実行



――偽善者。
――誰も本気で好きになったことがないくせに。

そうして言われた時の、感覚。氷の固まりでも無理やり呑み込まされたような。
弟の気持ちはわかる。自分たちが言っている事の理不尽さも理解している。だから、どんな事を言われてもそれは想定内の事だったし、覚悟の上だった。
それなのに、刺さって抜けない棘のように、その言葉は大地の胸をじくじくと苛(さいな)み続ける。

「…赤城さま、どうかされましたか」
「…あぁ、いえ。申し訳ありません。何でもないんです」

仕事の最中に何考えてる、と、舌打ちしたい気分になりながらも、大地は相手に悟られぬよう、何とか笑顔を取り繕った。無論、信頼あってこその仕事の成立だが、同時に彼らは常に自分の態度を値踏みしている。所詮新興企業など、いつ手の平を返された態度を取られても文句も言えないのだ。
美しい調度品が並んだこの立派な応接室も、一皮むけば数多の事業者が討ち取られた場と言っても嘘ではない。…少し、例えが大仰だろうか。

「…それでは、こちら件はこの通りにお願いします」
「いつもありがとうございます」
「こちらこそ」

部屋を出て、軽く談笑しながら長い廊下を歩く。その間に、今日するべき事を頭の中で確認した。書類、電話、この後の会食等。とりあえず、さっきまで囚われていた言葉は心の隅に追いやる事にする。こういう時、忙しいというのは救われるらしい。数少ない利点だ。

「こちらはまだ暑いですね」
「そうですねぇ、残暑が長いと言いますか。…そちらはどうですか」
「もう大分涼しいんじゃないでしょうか。…最も、あまり帰っておりませんのでわかりませんが」

窓の外に見える陽射しは、秋らしくなったとはいえ、まだ強い。…もちろん、だからと言って大地には特に関係のない話だ。暑かろうが寒かろうが、心配しなければいけない相手は家族を除けば存在しない。天候のことなど、世間話で話題にするくらいで、本当に心配したことなどほとんどない。

(…止めよう。考えてもどうしようもない)

一雪には悪かったと思っている。だが、どうにもならない事だし、まさか弟の肩を持つことは出来ない。それで話は終わりだ。
出口はまだまだ遠い。考えごとをしているせいかな、と、溜息を押し殺しつつ歩いているところへ、声がかかった。
振り返れば、申し訳なさそうに自分を見る男がいる。恐らくは、父親と同じくらいの年頃の。…彼には見憶えがあった。

「お呼び立てし、申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。驚きました、こんな所で貴方にお会いするだなんて」

彼は、地元で世話になっている金融機関の責任者だった。会社の資金に関してもそうだが、どちらかと言えば家の資産に関し、関係のある人物だ。
元々腰が低いというか、畏まった態度の人物ではあるが、今日はいつにもましてそうだった。汗を拭いながら、それほど大きくはない丸っこい体を縮ませている。

「こちらに来れば、赤城様にお会いできるとお聞きしまして…」
「そんなわざわざ。言って下されば、僕から出向きましたよ。電話でも下されば…」
「いえ、どうしてもこちらからお会いして、お話したいと思っておりましたので…」
「…何か、ありましたか」

何やらただならぬ様子に、大地は眉を顰める。世間の情勢のお陰で、資金繰りで困った事はないが、それでも不測の事態というのは起きることもある。
急ぎ、一つ部屋を借り二人になると、彼は益々恐縮し、頭を下げた。

「一体、どうされたんですか。とにかく頭を上げてください」
「そういうわけには…!赤城様のご不興の理由をお聞かせ頂くまでは」
「何のことです?全然、意味がわからない。ちゃんとわかるように説明してください」

不興など感じた記憶はない。まるで寝耳に水の話で要領を得ないことに、さすがの大地も少し苛々とする。大地には、彼が単に話を大袈裟にしているだけなのではないかという疑いを既に持っていたし、本当に大事であるならば、早く事態を把握したい。
しかし、大地の言葉を聞いた男は、ぽかんと不思議そうな顔をした。

「それでは…。大地様はご存知ないのですか」
「…どういう意味です」
「…口座解約の書類には、赤城大地様の御署名があったのですが…」
「……何だって」

余りの事実に、思わず敬語も忘れて大地は呟いた。大地が呆然自失となった分、男は落ち着いたらしい。相変わらず恐縮しながらも、事情を説明し始めた。

「実は、先日奥様名義の口座が解約されまして。もちろん、我々が口を挟む事ではございませんが、余りに突然の事でしたし、長年お付き合いのある赤城様ですから驚いてしまいまして…、何かこちらに不手際があったのかと、そう思い此方まで出向いた次第なのですが」
「……その、解約申し込みに僕が署名していたと、そう仰るんですか」
「はい、その通りです」

(ありえない)

心の中だけで、大地は呻く。有り得ない。そんな話は聞いたことがないし、そんな書類に名前を書いた憶えもない。
だが、自分でなければ誰がそんな事をするのだろう。母親名義ということは、会社のものではない。しかし、母が何の相談もなく、そんな事をするとは思えない。
そこで、ふと一人の存在が浮かび上がる。即座にそんなはずがないと打ち消した。だが、彼以外に考えられない。

「手続きを弟さまに代わられるくらいだから、余程お怒りなのかと思いまして…」

この言葉が決定的だった。ではやはり、これは一雪の仕業なのだ。
頭痛がしてきそうな思いに囚われながらも、大地は何とか相手を説得し、早々にその場を立ち去った。今は出張先なので、すぐに家に戻る事は出来ない。だが、連絡は取らなければいけないだろう。

(…どういうつもりだ)

怒りというより、不安の方がよっぽど強かった。急がなければと思う反面、足元が掬われるように覚束ない。
単に困らせてやろう、などと言う陳腐な目的で弟がこんな事をするはずがない。そういう幼稚な発想には、時間の無駄と一笑する性格だ。一雪にとっては今回の事が全てなのではなく、単に取っ掛かりに過ぎないのだろう。そこまで考えて、大地は一つ嫌な予想を拭えないでいた。弟が何かやろうというのなら、それに関して思いつく動機は唯一つだ。

確かに、海野あかりの事に関して衝突はした。しかし、それについては一応の譲歩を見せていた。一雪の方から「反省している」と頭を下げてきたのだから。だから、油断した。こちらにも後ろめたい思いがあったから、むしろ弟が折れてくれるなら好都合だと思った節もなくはなかった。
あの頑固な弟の方から折れてくるなんてと、その時は驚いて何も言えなかったが、成程、事を進める為に一芝居打ったのだとしたら納得がいく。いや、どちらにしろ、こんな事をしでかしてくれるとは予想も出来なかった。

要するに、彼は何一つ諦めてはいなかったのだ。

(止めないと)

今ならまだ間に合う。ああして報告が入ったのは、不幸中の幸いだった。とにかくすぐに家に連絡して一雪を閉じ込めておいてもらわないと。
そう思いながら何とか滞在している部屋まで戻ってきた大地に、けれども状況は少しも優しくなかった。
部屋に戻れば、困惑した表情で電話に応対する秘書の姿が見えた。彼がああいう表情をするのは滅多にないことだ。秘書は戻ってきた大地に気が付くと、「大地さん」と救いを求めるように呼び掛けた。

「どうしたんだ」
「今、奥様からお電話が…、少々困った事になっているようですね」
「何が…まぁいい。丁度家に連絡を取りたいと思っていたところだから」

早々に受話器を受け取り、しかしそこで大地は自分の予想より事態は2歩も3歩も先に進んでいる事を知る。受話器の向こうから聞こえてくるのは「ユキちゃんがいなくなったの」と泣き暮れる母親の声だった。





少々困った、どころではない。






案外、簡単なものだ。

窓の外の暗闇をぼんやり眺めながら、一雪は自分の「しでかした事」を思い返してみる。
いつだったか、佐伯瑛と家出の方法について話し合った事がある。それは、人生に窮屈な思いを抱く彼の為に一雪が考えたちょっとした憂さ晴らしだった。
どうやって家をこっそり抜け出すか、交通手段は、資金の調達は。そんな、出来もしない話をつらつらと言い合っては「バカバカしい」と笑い合う。
一雪は、現実では有り得ない話だからこそより現実的な話をしたがったが、佐伯瑛は違った。一雪が少しでも踏み込んだ話をすると必ず顔を顰めたものだ。それは嫌悪というよりも、もっと純粋に考える事を怖がっているように見えた。…あるいは、考える程に抱える現実の方が鮮やかになったのかもしれない。

周囲に悟られないようにするのは一雪にとっては容易いことだった。その点についてはむしろ海野あかりの方がずっと心配だったが、それも何とか気取られることはなかったようだ。
旅船の手配は母の名を借りた。これは難しくないと思っていたし、実際少しも問題はなかった。母親の代理だと言えば相手は簡単に話を通してくれたし、「良いご旅行を」とさえ言われた。帰る予定のない片道切符だというのに。
逆に難しかったのは資金調達だった。二人がとりあえずしばらく生活するには一雪の小遣いではとても足りない。家にある現金を集めたところで大した額にはならないだろうし、そもそも家のどこに金が仕舞いこんであるのか、一雪は良く知らなかった。
それで、母の口座を解約することを思いついた。一雪名義のものもあるらしいが、自分名義のものよりも母のものの方が額は大きそうな気がする。父や兄には(気分的に)なるべく関わりたくなかった。通帳がどこにあるかくらいは大体知っていたし、それくらいはどうにでも出来る。
だが、まさか母に事情を話すわけにはいかない。しかも一雪ではそもそもどうしようもない。口座を解約して現金を受け取るのは自分でなければいけないが、未成年の自分では解約も現金受け取りも無理な話だ。
それで、そこでは兄の名前を使った。母が口座を解約したい、という旨の文書を作り、その承諾の署名のところに兄の名を書いた。まさか筆跡までは調べられないだろうし、赤城家はそこでは「お得意さま」なのだから、少々不審でも問題になるのを恐れて見逃すはず、というのが一雪の考えだった。母の名前ではその場で確認されるかもしれないし、父の名前ではあまりにも突飛で逆に不振がられるかもしれない。兄が承諾し、けれども仕事で来れずに弟が代わりに来たのだというのが、一番無理がないような気がした。これは苦肉の策だったが、これ以上良い案はどれだけ考えても思い浮かばなかった。
半分は賭けに近かったが、結局は一雪の予想通りだった。奥から出てきた銀行の偉い人(のように見えた)は突然の口座解約に驚いていたが、代理だと言う一雪を少しも疑わず速やかに口座を解約し、支店中の金をかき集めてきっちり現金を揃えてくれた。「ご確認を」と目の前にそれを提示された時は、さすがの一雪も手に汗を握ったけれど、同時にもう戻れないのだと覚悟を決めた。

「…どうってこと、なかったよな」

問題はこれからだ。思っているよりも自分の声が疲労している気がして、一雪は自分を励ますつもりで手に力を込める。
家を出たその日ではなく、次の日の朝に乗船することに決めていた。考えがあるというよりも単に朝の早いうちにしか船がないのが理由だ。一晩安宿(それは、家族で旅行で訪れるものとは比べ物にならないほどの)に泊まったのはそのせいだ。まともに普段利用するようなところへ行けば足が付くかもしれない。かといって早朝落ちあうのは怖かった。一晩考えて「やっぱりやめよう」となってしまうのではないかと(あかりだけでなく、一雪自身も)思ったから。
恐らくもう今頃は、双方の家があちこち探しているだろう。目を瞑って想像してみる。たぶん母さんは家じゅうぐるぐる歩き回って、それから兄貴に電話するだろう。父さんは、よくわからないけどたぶんそれなりに気にはかけると思う。

(心配、してるかな)

「…赤城さん」

沈み込む思考を掬いあげる声に、一雪は目を開ける。そして、何でもないというように(実際、何でもなかったはずだ)声の主へ――海野あかりの方へ緩く笑って見せた。

「お風呂、先に頂きました」
「…うん」
「赤城さんは?入らないの?」
「いや…僕はいいや」

どうして?と彼女は不思議そうに首を傾げたけれど、一雪はただ微苦笑だけを返しておいた。女の子の後に同じ風呂場で、というのは、自分の気持ち云々というよりも常識的にしてはならない事に思えたから。

「やっぱり少し疲れたし、明日も早起きしなきゃいけないから」
「…そうだね」
「…本当はさ、部屋をちゃんと二つ取るべきだったんだろうけど」

受付では何と言おうかと迷っていたが、いざその時になればあかりの方が「兄妹です」と堂々と言ったのだった。お陰で学生二人でも怪しまれる事はなかったが、何となく流れで一つの部屋で収まってしまった。

「大丈夫。だって寝台は二つあるんだし」
「…ん、まぁ、それもそうか」

一雪はそれ以上言葉を重ねるのはやめた。彼女はたぶんまだ思い当たらないのだろう。こういう状況で自分たちくらいの年頃の子供が思い付く、感情の機微について。知らないのなら、そのままの方がいいのかもしれない。

部屋の灯りを消すと、それほど狭くはない空間も息苦しく感じた。まっくらな水の中にいるようだ。

「…起きてる?」
「…うん、起きてる」

おかしな感じだった。暗いところで横になっているのに彼女の声が聞こえる。ひそひそと息ばかりの内緒話のような声。

「緊張してる?」
「…少しだけ」

一雪は不思議と緊張はしていない。好きな女の子と隣同士で寝ているのだから、もう少し追い詰められるような気持ちになるかと思ったが、どうもそれどころではないらしい。頭の中では、夜が明けた後のことばかり考えている。それと、出てきた家の事。

「明日、雨が降るかもしれないわ」
「そうなの?」
「うん、空気が雨の匂いだったもの」
「ふぅん、そういうもの?」
「…でも、晴れたらいいなって思う」

晴れたらいい、というのは一雪には好意的に聞こえた。彼女が、この「家出」に否定的ではないように聞こえたから。
この先も、これまでも、一雪の中ではぐちゃぐちゃになって良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのか、うまく考えられない。
けれど、この瞬間は少なくとも幸福なのだと思った。ぬるい暗がりの中、彼女のちいさな声が「晴れたらいいね」と一雪に言う事。

「うん。…おやすみ」





それだけ言った後、どっと眠気が襲ってきた。





ゆずれないもの



それは、今から思えばまさしく嵐の前触れだった。

「瑛!瑛っ、どこにいるの!?」

ばたばたと慌ただしい足音、「奥様、どうぞ落ち着いて」と誰かが取成す声。そして何よりも、声高に自分の名を呼ぶ母の声。
騒々しい音に、瑛は顔を上げた。それと同時にばたんと荒々しく部屋の戸が開けられる。
一体何の騒ぎだと、確認する間もなかった。目が合った母は、一言も発せず近付き、何一つ迷うことなく右腕を振り上げ、それを瑛の頬に叩きつけた。余りの勢いに体が傾ぐ程だ。
母に付き従っていた使用人たちが悲鳴を上げる。

「お、奥様、坊ちゃまに何ということを…!」
「とにかく少し落ち着かれて…」
「お黙りなさい!」

弱々しい制御の声は、母の一喝に殴られたかの如く静まった。じんじんと熱くなってくる頬に、しかし痛みは感じない。余りに突然の事に、どうしていいかわからなかった。
ただただ呆ける息子に、母はこれ以上はないというくらいに怒りを滲ませ瑛を睨みつける。彼女自身ですら、感情を制御できず、持て余しているようだった。怒りが収まらず、それに突き動かされているような。

「あなたって子は…一体どこまで酷い事を…そんなに私たちが憎いというの?」
「な…、何の事だよ!俺には全然…」
「あかりさんをどこへやったの」

アカリサンヲドコヘヤッタノ。

(………何?)

意味のある言葉とは取れなかった。それくらい、突飛で、奇妙に思えた。瑛の反応に気付かない母は感情のままに語気を強める。

「お前があの子をどこかへ隠したのでしょう。自分の思い通りにならないからといって、何て酷いことをするの?おまけに佐伯の家にこれ以上ない泥を塗ってくれた」
「何が…だから、俺は知らないよ!何の事だよ?あかりって…もしかして、あいつの事なのか?あいつがどうしたんだよ!?」

隠した、と母は言った。つまり彼女の居場所がわからないと言うことだろう。母は勝手な勘違いでそうしたのは自分だと思っている。恐らく話に動転し、いつもの早とちりで思いこんでここまで乗り込んできたに違いない。
だが、もちろん瑛は知らない。知るわけがない、あの日別れを告げてから、彼女には一度も会っていない。忘れた事はなかったけれど。

「…じゃあ、あなたは何も知らないの?…あなたが関わっているわけではないの?」

それなら、と、彼女は深く溜息を付きながらその場に力が抜けたようにしゃがみこんだ。それなら、あかりさんはどこに行ってしまったの。そう、小さく呟いて。

「…どういうことだよ」

脳裏に、彼女の姿が思い浮かぶ。自分は彼女を悲しませてしまった。けれど、自分と関係なくなってしまってからは、何事もなく幸せに暮らしているのだろうと思っていた。幸せに、穏やかに、面倒事に巻き込まれることもなく。

「どこへやった、って。…どこに行ったんだよ」

佐伯さんと、明るく呼ぶ声。恐らくは、幸せしか映さない笑顔。佐伯さんについていく、と、まっすぐに言ってくれた言葉。
不安が、心を揺らす。決意がぐらつく。

(…違う)

「…瑛?どこ行くの?」

不安、ではなくて。それは単なる切っ掛けで。

「俺、行ってくる。…行かないと」

結局、怖がってただけだった。どうせ自分では何も出来ないと腐って、誤魔化した。そして、意地を張って遠ざけた。
意地を張ることと、意志を貫くことは違う。

「瑛っ…待ちなさい!貴方が行ってどうするの。貴方には何も出来やしないわ、ここにいなさい!」

母の、悲鳴にも似た声が足を止めた。振り返って、母を見る。怒っているのか泣きそうになっているのかわからない顔。たぶん、両方なのだろう。
あいつもこんな顔をしていた。別れ際のあかりも、喧嘩をした赤城一雪も。
とんだ子供だ。誰もかれもこんな風に傷付けて悲しませて。それでもまだ自分の気持ちを、我儘を押し通そうとしている。

「…ごめんなさい、母さん」

気付けばそう言って頭を下げていた。こんな風に、素直に謝ったのは何時ぶりだろう。

「俺は子供で…、たぶん母さんの言う通り何も出来ないけど…、でも、行きたいんだ。このまま、ただ心配してここにいるなんて出来ない」

だって、約束したから。子供の、ただの口約束だったけど。でもずっと憶えていた。
もし人違いでも、本当は無関係で、単なる自分の都合のよい幻想だったとしても、かまわない。後で笑い者になったって、かまわない。

俺は、あいつが好きなんだ。その気持ちだけは、誤魔化したくない。

「母さんとの約束は守ります。絶対ここにも戻ってくる。…だから、今だけは行かせてください」





それだけ言って、家を飛び出した。





勢いで駆け付けた海野家には、意外な人物がいた。彼は、瑛を見るなり姿勢を正して一礼する。
赤城一雪の兄だ。

「この度は、佐伯さまの所までご迷惑を」
「いえ、そんな…頭を上げてください」

何故、彼が自分に頭を下げる必要があるだろうと、瑛は慌てたが、同時に一つ嫌な予想をした。まさか、海野あかりの件に、赤城一雪が関わっているのだろうか。
そして、その予想は一雪の兄である赤城大地の説明で当たっているらしいことがわかった。
わかった、と言っても、証拠を掴んだわけではなく、全ては憶測にすぎない。だが、赤城大地は「間違いない」と強調した。

「弟は…どうも、あかりさんの事を諦めることは出来なかったようです」

苦い微笑みと共に彼はそう言った。表情はあくまで穏やかでも、そこに滲む疲労は色濃いことがわかる。一雪の兄は家業を継ぐ予定で多忙なのだと聞いた事があった。けれど、今回の事で色々走り回っているのだろうと思うと胸が痛んだ。

「…俺の、いや、僕にも、責任があります」

一雪をここまで追い詰めたのは誰でもない、自分なのだ。具体的にどうしたら良かったのかは今でもよくわからない。でも、気持ちに憶さない一雪に対して誤魔化したのは瑛の方だ。
けれども、瑛に対して赤城大地は冷静に「貴方のせいではありません」と言った。

「貴方に責任などあるわけがないでしょう。全ては一雪のした事なのだから」
「だけど…」
「それとも、君のせいだと詰(なじ)るほうが兄貴らしいのかな」
「…え」

不意に砕けた口調に思わず大地の顔を見れば、彼はもう一度笑った。…たぶん、彼はそのつもりだったろう、と瑛は思う。

「赤城家の体裁か、それとも本当に弟の身を案じているのか、自分でも…よくわからないんだ。情けないことに。あいつが、どんな状況になっているのかわからないのに、一方で、君の家に何て詫びようかとそればかり考えてもいる。…仕事のことばかり考えていると、こういう風になるのかもしれないな」
「そんなこと」

ないでしょう、とは、口には出さなかった。そんな簡単に、安請け合いするような安易な否定な言葉を、言ってはいけない気がした。

「…警察に、連絡するという話が出ている」

苦々しげな表情を消し、赤城大地は静かにそう話を切り替えた。海野あかりの話だ。

「そういう話が出るのはわかる。…だが、そうはさせたくないんだ。内輪で解決出来るなら、それに越したことはない」

話の内容は、瑛には理解できた。彼は、一雪が関わっていた場合の事を言っているのだ。

「けれど、どこへ行くつもりか、どうやって行くつもりなのか…闇雲に探しても無駄です。何か、知っている事があれば教えて頂きたい」
「俺は、何も」
「…もちろんわかっています。ただ、今まで話した内容や、普段の態度や…何でもいいんです、気付く事があれば」
「…気付くこと」

言われて、一雪とのことを思い出してみる。普段、何の話をしていただろう。大抵は瑛の家の愚痴を言ったり、学校の先生の面白かったことをこっそり笑い合ったり、…あとは、あの子のことを話したり。時には将来の事も真面目に話した気がする。あとは。

(…あ)

ふと、心にひっかかる。
瑛は、窓の外を見た。外はすっかり暗く、夜も更けていた。海野あかりは、今日の学校の帰り、つまり昼頃から家に戻っていない。

――なんで?早く動かないと、見つかったら連れ戻されるじゃないか。
――そんな慌てる必要はないよ。

心得顔で、一雪はそう言っていた。

――その日のうちに焦れば、かえって見つかりやすい。汽車の本数だって限られてるし、だとすると辻馬車か徒歩?それじゃあ場所が限定されるし、次の日から動きが取りにくいだろ。
――じゃあ、どうするんだよ。
――その日は動かず、どこかに身を隠す。宿に泊まれれば上出来だし、駄目なら…まぁ野宿とか。それで、次の日を待つ。そうすれば行き先が広がるだろ?
――そういうものかな…?

「…船だ」
「船?」

まさか、と赤城大地が続けようとしたのを、瑛は遮った。

「あいつ、言ってたんです。船なら、乗ってしまえば遠くに行けるって。途中で降ろされる事もないし、降りる時だって人が多いから見つかりにくいだろうからって…」
「…一雪が、そんな事を」
「もし家出するならって話を…、俺が、家にいるのが嫌だって言ってたから」

今から思えば、あの時彼はどんな気持ちだったのだろう。一雪は瑛の事を、瑛以外のもので推し量って態度を決めたり、意見を変えたりはしなかった。いつだって、自分に対して欠片も嘘をつかなかった。もしかしたら彼も、いや、彼こそが、瑛が倦んでいたものを欲していたのかもしれないのに。
くだらない、甘ったれた言い訳を、彼は何も言わず聞いていてくれた。

「動くなら、次の日からだって…そういう話を、しました。だから、明日の朝、先回りしたら…」
「わかりました。すぐ確認しましょう」

すぐに赤城大地が動くのを、瑛はただぼんやりと見ていた。話し終わった後の喉はからからに乾き、奇妙だが、胸が痛む。一雪があかりを連れてどこかへ行ってしまったのだとして、それならなぜ自分はそれを止めるような事をするのだろう、と、そんな事を思った。自分はどこまでも、一雪の力にはなれない、親友なのに。

――船なんて、目的地に先回りされたら終わりだろ。

一雪が家出の際の交通手段は断固船であるという説に対し、瑛はそう反論した。どこまで遠くへ行ったとして、外国にでも出ない限り、すぐに足が付くのは少し考えればわかるはずだ。
そう言った時、一雪は少し考えてから、「それもそうだ」と笑った、屈託なく、快活に。

――…でも、結局はさ。

今、初めて気が付いたように、或いは初めからそれを知っていたかのように一雪は少しも動じることはなかった。ああいうところが、やっぱり気に食わない。

――結局は、家出なんて最終的には失敗するんだろうな。どんな風にしたって。






あの時、一雪は笑ってそう言ったのだ。そしてそれが、どんな時も家出話の結末だった。





早朝の港



その日はどんよりと曇っていて、薄暗いのはただ早朝だからというだけでなかった。低い空の下に広がる海は、真っ黒くて重たげで、時折波のぶつかる音が聞こえてくる。
待合室は人が少なく、がらんとしていた。こんな朝早い客船に乗ろうと言うのだから、当然かもしれない。しかも、ここは一等席の待合室だ。あかりと一雪以外は皆大人で、それぞれに干渉する事はなく、静かだった。明らかに、自分たち二人はこの場で浮いている。

(少し寒い)

灰色の空と海を、あかりは黙って眺めた。それにしても一雪さんはどうやって一等席なんて用意する事が出来たのだろう。船に乗った事のないあかりでも、船の席には一等席から四等席までの区別があり、そこには値段にも待遇にも(椅子の一脚、窓枠一つからして)確固たる、そして歴然とした格差があるのを知っていた。一等席を、しかも二人分も取るだなんて、一学生に出来るはずがない。それとも、あかりが物を知らないだけなのだろうか。

(たぶん、そうなんだわ)

きっと、思ったほど難しい事でないのだ。一雪は優秀な学生さんなのだから、それくらいの事は容易に出来てしまうに違いない。宿を取るのも、船の一等席を取るのも。そう、考えることにした。
そうでなければ、これは空恐ろしいことのように思える。あかりは隣に座る一雪の横顔をそっと伺ってみた。彼も、今日は口数が少ない。少ないけれども、重たい荷物は決してあかりに持たせないし、よく眠れた?とか、寒くない?とか、いちいちあかりの事を気遣ってくれる。(というより、彼は出会ってから一度だってあかりに非紳士的な態度など取ったことはない)

「…何?」
「…何でも。一雪さんこそ、寒くない?」
「寒くないよ、どうして?」
「…ううん、人があまりいないから、少し冷えるような感じがするなって思ったから」
「いや?僕は平気だけど…、心配してくれて、ありがとう」

そう言って笑った一雪は、けれど、もうすっかり疲れ果てているようにあかりには見えた。何も言わないけれど、今朝からずっと、痛々しい程周りに意識を向けているのがわかる。

(私達、どうなるんだろう)

実のところ、どうなるかという未来の話より、今現在何をしているのかというところこそ問題なのだが、それについては考えたくはなかった。
自分たちはここまで来てしまった。望みが叶わない事に絶望して(嫌になったとか、そんな軽々しい理由ではない、断じて)、策を練って(実際考えたのは一雪さん一人だけれども)家を出た。何故おめおめと戻ることが出来るだろう。何より、あかり一人で戻るわけにはいかない。

けれどその一方で、あかりは内心完全に怖気付いていた。それは早朝港に着いた時の不穏な空と海を見たせいかもしれないし、首が落ちそうになる程に見上げた巨大な客船を見たせいかもしれない。

「大変お待たせしました。皆さま、乗船手続きをお願い致します」

係員が呼び鈴を鳴らし、待合室のドアを開ける。いよいよだ、と背中が震えるような感じがして、すぐには立ち上がれなかった。

(立ち上がって、ここを出てしまえば何もかもお終い)

「…行こう」

一雪の促す声に、あかりはゆっくりと席を立つ。そして、冷えた空気の流れ込む出入り口を抜けた。

「あかり!」
「一雪!」

その声は、初めは遠くに聞こえ、次にはっきりと知覚した。もしかすると二度三度と呼ばれたのかもしれない。あかりはその声に足を止めた。声のする方へ振り返る。
空も海も、そびえ立つように在る客船も、周りの船に乗り込む人も、それを見送る人も、何もかもが灰色に見える中で、その人だけはくっきりと色を纏ってあかりの視界に存在していた。
距離はあったが、目が合うのがわかった。きっと、彼の視界に自分も写っているに違いない。それを一瞬で理解して、そして安堵した。安心感と幸福感(一体何故それをその瞬間感じたか、説明し難いのだけれど)で目眩がしそうだ。

「………佐伯さん!」






そう名前を呼ぶのは、仕方のない事だったと思う。そして、周りの人が驚いたように(とはいえほんの一瞬)注目し、そして隣の赤城一雪が表情を強張らせてしまうくらいには大きな声になったとしても。






『家出なんて失敗する。どんな風にしたって』

そう、佐伯瑛に言ったのはいつも一雪の方だった。どんなに策を練り、実行したところで、結局は見つかって説得され、連れ戻される事になるだろう。

(何故なら)

何故なら、本気で家を出るつもりなど、初めから自分たちにはないからだ。どれほど否定しても嫌がっても突っぱねても、そこが「帰る場所」であることは変わらず(変えることなど出来はしない)、そこ以外の場所を拠り所にすることなど出来ないからだ。
何故なら、僕たちは無知で甘ったれで生活力もない、温室育ちの、そしてきっと大切に育てられてきた子供だからだ。
悔しいけれども、結局はそういう事なのだ。

それを証拠に、一雪は見つかってしまった(或いは見つけられてしまった)怒りより、この次にどうすればいいかという焦りより、そして、隣の海野あかりが切なげに佐伯の名を呼んだ悲しみより何より、罪悪感で胸がいっぱいだった。ただ、それを素直に認めることは出来なくて、けれどもまっすぐにこちらを見る兄の視線が痛くて、一雪はどうしようもなく途方に暮れた。ここまで情けない気持ちになるなんて、思ってもみなかった。

「…馬鹿な事は止すんだ」

言われて、反射的に一雪は海野あかりを後ろ手に庇う。本当はほっとしていた。このまま大人しく言われるままに戻るつもりだった。だけど一方で認められない自分がいる。
駄目になってしまう事はわかっていた。わかっていたけれど、それではあまりに自分が惨めな気がした。家柄なんて関係ないと思っていたのに、結局はそれが、一雪の想いを邪魔するのだ。片想いも実らない、親友にも何一つ――彼女が手に入らないのなら、そう、何一つとして!――敵わず、最も嫌悪したものに、馬鹿げていると考えていたものに、膝を折る事になる。
それだけは、どうしても認めたくなかった。素直に認めるには、あまりに苦しかった。

「嫌だ」
「一雪っ…!」
「うるさいな!兄貴には関係ないだろ。なのに、こんな所までのこのこ迎えにくるなんて、本当にお目出度い人だな」

言い返せば、兄の目が動揺で揺れるのがわかる。あの人は、自分などより余程誠実で善良な人なのだ。その事を、一雪は知っている。弟なのだから。

「…佐伯くんだって、何しに来たんだ。彼女と君はもう関係ないんだろう?なら、僕と彼女がどこへ行こうがどうでもいいことじゃないか」

佐伯瑛にしても、口では悪態をついても、本当は優しい性格をしていることを、知っている。優しいから、彼は今までずっと動かずにいた。その優しさに、付け入った事がないわけではない。今だって、そうだった。彼が何も言わないのをいいことに、言い淀むのをいいことに、何も言えないようにしたのは、一雪の方だ。

「…関係ない。だけど、どうでもよくはない」

ぎゅっと苦しそうに眉を顰めたまま、瑛は低く言った。低く、はっきりと。一雪の耳に、その言葉が全て理解出来るほどに。

「こんな風に、無理やりあかりを連れて行くのは、ゆるさない」
「彼女は自分で選んだんだ。それなら文句ないだろ。彼女の意志なら、君が止める権利はない」

背中に、そっと手が添えられるのに気付く。やめて、と小さく聞こえた。
その声は小さく震えていて、もしかしたら彼女は泣いているのかもしれないと思った。だが、だから何だというのだろう。彼女が泣くからと言って、一雪は彼女を離すつもりはない。
ここで離したら、もう二度と手に入れる事は出来ない。

「…だめだ」

苦しげな、けれども決意に満ちた声だった。

「笑ってるなら、もしかしたら送りだしてやれたかもしれない。…でも、そうじゃないなら、だめだ。あかりが、幸せになれないのなら、いかせない」
「そんなの…」
「一雪さん」

言い掛けた一雪の言葉を、もう一つの声が止めた。小さな、濡れて湿ったあかりの声。

「ごめんなさい」
「なに、を」
「ごめんなさい。…だけど、だけどやっぱり、私、行く事は出来ません」

振り返ると、本当にごめんなさい、と、深々と頭を下げるあかりが見えた。

(…あぁ)

終わった、何もかも。






そう思ったのと、あかりが自分の前を通り過ぎて駆けていくのは、ほぼ同時だった。











僕の海の名前




















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