたんでしょう?いけませんよ、あまり無理したら」
「大丈夫だと思ったんですけど…急に声掛けられてびっくりしたせいかなぁ」
口元に指を当てて、上を向いて考え込む彼女は、本当に縁談を断られたことなどまるで気にしてない風だった。
年頃の女の子なら、もう少し気になるものだろうに、この子はこういう所が本当にのんびりだな、と、つくづく思う。
(……まぁ、だからうまく成り立っている、とも言えるのかな)
先日、やはり同じようにここで出会った彼女の幼馴染の事を思い出す。あれ以来会っていないが、彼はこの話をどう感じているのだろう。
(なんて。とんだお節介だな)
「あ!そうだ!来週末の馬術大会に、勝己が出るんですよ。先生、ご存じでしたか?」
「ええ、もちろん。都合が合えば、見に行こうかなと思ってます」
海野さんも行かれるんですか?と聞けば「もちろん!」と間をあけず返事が返ってきた。
以前、体育教師に、彼の話を聞いたことがある。馬術において、この羽ばたき市で彼の右に出る者はいないらしい。
「猫だけじゃなく、馬にも好かれてるんですね、彼は」
「そんなものじゃないんですよ。犬も牛も兎も、あとは蛇とかも、とにかくどんな動物も勝己には懐いちゃうんです」
「へぇ、それはまた凄いですね」
そうそうつい最近も…、と話し始めるあかりの、ずっと向こうから、見慣れた人影が見える。
あらゆる動物たちを引き寄せる彼は、どうやら君に引き寄せられるらしい、と、柄にもなく微笑ましい気持ちになりながら、若王子は近づいてくる彼に手を振った。
「志波くん!こっちですよ」
「え?勝己?」
彼は自分に向って一礼してから、あかりを見て「先生のお邪魔になりませんでしたか」と言い、彼女は膨れて彼に言い返す。
「違うよ!先生は猫がお好きだから、この間の猫の話をしていたの!」
「そうです。とっても楽しかったですよ。あとは君の噂もね」
「………俺の?一体、何の話ですか?」
「教えてあげなーい。先生と私の秘密だもの。ね、先生」
「そうですね、じゃあ、秘密です」
「……先生まで」
居心地悪そうな顔をしている彼に、あかりは「もう帰るの?」と見上げて聞く。
それは、妹が兄に向ける視線そのもので、彼女たちは年も同じで血の繋がりもないのに、兄妹だと言われても全く違和感がない。
「…ああ、そうですね」
「じゃ、帰りにアナスタシアへ寄ろう?」
「…でも、帰ったらすぐに夕食ですよ」
「そうだけど…。新しい洋菓子が出たんですって。密さんが教えてくれたの」
「新しい……」
「ね、だから行こうよ。勝己だって気になるでしょう?」
「……はぁ。わかりました。でも、奥様たちには内緒ですからね」
「わーい!やったー!!」
嬉しそうにはしゃぐ彼女に伸ばされる手は紛れもなく彼女を庇護する者の手で。
けれど、その向けられる目に、微かに切なさを感じるのは、自分が彼らより年を取っていて、幾分か捻くれているからだろうか。
「あ、良かったら先生も一緒に行きませんか?」
「折角ですけど、僕はこれから寄る所がありまして。それに、そんな野暮なことしませんよ」
「はい?何かおっしゃいました?」
「いいえ。どうぞ、二人で楽しんできて下さい」
一瞬、志波勝己が何か言いたげな目を向けてきたが、それには気付かないふりをした。全く、大人になると本当に狡くなる。
まだ秋が始まったばかりとはいえ、夜はさすがに冷え込む。しん、と静かな夜は、普段心の奥底に沈めている思いまで浮かび上がらせるらしい。
耳が痛いほどの静けさの中、志波は眠れずにただ窓の外を眺めていた。読書という気にもならない。(そもそも、あまり得意でない)かといって外に出て行く気にもなれない。
あかりは、縁談を断られて戻ってきた。正直、驚いたし、どういう事だと怒りにも似た混乱を感じたが、結局のところ、自分はほっとしている。
佐伯瑛、という人物は、あかり曰く「良い人」らしい。「王子様みたいに綺麗な顔をしている」けれども「びっくりするくらい口が悪い」とも言っていた。
それの何が良い人という事になるのか、自分にはさっぱりわからなかったが、ともかく彼はあかりに「結婚する気はない」といい、あかりもそれで納得して帰ってきた。
その話を聞いた時、どれほど安心したか。それは、自分の思っていた以上の安堵だった。
今、思い出しても全く滑稽な話だと苦々しい気持ちになる。
(最低だ)
この話がまとまっていれば、彼女の幸せは約束されたも同然だった。その話が破談になって、よりによって喜ぶだなんて。
どうかしている。
「………水でも飲んでくるか」
そうして、さっさと寝てしまおう。こんな時間に考え込んだりするからつまらない事ばかり考え付くのだと、志波は立ち上がる。
志波の部屋は離れにある。あかり達が住む本邸とは廊下一本で繋がっていた。
昔は自分も本邸に部屋があったが、今の学校に入る時に移りたいと自分から願い出たのだった。
馬屋に行くのもここからの方が近いし、勉強もしたいというのが理由だったが、本当の理由はそれではなかった。
自分が離れに移ることを、あかりだけが猛烈に、そして最後まで反対していた。泣いたり怒ったり、彼女はとにかく自分を諦めさせようと様々な方法を使ったが、志波の方も頑として譲らなかった。
「勝己とはもう絶交する!もう一生口聞かない!」と言われ、わかってはいたけれど、それでも悲しくて腹が立って「勝手にすればいいだろ」とケンカしたのを今でも憶えている。
俺もガキだったよなと、懐かしさに口角が上がる。あの頃は、必死だった。自分の気持ちがわからなくて。暴走しそうで、壊してしまうかもしれないと怖くて。
それは、今も大して変わらないのかもしれないが。
大学に入ったら、この家を出ようと決めている。幸い士官学校での成績は悪くないし、推薦を受ければ、授業料も保証され、学生寮も用意される。
いつまでもあかりの両親に甘えるわけにはいかないし、あかりの為にもその方がいいに決まっている。自分みたいなのがいるから、彼女の縁談も決まらないのかもしれない。
自分だって、きっと楽になれる。
ドアを開けて廊下に出れば、ひんやりとした空気が体から熱を奪っていった。頭を冷やすには丁度いい冷たさだ。
廊下は、月明かりで割と明るい。そこに、ぼんやりと見える人影に、志波は目を凝らした。
「………あかり、か?」
「…あれ、勝己。まだ起きてたの」
振り向いて笑顔を向ける彼女が着ているのは薄い寝間着一枚だ。首元の肌がやけに白くて、思わず目を逸らした。
こいつは、何だってこんな恰好でここにいるんだ。
「あれ?戻るの?」
「……毛布、取ってくる」
「大丈夫だよ、寒くないし」
「大丈夫なわけないだろ。風邪ひいたらどうするんだ」
部屋から毛布を持ってきて無理やり被せたところで、くしゅんとくしゃみが聞こえた。ほら見ろ、言わんこっちゃない。
「こんな所で何してんだ」
「何って、星、見てたの」
「自分の部屋で見ればいいだろ」
「だって、ここの方が窓が大きくて良く見えるんだもん」
彼女が座り込んでいるので、何となく離れがたくなり、仕方がないので自分も横に座った。
夜空は澄んで綺麗だったが、星は冬空ほどは見えない。
「ね、勝己は毛布なくて平気なの?」
「俺はいい」
「ふうん……一緒に入ってもいいよ」
「……いい。寒くないから。お前がかぶってればいい」
冗談よしてくれ、とは心の中だけで言ったのだが、彼女はそんな自分の気持ちは知るわけはなく、自分の方に体を傾けて頭を肩に乗せた。
「…何だ?」
「えへへ。だって、何か昔みたいで嬉しいんだもん」
「…………まったく」
いつまで昔のままだと思ってるんだとは、しかし、口にする事は出来なかった。言ってしまったら最後、何もかも終りになる気がして怖い。
いずれ、彼女は自分から離れていく。いつまでも兄妹のように寄り添っていられるわけじゃない。
―――だから、それまではせめて。
夜空にある星は、いずれも小さく頼りない。消えてしまいそうな光だと、志波は思った。
雨の日
(……やれやれ)
「お待たせいたしました」という声と共に運ばれてきた珈琲の香りを胸一杯に吸い込んで、瑛は自分の中に積る鬱憤を吐き出すかのように息をついた。
珈琲は好きだ。この香りは本当に落ち着く。本来、こんなカフェに下校途中に入るだなんて、見つかったら停学、下手すれば退学ものなのだが、その為の普段かけない眼鏡だ。
海野あかりが帰ってからは、母とのやり合いに終始した。
彼女はどういうわけか自分があかり嬢を気に入ったのだと思っていたらしくしばらくは上機嫌だったのだが、
彼女と彼女の母親からの手紙(当日の詫びと、縁談が破談になったことについて、だ)が来て、それこそ病気になるのではないかという様相で詰問された。
そもそも、こちらから持ちかけた話を断るなど言語道断の非礼であり(それについて瑛は知らなかったのだが)、
そこから今までの過去の所業まで説教され、更には「そんな心無い言葉を年頃の娘に言うだなんて、そんな冷たい子に育てた憶えはない」とまで言われた。
それから今日に至るまで、母はずっと不機嫌なままだ。それでも、海野家に出向いて少し落ち着いたらしく、刺々しい非難の言葉を浴びせられないだけはまだマシだろうか。
(まったく、何だってんだ)
母は、海野あかりの母親と懇意であるらしい。つまりは友達の娘だったというわけだ。それならそうと言ってくれれば、自分だってもう少し考えたのに。
あの子は、あの時平気そうな顔をしていたけれど、実は物凄く傷付いていたのだそうだ。
「食事だって召し上がれないし、毎日泣き暮らし、すっかりおやつれになって」という話を聞かされてから、少し気になっている。
そんな、繊細そうには見えなかったけれど、やっぱり傷付けてしまったんだろうか。
あの時「よかった」と言ったのも、自分を気遣っての言葉だったのだろうか。
気になる。なまじ傷つけたくないと思っていたせいで、余計に気になってしまう。
(………手紙くらい、書いた方がいいか)
けれど、何を書けばいいだろう。酷いことを言って悪かった。けれども僕は君とは結婚できません、忘れてくださいとでも書けばいいのか。
そんな手紙、追い打ちをかけるだけな気がする。それに、変に気を使って妙な期待を持たれても困る。
だいたい、どうして自分がこんなに悩まなければいけないのだろう。断ったのは自分だし、彼女とはもう会う事もないっていうのに。
――せっかく仲良くなれたのに。
――でも、本当は優しいんだよね。
――ありがとう。
「……だから、何で思い出すんだよ!」
思わず言葉が出てしまい、はっとして周りを見回す。幸い、誰も気にしてないらしい。
ふと、窓の外を見れば空は灰色の雲に覆われている。雨が来そうだなと、瑛は珈琲を一口飲んだ。
「わああ、降ってきちゃった!」
今朝出てくる時はあんなに晴れていたのに、今ではどんよりと曇り、雨が降りだしてきた。これは、しばらく止みそうにない。
そういえば家を出る時に、勝己が「昼から雨が降る」と言っていた。あれを信じて傘を持ってくれば良かった、と、あかりは恨めし気に雨空を見上げる。
仕方がない、しばらくここで雨宿りさせてもらおう、と、後ろを振り返る。何の店か、少し興味があったのだ。
ハイカラな洋館仕立ての店からは、香ばしい香りが漂ってくる。これは、知っている。珈琲のにおいだ。
一度、父がお土産に頂いて、それを飲んだ事がある。香りは好きだけれど、味は苦くて、これが美味しいってどういう事なのかしらと思った。
「あかりにはまだ早い」と家族中から子供扱いされて、悔しかったっけ。
それにしても寒い。これだけ濡れてしまえば仕方がないかもしれない。革靴の中まで濡れて、ぐちゅぐちゅと気持ち悪かった。
雨露の付いた窓ガラス越しでは、中の様子はよく見えない。じろじろ見るのは行儀が悪いと知りつつも、ついつい気になって覗き込んでいたのだが。
突然目の前のドアがガランと開いた。ドアがぶつかりそうになって思わず身を引くと、「すみません」と、声が掛かった。中から出てきたお客さんだ。
けれど、何だかどこかで聞いた事があるような声。
思わず見上げると、眼鏡をかけた制服姿の男の人だった。彼もまた自分を怪訝そうに眺め…、「あっ!」と声を上げた。
そして、有無を言わさず、ぐいっと腕を引っ張られる。
「え、えっ、ちょっと、何ですか!?」
「いいから、黙ってろ!」
そう言って彼は手を上げて辻馬車を止める。え、何?どういうこと?と事態を把握する間もなく、あかりはその辻馬車に押し込められた。
隣にはさっきの男も乗り込んできて、御者に向かって行
き先を告げた。
「佐伯家、第2邸まで」
第2邸、といっても、決して狭くはない。本邸も立派な洋館だったが、こちらも洋館の造りになっている。
部屋全体の雰囲気は、モダンで、でも何となくほっとできる空間だった。住んでいる人の人柄が滲み出ているような空間。
もちろん、本邸に住んでいる人たちを悪く言うわけではないけれど。
「あの、すみません……。着物まで貸して頂いて」
「いえいえ。それにしても良く似合う。貴女に着てもらったのなら妻も喜ぶでしょう」
そう言って、朗らかに笑うのは、今ではここで「隠居生活」をしているらしい佐伯総一郎氏――佐伯瑛の祖父だった。
カフェの前でばったり佐伯瑛に再会した(らしい)あかりは、誘拐よろしくこの第2邸に連れて来られたのだった。
何が何だかわからなかったが、それでも、相手が彼だとわかればそれほど怖くはなかった。
事実、ここに着いてからはお風呂だの着替えだの(この着物の事だ)を目の前にいる総一郎氏に頼んで世話をしてくれたのだ。かえって申し訳ないくらいだった。
ただ、問題は。
(………私、どうしてここに来てるんだろう?)
もう二度とここに来ることはないと思っていたのに。
まぁ、確かに雨に降られて濡れてはいたけれど……それで辻馬車に押し込められるって、どういう事なのだろう。
説明は後でするって言ってたけど、どっか言っちゃったままだし……。
そんな事を考えながら、何気なく視線を移した先に、ある物が目に止まる。
「わぁ…きれいな絵ですね」
「はは、そうですか。ありがとう。それは私が描いたものでしてね」
淡く微笑む女の人。彼女の周りは青が基調で描かれていて、まるで海の中みたいだ。
「僕もそうでしたが、妻も海が好きで…よく遊びに行ったものです」
「へぇ…素敵ですね」
「そうそう、瑛のやつも海が好きなんですよ。そうだ、そういえば海と言えば…」
懐かしそうに目を細める総一郎の声を、がちゃりと不躾に開けられた扉の音が遮る。カップを乗せたトレイを持った瑛が、仏頂面してずかずかと入ってきた。
「ほら」と言って、目の前に置かれたカップには、湯気を立てる焦げ茶色の飲み物。
「あ、珈琲だ」
「あれ、知ってたのか」
「…………知らないと思って、出したの?」
それって何だかちょっと意地悪じゃない?と思ったが、口には出さなかった。手にしたカップの熱が、指先に熱い。
「しかしなぁ瑛、こんなお嬢さんを連れてくるのなら、私がいない時の方が良かったんじゃないのかい?」
さすがのあかりも、思わず手にしたカップを取り落としそうになる総一郎の発言に、瑛は真っ赤になって反論した。
「な、変な事言わないでくれよ、じいちゃん!俺とこいつはそんな仲じゃないんだ!」
「ちょっと、こいつって何よ。それに、どうして私がここに連れて来られたのか、まだ聞いてないんですけど!」
「あんな所で会って、俺があそこにいたの、喋られたりしたら困るんだよ。それに…」
「それに?」
重ねて尋ねても、瑛は「…何でもない」とぼそりと呟くだけだった。
(やっぱり、変な人………あれ?)
「……?どうかしたか?」
「ううん。ただ、これ、この珈琲おいしいなぁって思って…」
そう言うと、彼はほんの少し驚いたように目を見開く。
「………珈琲の美味さがわかるヤツだとは思わなかった
「前に飲んだのはもっと苦いだけで全然美味しいと思わなかったけど、これは美味しいって思う」
「瑛、良かったじゃないか。お前の淹れた珈琲を美味しいと言ってもらえて」
「えっ、コレ、佐伯さんが淹れたの?」
「別に…そんな大した事じゃないだろ。その位。好きなんだよ、珈琲が」
「ふうん。あ、だから今日もあのカフェに…」
「ばか!だから言うなって!!」
「瑛、お前また学校帰りに……」
そう言って軽く総一郎が睨むと、瑛はバツが悪そうに「…ごめんなさい」と小さく言った。
その表情は、小さい頃から少しも変わらない。いくつになっても孫は孫だな、と総一郎は笑う。
「今日は、悪かったな」
「悪かったって?」
「だから…いきなりこんな所に連れて来て、さ」
考えてみれば、誘拐だと騒がれても文句も言えない。けれど、自分がカフェに入り浸っている事を、誰にも知られたくなかったし、知られるわけにはいかなかった。
(……それに)
顔を見て、すぐに彼女が海野あかりだというのはわかった。
雨に降られて濡れたその姿は、不覚にも母の言葉を思い出させたのだ。
―――毎日泣き暮らして、すっかりおやつれになって。
そんな子を、あんな雨の中置いていけるわけないじゃないか。
(……けどさ)
ちらりと、あかりの様子を盗み見て、瑛は首を傾げたい気分だった。
どう見ても、この間会った時と変わらない様子だ。やつれた、って感じでもないし。
母親の言葉は本当だったんだろうか、と思ったが、まぁ、そんな事は今はいい。
「ねぇ、おじい様は絵が上手なんだね。びっくりしちゃった」
「あ?ああ、じいちゃん、昔は画家を目指してたから。まだ、他にもたくさんあるんだ。見てみるか?」
「えっ……見たい、けど。いいの?」
「いいよ。俺がいいって言うんだから」
そう言って、絵のある部屋に案内してやる。そこは自分も気に入っている部屋で、けれども彼女には見せてもいいと思ったのだ。
理由なんてわからない、というか、ない。ただ、何故だか彼女は心安い気持ちにさせてくれる。
楽になれる。
彼女は一枚一枚に歓声をあげながらも丁寧に見て、そして最後に「海と、奥様が大好きだったのね」と言った。
その時の、ふわりとした笑顔が妙に印象的で、ついじっと見てしまい…そして慌てて目を逸らした。
「でも…こんなに素敵な絵を描いてらっしゃっても、画家ではないのよね?」
「………まぁな」
肯定の返事だけをして、瑛は、祖父の描いた絵を見詰める。祖父が画家になれなかったのは、才能や努力の問題ではない。それ以前に環境がその夢を許さなかったのだ。
この佐伯家のために夢を諦めた。あの祖父でさえ、そうだったのだ。
佐伯家は元より侯爵の爵位を持つ家だが、それに加え、貿易に携わってきた家だ。その実績と成功で、侯爵家としての威厳を保っている言っても過言ではない。
きちんとした事業として確立したのは祖父であり、それを大きく拡大、成長させたのが父だった。そしてそれをいずれ自分が継ぐ事になるのだろう。
それは、生まれた時からもう既に決まっている事だ。けれど、瑛にとっては迷惑な話だ。重荷に感じる、と言ってもこの際かまわない。
自分の家の仕事に、誇りが持てないわけではない。祖父は言うまでもなく、父だって尊敬している。面と向かって言ったことはないけれど。
(それでも、じいちゃんは、ばあちゃんを見つけた)
よく冗談で、祖母は自分を人魚姫だと言っていた。(もの凄く小さな頃は本当だと思っていた)そして、おじい様は私の王子様なの、とも。
(俺は、どっちも諦めなきゃならないのかな)
あの日、海で会ったあの子も。
自分の夢も。
「…さん。佐伯さん。どうしたの?」
「…え、あぁ、ごめん。何でもない」
心配そうに自分の顔を覗き込むあかりに、瑛は力なく笑って答えるだけだった。どっちにしても、お前を巻き込むわけにはいかないよな。
「そろそろ階下に降りるか。珈琲、淹れてやる」
「佐伯さんって、本当に珈琲が好きなのね」
「あぁ……好きだよ。………店、開きたいくらい」
それは、冗談なんかじゃなく、本気の夢だった。今まで、誰にも――祖父ですら、話した事はない。
別に、冗談と思われても良い。そう思うなと言う方が難しいのくらい、自分でもわかっている。
でも、どう思われてもいいから、彼女には嘘を言いたくなかった。思うままを、話そうと思った。
けれど、彼女はしばらく黙ってからこう言ったのだ。
「へぇ……大変そうだけど、素敵ね。佐伯さんなら出来そうな気がする」
「……え」
「だって、珈琲すごく美味しかったし…。あ!お店におじい様の絵を飾ったら素敵かも!」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
慌てて言葉を遮る瑛に、あかりは、何を思ったのか「ごめんなさい」と謝った。大切な夢の話なのに、勝手な事を言って。
「いや、そういうんじゃなくて…」
「え?それで怒ったんじゃないの?」
「だって、こんな話……本当に出来るって思うか、普通」
「そりゃあ、簡単には無理だろうけど…でも、素敵な夢だと思うよ」
「………………」
言葉が出なかった。
絶対、呆れられるか、それか笑われると思ったのに。
そんな事出来るわけないって、言われると思っていたのに。
こんなに真っ直ぐに「素敵な夢」だなんて言われると思わなかった。
「……今の話、他には言うなよ。内緒だからな」
「また内緒?カフェの事といい、佐伯さんは内緒が好きだね」
「だって、今の話はお前が初めてなんだぞ、話したの。……だから、内緒だ」
今から淹れる珈琲は、とびきり丁寧に淹れようと、瑛は部屋を出ながら思った。
ありがとう、の気持ちを込めて。
僕の海の名前
知らなくてもいいパラレル舞台裏(要反転)〜
志波勝己・ 両親を早くに亡くし、それ以来海野家に引き取られ育てられた。あかりとは幼馴染。志波家は優秀な軍人を輩出してきた家系。
あかりに想いを寄せるも、色々事情があり、そして海野家の両親に恩を感じて言い出せず、また告げる気もない。海野家の馬は、彼が世話をしている。
偶然出会った若王子とは猫つながりで何故か良く会う。
一流士官学校の騎兵科に在学。
若王子貴文・ 自称教師だが、その経歴はかなり謎。猫繋がりで志波とは仲が良い。海野あかりとも時々会う。あかりの学校でも時々見かけるらしい(あかり談)
とある生徒を一人心配しているのだが、それに関しては別の話、になるかも。猫好きで、森林公園によくいる。
佐伯さんと海野さんと志波さんは女学校時代からのお友達です。
一番早くお見合いで決まり、尚且つ恋愛をして幸せに結婚したのは佐伯夫人。それを羨ましがっていたのは海野さんと志波さんです。
佐伯さんは正真正銘お嬢様で高嶺の花だったので、それが災いしてお友達もあまりいなかったのですが、海野さんとそのお友達の志波さんには心を開いていました。
(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine