赤城一雪と日下伊織



一雪は憤慨していた。自分はまたもや身勝手な周りに振り回されることになるのだという事実に。



海野あかりとの「一件」から後、一雪はひたすら勉学に打ち込んでいた。もちろん将来の希望というのもあったし、何よりそれ以外にすることがなかったのだ。
知識を蓄え深めていくというのは実は時間を費やすことで、しかしそれに対して時間を惜しむことは一切なかった。そうして勉強さえしていれば、周りからごちゃごちゃ言われることもないという計 算もなくはなかったが。
あれから、特に何かが変わるわけでもなく時間は過ぎた。思っているほどの評判(というのは否定的な意味で使うのは間違っているけれども)にもならなかったし、それについて揶揄されることもな い。父や兄は仕事の上でちくちくと言われたらしいが、それは一雪の知ったことではない。
あるはずがないのだろう。何しろあの件に関して、赤城はこれ以上にないというくらいに(単なる想像にすぎないが)海野と佐伯の両家に「謝罪」をしたのだから。それがあってか両家ともこの件に 関しては口を噤んで何も言わなかった。まるで何もなかったかのように。

だから、一雪も忘れることにした。自分のしようとした事など、結局はその程度の事なのだと笑いたい気分だ。あの時、僕はこの世の終わりみたいな気分にすらなったっていうのに。

そうして、「どうという事もないこと」と扱われたのにも関わらず、今、またそれを前科歴のようにして引き合いに出されている。正確にはそれは単なる一雪の思い込みだが、絶対にそうに違いない 。

許嫁とやらが、自分には決まったらしい。先日、父にそう言い渡された。

一雪はまだ学生だが、将来弁護士になるのはもう決まっている。試験は通ってしまったので、大学ではもっぱら法律の勉強ばかりだ。
「そろそろ、きっちり決めてもいい頃だろう」と父は言った。早いに越したことはない、医者だって弁護士だって「信用」が大切なのだから、と。

(冗談じゃない)

そんな一辺通りの理屈など、自分が素直に受け取るわけないのに。はっきり言えばいいじゃないか。独り身でぶらぶらした揚句、またどこぞの令嬢と「駆け落ち」でもされたらたまらないのだと。
頭に来た。だからそう言ってやった。言ってやった上で、そんなことは認めないとも言った。僕には、許嫁なんて必要ありません。
だが、どんなに言っても父の決定が覆るはずなはく、おまけに母も兄も一斉に一雪でなく、父の意見を尊重するのだった。そう悪いものじゃないよ、会ってみれば案外うまくいくかもしれないよ、だ とか、ユキちゃんの事が心配なのよ、お父様だってそれで決められたのだから、だとか。

「…まったく、冗談じゃないよ」
「何のお話?」

気付けば、目の前には琴子――兄嫁がきょとんとした顔で一雪を見ていた。彼女は袖がふんわりとしたワンピースを着て、髪は前にかからないように両耳の上だけ後ろに髪飾りで留めてある。普段か ら彼女は着物よりも外国の子女のような恰好をよくしていた。実際、彼女はそういった恰好が似合う。

「それ、よく似合ってます」
「え?わたし?ありがとうございます。…あのね、これ、今日の為に大地さんが選んでくださったの」

無邪気にはにかむ義姉を見て、一雪もやさぐれていた心がほんの少し和む。一雪はこの妹のような(だって、一雪より彼女は年下なのだから)兄嫁を割と気に入っていた。
彼女と兄は見合い結婚な上に、家同士の思惑も怪しいどころではなくはっきりと存在し、おまけに何の配慮もない年の差があり、つまり思い切り政略結婚と言っていいわけだが、奇跡的に周りが驚く ほどの仲の良さだった。
これは、身内としては喜ぶべきことだが、同時に一雪がどれほど反抗しようとも両親が強気でいる理由の一つでもある。あの大地が――結婚というものに期待も希望も何一つ持っていなかったあの大 地が――これだけ上手くいったのだから一雪だってそうなるに違いないという根拠のない自信を彼らは持っているのだ。
しかも、まさか義姉に向かって、あなたたちが仲が良いせいで僕はとんだとばっちりを受けています、などと言えるはずはない。

「もしかして、一雪さん緊張してらっしゃるの?」
「…いいえ。緊張なんてしてませんよ。怒ってるんです、僕は」
「まぁ、どうして?」

何も気付かない琴子は、信じられないとばかりに目を丸くした。どうして怒ってらっしゃるの?だって今日は一雪さんの許嫁の方がお家に来られるのよ?
一雪に許嫁が決まった時、誰よりも純粋に喜んでくれたのは琴子だった。彼女は一雪の過去を何も知らない。だから、義弟にそういう方が決まった事をとっても素敵ね、と嬉しそうに言ってくれた。 …おかげで一雪の怒りも三割ほどは萎えてしまったと思う。

「だって、家に住んでしまうだなんてそんな話聞いたことありませんよ。そんな事言い出すうちもうちだけど、承諾する相手の家だってどうかしてる」
「そういうものかしら?でも、一緒にといっても、お部屋は別々だし…それに、いつかはそうなるのだから構わないのではなくて?」
「でも、僕に黙って決めてしまうなんて酷いじゃないですか。…僕にだって心構えというものがあるし」

何故黙って話が進んだかは見当がつく。そもそも一雪は許嫁云々の話からして納得していないのだから。だが、それを正直に琴子に話すのはさすがに憚られた。
琴子は一雪の様子に気付くこともなくにっこりした。大丈夫よ、と、いかにも頼りがいのある兄嫁然として。(だがそれは誰が見ても愛らしい少女が可憐に微笑む、といった風にしか見えないのだが )

「急に仲良くなれなくっても、少しずつお話したらいいわ。お母さまも、わたしだっているんだし」
「はぁ…それは、そうですけれど」

言っちゃ悪いが、全く当てにならない布陣だ。

「でも…そうですね。少々おかしな話ではあるけれど、悪くないのかもしれない」
「そうよ、きっとそうだわ」

決まってしまう前にここに住むというのなら、いくらでも嫌われるように仕向けることは出来る。そうしてご破算だ。なるほど、考えようによっては一番きれいに話がなくなる方法じゃないか。
待ち遠しいですね、と、暢気な琴子に、一雪も笑顔を返しておいた。心からの笑顔でなくとも、この無邪気な義姉をあまりがっかりさせたくはなかったので。


伊織は緊張していた。もうそろそろ赤城の家に着く頃だ。車の外から見える空は、伊織の心の不安のように、どんよりと雲が広がっている。

(…どんな方なのかしら)

見合いどころか、「許婚」と決まってしまった赤城一雪の事を考えるのは今日何度目だろう。釣書には一流大学の学生さんであり、とても優秀な方で将来弁護士になるのだとあった。写真は見たけれ ど、あまり覚えていない。あんまりまじまじと見るのも恥ずかしかったし、実際写真などというのはあまりあてにならないことを伊織は知っていた。
今回で四度目だ。これでまとまらないのであれば尼にでもなるしかない、と父は悲壮な顔をしていた。さもなければお祓いだ。お前の男運の無さは呪われているとしか思えない――。
お父様は大げさだわ、と伊織はため息をつく。しかし、実際今までの見合いはすべてうまくいかなかった。一人目はとんでもなく年が離れていて(父に近いほどだった)まるで話が合わず断られたし 、二人目はいきなり金を貸してほしいと泣きついてくるし、三人目はうまくいくかと思いきや、途中で「私こそが真実の妻」と赤子を連れた女の人が飛び込んできてそのまま話はなくなったし――そ の後は思い出したくもない修羅場につき合わされた――、確かにあまり良い思い出はない。
父も母も、今度こそはという思いが強いのだ。相手は申し分ない、金癖も女癖も悪いわけではない、ちゃんとした家の次男だ。あるいは話してみて少々がところ「難あり」だったとしても、多少は目 を瞑りなさいと伊織は重々言い渡されていた。それくらい耐えられなければ結婚などできるはずもないのだと。

(…優しい方なら、いいけれど)

多くは望まない。ただ、自分の事を喜んで迎えてくれる方なら…良く来てくれた、と言ってくれる方なら、それだけで。



数刻後、赤城一雪との出会いは、曇り空どころか台風並みの不安と戸惑いが伊織の中に吹き荒れる事になるのだが、もちろん彼女は知るはずもない。





灰色の空



両家揃っての会食、そして伊織の自己紹介は概ね上手くいった。赤城家の人々は皆良い人達ばかりだったし、どうやら長男のお嫁さんである方(とはいえ、伊織よりは年下の少女だったが)が、親切心からか、それとも好奇心からか、或いは両方か、ともかく自分の事を気に入ってくれたらしい。ずっと隣に居て、伊織が退屈しないように色々話しかけてくれたりした。

「初めまして、赤城一雪です」

そうやって挨拶された時の気持ちを、どう説明すればいいだろう。初め、伊織はまともに彼の顔を見ることが出来なかった。針で突かれたらいっぺんに壊れそうなくらい、緊張していた。体の、皮一枚隔てた奥は不安しかない。一体どんな方なのか、自分はどんな風に見えるのか。
そして、この人と自分は本当に結婚などしてしまうのだろうかという、問い掛け。

「お前もちゃんと顔を上げて挨拶なさい」

両親に言われ、顔を上げた先には、先に見ていた写真よりももっと鮮明に彼がそこにいた。表情は機嫌がいいのか悪いのかわからない。誰とも比べようがないが、目元涼しくというのは彼のような人のことを言うのだろうか。理知的な、落ち着いた表情で、伊織よりずっと大人びている印象を受ける。

「日下…伊織です」

痛いくらいの緊張の中、伊織は何とか名前だけを言い、頭を下げたのだった。



「はぁ…」

用意された一室の寝台の上で、伊織は何度目かの寝返りを打つ。会食は和やかな空気のまま終わり、両親も安心しきって家に帰った。もちろん「くれぐれもお相手の機嫌を損ねることのないように」と念を押すのを忘れずに。…悪気はないのだ。娘を不憫に思うからこその言葉だろうとは思いつつ、それでも伊織は溜息が収まらない。

(それにしても、大きなお屋敷…)

自由に使ってくれていいと、案内してくれたのは大地という彼の兄(と、彼の妻の琴子も付いてきていた)なのだが、ただの客室とは思えない広さと快適さがある。
赤城の家は、日下の家と事情が似ていた。というのも、伊織の父親も一代で富を築いた成り上がり者であり、その財力で華族令嬢である母と結婚出来たようなものだった。藤津川の令嬢を次期当主の伴侶に迎えた赤城家に、伊織の両親はむしろ親近感を持っていたのかもしれない。今までも伯爵家やら侯爵家やらの子息と見合いをしたが、これまでよりも両親は(特に父は)幾分気楽そうだった。
だが、事情が似ていても規模は全く違う。身分的には然程違いはなくとも、こんな「お金持ち」のところにお嫁にくるというのは、どうも実感が沸かなかった。…それとも、誰でもそういうものなのだろうか。

「…全然、眠れない」

とうとう、伊織はベッドからむくりと体を起こした。落ち着かないのは、この家の造りのせいかもしれない。ここは新しく、そして立派な洋館だったからだ。
いけない事だとわかってはいたが、伊織は寝間着姿のまま、こっそり部屋を抜け出してみた。廊下には使用人の一人もおらず、しんと静まり返っている。灯りはなかったが、月が明るいせいで恐ろしさはなかった。好奇心が勝って、伊織はどんどん廊下を歩いて行く。こんな時間だから、きっともう誰にも会わないはず、そう高をくくっていたのだ。

だから、暗闇の中歩いているところへ声を掛けられた時は、心臓が飛び出そうに驚いた。

「…誰?」

訝しげな、けれども揺らぎのない声。



赤城一雪、だった。





(どうしてこんなところに)

まず頭に浮かんだのはその言葉だった。彼女に用意された部屋とは、もう少し向こう側だ。彼女の部屋のほうが食堂も何も近いのだし、まずこちらの方へ用などないはずだ。…こんな風に出くわすことなど、あるはずがない。彼女がこちら側に来ない限りは。
一雪は一応は将来の道も目処が立ち、それからはすっかり不規則な学生生活を送っている。不規則といっても濫りに遊び歩いているわけではない。好きな時に本を読み、勉強し、好きな時に眠る。ただそれだけだ。だから、今日のように真夜中に水でも飲みに行こうと部屋を出るのはよくあることだった。皆が寝静まっているこの時間を、一雪は存外気に入っている。
しかし、一雪の事情は別として彼女のような人が歩きまわるには不謹慎というか、常識外れな時間だ。それは彼女も理解しているのか、驚いてからすぐ、いたずらの見つかった子供のようなばつの悪い顔をして一雪を見ていた。

彼女の名は、日下伊織という。両親が無理やり決めてきた一雪の許嫁、らしい。

「ご、ごめんなさい…」

暗がりの中、か細い声が聞こえた。こんな時間に部屋の外をうろつくなど非常識だと、一雪に責められるとでも思ったのだろうか。おまけに彼女は客人だ。何と言われても仕方ないだろうが、伊織の声を聞いた途端、そのような事を言う気は失せた。…彼女の思うとおりその事を詰っても良かっただろうが、それは余りにもあからさまに幼稚な振る舞いで、気が引けた。

「…もう遅いけど。もしかして眠れないの?」

代わりに小さな溜息だけをついて、一雪はそう伊織に話しかけた。彼女はただこくこくと頷くだけだ。さらりとした髪が、肩のところで揺れるのが月明かりの下でもわかる。不安と戸惑いが混じった瞳が、自分を気遣わしげに見上げるのも。
そこに、いつかの面影を重ねる。見上げてくる目、くるんとした好奇心に満ちた表情。そうして思い出してしまうのは、今ではもう仕方のないことだと一雪は諦めていた。「あの子」のことは、そう簡単には心から消えてくれない。

「なら、水でも飲んだら落ち着くかな。どうせなら一緒に行こうか」

胸に生じる苦々しさを押し殺し、一雪は彼女を伴うようにして前を歩き始めた。後ろから伊織が付いてくるのは気配で感じられる。

(何してるんだ、僕は)

これでは、少しも自分の思惑通りにいかないではないか、と、一雪は自分自身に歯痒い気持ちでいた。変なタイミングで「あの子」のことを思い出したせいかもしれない。あとは、伊織自身があまりにも無害そうというか、無防備な雰囲気を持っている為かもしれなかった。…少しでも余裕ぶった、媚びた態度が見えたならもっと簡単に嫌う事が出来たのに、と思う。初めて会った時から、彼女は可哀想なくらい緊張していた。赤城家の、一雪以外の人間は皆彼女を歓迎したわけだが、それにすら、彼女はどこか気後れしていたような印象を受けた。
これで、婚約者だと言われている本人から辛辣な言葉など投げつけられれば、あまりの仕打ちではないか。さすがの一雪もそこまで非情にはなりきれなかった。

(でも、無理なものは無理だ)

彼女が好もしいかそうでないかという問題ではない。家が勝手に決めた婚約など納得した憶えはないのだし、それ以上に結婚だの何だのいう話自体に倦んでいた。一雪が女なら嫁にもいかないわけにはいかないかもしれない。だが、男なのだから独り身であったとしても問題ないはずだ。そもそも自分には家に決められた結婚に従う理由など初めからない。
ちらりと、後ろを歩く伊織の方を見る。彼女だって今日会ったばかりだ。必要以上に冷たくする必要はないかもしれないが、自分にその気はないということは早めに伝えておかなければ。
この話がさっさとなくなれば、彼女も早く次を見つけられるというものだ。

「どうぞ」

台所に入り、置いてある水差しからコップに水を移す。彼女はただの水しか入っていないコップを大切そうに両手で受け取って、半分ほどそれを飲んだ。

「…ふぅ。少し落ち着きました」
「そう?それなら良かった」
「あの、ありがとございます」

和んだ表情でお礼を言ってくる伊織を見ると、今から自分は酷い事を言うような気がしなくはない。だが結局、一雪は少し考えたあと、はっきりと言った。

「…伊織さん」
「はい?」
「悪いけれど、僕はあなたと結婚なんてする気はないんだ」

ぴたりと動きを止めたようになった伊織の顔に、さっきの笑みはもうなかった。代わりに、理解出来ないといったような、不思議そうな顔をして一雪を見上げている。
胸がずきずきと疼くような感覚を、バカげたことだと一雪は無視することにした。そして、もう一度ゆっくり、噛んで含めて言い聞かせるようにして繰り返す。せいぜい皮肉めいて聞こえるように。

「僕は、あなたが許嫁だなんて少しも認めていません。あなたはここにいる必要なんてないんですよ。…ですから、明日にはお家にお帰りください」




自分の言葉に、今度こそ彼女の顔色が失われていくのを一雪はぼんやりと見届けた。





(どうしよう)

まず浮かんだ言葉はそれだった。どうしよう。結婚する気などないと言われてしまった。家に帰れと。
一雪は、不機嫌そうにそう言った後、むっつりと黙りこんでしまった。伊織が、「はい。そうします」と返事をするのを待っているのかもしれない。
どきどきと、不穏な空気に心臓が早鐘を打つ。何とかしなくちゃ。ただそれだけだった。彼に結婚する気があろうがなかろうが初日でいきなり家に帰るわけにはいかない。

「わ、わたし、帰りません」
「…え?」

喘ぐようにそう言うと、一雪は驚いたように伊織を見る。まさか、そんな答えが返ってくるとは思わなかった、と、そんな風に目を丸くした。

「帰れません。だって…今日来たばかりだし…それに、私、もう帰ってくるなと言われてるんです」
「それは…悪いけれど、僕には関係のないことだろ?」

確かに、そうだ。これは単に伊織の事情だ。

「僕は、君とは結婚なんてしない。だから、君がここにいたって、何の意味もないんだ。さっきも言ったけれど」
「で、でも、それだって、私には関係ありません。それは一雪さんが勝手に仰っている事だわ」

伊織は、自分の言葉に自分で驚く。こんな風に男の人に歯向かうような言い方をした事はない。大体、伊織の接する男性というのは今までは父か親戚の人間くらいだし、男の人にこんな口をきくのは、とてもお行儀の悪いことだと教えられてもいた。

「家に帰れと簡単に仰るけれど、家には帰れません。家に戻ったりしたら、今度こそ尼寺にでも入れられてしまうわ」
「……」

立て続けに捲し立てる伊織の言葉に、一雪は虚を突かれたように黙りこんでいる。何の言葉が返って来ないのは息苦しい。でも、何かしらの言葉を聞くのも怖かった。

「そ、そういう事ですから、私は帰ったりはしませんから!」

おやすみなさい!と、捨て台詞よろしく言い放ち、伊織はくるりと体の向きを変える。ちゃんと最後には挨拶をしたのだから、それほど失礼でもないはずだ、と、とんちんかんな事を考えながら、夢中で走って自分の部屋に(何とか)辿り着いた。

「……はぁ」

倒れるようにして寝台に横になる。何度か深呼吸を繰り返すと、少しは気持ちも落ち着いた。うっすら掻いた汗が、ひやりと引いていくのがわかる。
相変わらず、夜は静かだった。さっきよりはゆっくりとした心臓の音が、自分の耳の奥で聞こえるだけだ。

――「君と結婚する気はない」

はっきりと、念を押すようにして言われた。冗談というわけではなさそうだった。彼は本当に、丸きり自分の事を歓迎してはいない。
今更知った事実に、つきりと胸が痛んだ。もちろん、初めから何もかもうまくいくだなんて伊織も思っていない。うまくいかない事の方が多いのは、充分知っているつもりだ。
それでも、あんな風に否定されたのは初めてかもしれない。あれほどはっきりと、不躾に。
さっきはあんな風に意地を張ったけれど、だからと言って彼の気持ちが変わるわけでもないだろう。だけど伊織がこのまま居座れば、話はそのまま進むだろう。
世の中には、夫婦とは名ばかりのまるで他人のように冷えた関係もあるのだという。信じられないとまともに考えたことはなかったけれど、このままでは伊織は彼とそういう夫婦になるのかもしれない。
つめたい、突き放したみたいな言葉。あんな態度に、自分はこの先ずっと耐えることなんて出来るのだろうか。

「どうしよう…」

思わず声にすると、情けないくらいか細い声で、泣きたくなる。別に、こんな立派な家でなくとも良かった。別に背が高くなくても、素敵な容姿じゃなくても、頭がよくなくても。
ただ、ここにいてもいい、と言ってくれるだけでよかった。歓迎もいらない。優しくなくてもいい。それだけしか、伊織は望んでいないのに。

(…帰りたい)

でも、帰らない。帰れないのだ。一雪にも言った通り、そんな簡単に帰るわけにはいかない。少しのことは我慢しなさいと両親にも言われた。



まるで世界中から取り残されたような気持ちになって、伊織は眠る前に少しだけ泣いた。





一雪にしてみれば、伊織の反応は意外だった。お育ちの良い、いかにもお人好しそうなお嬢様だ。少し意地悪を言えばすぐに逃げかえるに違いないと高を括っていたのに、 帰りませんと、あんなはっきり言われるとは思ってもみなかった。

(…おまけに、尼寺だって?)

あんなに若い、自分と変わらない年の女の子が、一度くらい見合いに失敗したからと言ってそんな事があるだろうか。と、思っていたのだが、今朝母にさりげなく探りを入れたところ、実は一雪とのお見合いは4度目程らしい。成程、向こうは向こうで色々あるようだ。

「…はぁ」

今日は学校は休みだ。元々、もう授業が少ないので毎日行く必要も無い。特に何をするでもなく庭先に出してある椅子にぼんやりと座っていた。今日は天気があまり良くない。
朝見掛けた彼女は、明らかに意気消沈していた。周りは疲れたようだと解釈していたが、もちろん一雪は事情を理解している。
これでまた彼女に会うのはとても気不味いのだが、だからといって、どこかに出掛けてしまうような気にもなれなかった。言いたいことははっきり言ったが、全く気は晴れない。わかってはいたけれど、あんなにも落ち込まれてしまうのは、やはり伊織に悪いと思う気持ちもあった。

(そんな簡単には帰れない、か)

昨日、彼女が必死になって言い募った姿を、一雪はぼんやりと思い出す。ある意味で、彼女も自分と同じような境遇だ。自分の気持ちとは関係なく、家の都合でこの家に連れて来られた。
ただ違うのは、彼女は自分とは違い、その「家の都合」に殉じようとしている。おまけに4度目にもなる見合いがこんな簡単に破談になるのも、彼女の本意ではないのかもしれない。

「…あの」

小さな、か細い声に、一雪は振り返る。まるで叱られにきた子供みたいな顔をした伊織がそこにいた。すんなりとしたワンピース姿に、そういえば昨日は寝間着姿だったと思いだし、けれど慌てて記憶を頭から追い出す。

「やぁ、調子悪そうだね。やっぱり昨日は眠れなかった?」

我ながら意地の悪い言い方だなと呆れつつも、一雪は言葉を掛ける。彼女は気まずそうに視線を彷徨わせた後、それでも最後にはちゃんと一雪の方を見た。

「…あの、謝りにきたんです」
「謝るって何を」
「その、昨日は…失礼な事を言ってしまって」

たぶん、帰らないと言い返したことだろう。まぁ、普通に考えて将来夫になろうかという相手に向かっていきなりああいう態度は失礼と言えるのかもしれない。

「気にする事ないよ、君より先に失礼な事を言ったのは僕の方だから」

そもそも、将来どうこうなる事もないのだし。というのは、さすがに心の中だけで留めておいた。あまり意地悪をすると泣かれてしまうかもしれない。今朝見た時だって目元が赤くて、思い切り動揺したのだ。
こっちに座ったら、と、もう一つある椅子の方を指せば、彼女は大人しく言われた通りそこに座った。あまり居心地が良さそうとは言えなかったが。
膝の上に置かれた小さな手が、ぎゅ、とスカートを掴んでいるのを見てしまって、一雪はますますばつの悪い気持ちになる。これじゃあまるで本当に苛めているみたいだ。

「君も、色々あるんだね。色々あって、ここに居なきゃいけないってわけだ」
「……」
「そういうの、平気なの?言ってみれば、君の意志とは関係なくここに放りこまれたんだぜ?」
「…いし?」
「君の、気持ちってこと」

そんなもの、元々あるはずがないことくらい一雪にはわかっていた。だから、余計に不憫だとも思う。その気のない自分に、彼女は無理やり付き合わされているだけだ。

「結婚するってことはさ、一生一緒に暮らすって事だ。それなら、君が好きだと思える相手じゃなきゃダメだろ?一緒にいたいって思える相手じゃないと」
「……でも」

きょとんと、不思議そうに伊織は首を傾げた。

「私、一雪さんと一緒にいたいと思えると思います、きっと」
「……え」

思わず、吐くつもりだった息ごと言葉を呑み込んでしまう。だけどすぐに違う、と頭を切り替える。一瞬どきりとした事は気が付かなかったことにした。違う、彼女は何も知らないんだ。好きだっていうのがどういう気持ちか。
一雪は大仰に溜息をついた。

「あのね、君は知らないんだ。ただ一緒にいられるってのと、一緒にいたいっていうのは違うんだよ」
「え、え?何が違うんですか?」
「だから…好きかどうかって、そういう事だよ。だって君は、僕と一緒にいられるって言ったって、それはそうしろって言われたからで、別に僕のことが好きってわけじゃない」
「…で、でも」
「とにかく、そういうこと」

何か言い掛けた伊織の言葉を、一雪は無理やり遮った。このままでは「好きです、きっと」などと簡単に言われかねない。何故かそれは聞いてはいけないと思った。そんな言葉、聞きたくもない。

(何だって、こんな事僕が一生懸命言わなきゃならないんだ)

言いながら、これでは自分の事を好きになれと言っているようなものだと気付いて目眩がしそうになった。言葉でもそれ以外でも、彼女に負ける要素など自分にはあるはずがない。それなのに、追い詰められているのは明らかに一雪だ。否、勝手に自分で首を絞めているとも言えるが。
伊織は黙り込んでいたが、ふと顔を上げる。何も含みのない表情だ、一雪の事を欠片も疑っていない顔。

「一雪さんは、好きな方がいるの?」
「僕?…僕には、いない」

答えながら、一雪は後ろめたいような気持ちになる。伊織の表情があどけないせいもあるに違いない。

「言っただろ、僕は結婚なんかしないんだって。だから好きな人なんて必要ない」
「…?そう、いうものですか…?」
「そうだよ。でも君は違う。君は、ちゃんと好きな人を見つけなきゃいけないんだと思うよ」

よくもこんな、思ってもないことをぺらぺらと言えるものだと、自分に呆れる。別に、伊織の事を思っての言葉ではない。自分の為だ。
だが同時に、これは良い思いつきだとも思えた。要は双方円満に彼女がここを出て行ければいい。一雪が一方的に追い出すような形では、周りがまたうるさく言うに決まっている。一雪としても、彼女を泣かせてここを追い出すのはさすがに気が引けた。自分には、そこまで冷たくはしきれないらしい
それなら、彼女が自発的にここを出たいと思うようにすればいい。一雪とは一緒にいたくないと、そう思えるように。
伊織は困ったように眉を下げて、一雪を見た。

「わ、私、一体どうすればいいんですか…?」
「簡単なことだよ、君が好きだって思える人を見つければいい」

僕以外のね、と、一雪は付けたした。

「そんなの、簡単に見つかるのかしら…?」
「わからない。でも、そう難しくないと思うよ。たぶんこれから、あちこちの食事会だの何だのに君を連れて行かなきゃならないだろうけど、そういう所にも出会いはあるだろうし」

言いながら、想像する。何かの物語みたいに彼女は運命の相手に出会う。舞踏会か、出掛けた先か、…あるいは、何でもない公園を歩いている時にか。
そんな風に、彼女は本当に彼女の生涯の相手を見つけるのだろうか。こんな、ぼんやりした、頼りない女の子が。
それは、どちらかといえば現実味のない、突拍子のない話に思えた。思えたが、それは考えないことにした。そんな事、一々気にしてはいられない。

「何が切っ掛けになるかわからないよ。…例えば君が何か落し物をしたら、誰かが拾ってくれて。それで好きになるかもしれない」
「そんな事で…?」
「そんな事でも、ね」

だからって、うまくいくとは限らない。運命だなんだと言っても、ダメなものはダメなのだ、…自分のように。

「でも、大丈夫だよ。それこそ君は一人じゃない。僕が付いてる」
「一雪さんが…?」
「そうだよ。僕は君とは結婚しないけど、でも、良い友人にはなれると思う」

それは、言葉を重ねれば重ねるほど、全くもって良い考えに一雪には思えた。伊織も幸せになるし、一雪も傷付かない。何なら、少し良い気分になれるくらいだ。
まるで、自分が彼女の幸せまで導くような、そんな気にさえなってくる。

「だから、さ。それまではここに居ればいい。君に好きな人ができるまで」


かなり強引なやり口だ。それでも、とりあえずは「ここに居ればいい」と言った瞬間に緩んだ伊織の表情を見て、一雪は満足だった。



それは、伊織が自分の提案に乗ったからだと思っていたし、一雪自身もだからこそ満足した。
そう思っていた。






















僕の海の名前




















(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine