揺れる心



いつだったか、家出の方法について赤城と話したことがあった。
もちろん本気ではない。だが、「どこかへ行ってしまいたい」と口にした瑛に、せめて鬱屈した気持ちが晴れるようにと提案してくれたのは赤城だった。
その話は「あそこへ行けたらいい」とか、「こんな風に出来たらいい」という単なる願望に止まらない。どこに行くかも具体的に決め、その為の交通手段、かかる経費、持っていく荷物、家に残す置き手紙の文面。逐一細かく設定し、それについて議論をするというやり方だ。いかにも現実的で合理的な赤城らしい。

――まぁ、でも結局のところは、『そんな事出来っこない』って思い知るんだろうけどね。

この種の話をすると、始まりが威勢が良いのは瑛なのだが、最終的には赤城の勢いに圧された。「もしも」の話にしては、余りにも明確に、そしてあっさりと話を進めていく赤城は、明日にでも家出するんじゃないかと思えるくらいの態度で、瑛はいつも最後には曖昧な返事しか出来なくなる。そうして自分が怖気付くのに気が付くと、彼は決まって最後そう言って笑い、話を終わらせた。

「…っ」

傷口に、消毒液が沁みる。針で突かれるような刺激に、瑛は思わず顔を顰めた。うっかり目が潤んだのはきっとそのせいだろう。…あいつの事を考えたからじゃない。
薬箱に消毒液を戻す。殴られた時に口の中が切れたが、これは大したことじゃない。倒れた時に出来た腕の擦り傷も、思ったほどは酷くなかった。消毒するだけで充分だ。それよりも一番うんざりするのは明日に提出する反省文だった。教室で取っ組み合いの喧嘩をして、それだけで済んだのは、面倒でも優等生の皮をかぶっていたお陰かもしれない。
喧嘩の相手は赤城一雪だった。切っ掛けなんてわからない。もちろんそんな喧嘩をしようだなんて思うはずがない。…ただ、お互いにいつもとは少し勝手が違っていた。瑛も家の事で気分が塞がっていたし、そして何より赤城は…、彼もまた、何かに苛立っていた。

正しく言えば、何か、ではなく、佐伯瑛に、だ。

思い返せば、出会い頭から様子がおかしかった。赤城の態度は普段からどこか一線引いたような、下手をすれば小馬鹿にしたような物の言い方をする時があるが、だからといっていちいち腹が立つようなものじゃない。
あの時は、おかしかった。初めから悪意ある言い方だった。その事に、瑛は少なからず動揺したし、そして腹が立った。

『君はそんなに頑張る必要ないじゃないか』

明らかに、挑発的な口調。そんな風に彼自身から嗾(けしか)ける事など、普段では考えられない。そして、瑛だって取り合わない。
けれど、赤城は止めなかった。余裕があるのか、それても焦っているのかわからないような上擦った声で、聞こえない振りをしていた瑛に、更に言い募った。

『何もしなくたって、君は何もかも手に入れられるんだからさ』

その言葉が耳に届いた途端に、掴みかかったのは瑛の方だった。良く陰で言われる言葉だった。その事を、赤城が知らないはずはない。彼は、それを知った上で敢えてそう言ったに違いなかった。
掴みかかった腕は、だが逆に押し戻された。…それからの事はあまり記憶にない。頬が腫れているのだから、お互いにお互いを殴ったのは事実だろうが。

『…どうしてだよ』

――どうして。

赤城の声とあの夏の夜の出来事が重なって、瑛は慌てて首を振ってその光景を頭の中から追い出そうとした。…嫌だ、思い出したくない。
ずきずきと心臓が痛い。殴られた痛みよりも、ずっと。

「消毒は、出来たかね」
「…じぃちゃん」

低く穏やかな声音が、けれども思ったよりもずっと傍で聞こえたので、思わず声のした方から顔をそむける。…情けない顔を、祖父に見せたくはなかった。
一緒に運んで来てくれた珈琲の匂いが、ほんの少しだが強張った気持ちを解してくれる気がする。

「あぁ、平気だよ。これくらい」
「お前が学校で喧嘩なんて、珍しいじゃないか」
「まぁね。…ちょっと、どうかしてたんだ」
「喧嘩するくらいの元気があるなら、安心だ。…衝突することはいくらでもあるさ」

冗談めかして言う祖父に、瑛は曖昧な笑みで応えた。一口飲んだ珈琲は熱く、波立つように不安定だった気持ちも、少しは落ち着いてきた。
落ち着いて、そして思い出す。…いや、忘れたくても目に焼き付いて消えてくれない。学校で、唯一心を開いて付き合える友達が、自分を睨みあげる顔を。…明らかな嫉妬と怒りに染まった表情を。

『君は、僕に無いものを、何もかも持っているくせに』

赤城のあんな顔を見たのは初めてだった。

(俺…、一体何してるんだ)

迷わないと決めたのに、周りからは「どうして」「何故」と責められる。それは、覚悟していた事のはずだ。そして、どんなに理解されなくてもかまわない。そんな風にすら考えていたのに。
けれど、ここに来て心が大きく揺らいでいた。家族も友人も…好きな女の子も。大切な人全部を傷つけて、それでも、俺のやりたい事って、一体何だ。こうまでしてやり通す価値が、ある事なのか。

「じいちゃん、俺…」

本邸に戻るよ。
そう言おうとし、そしてそれを何度飲みこんだだろう。体が、知らずと震えるのがわかる。
甘く考えていたつもりはない。けれども、こうまで辛い事だとは思わなかった。…こんなにも孤独を感じるだなんて。
何も知らない子供だと揶揄された母親の言葉が、今迄以上に重く圧し掛かる。つまり、この事だったのだ。

「…もし、どうしても辛くなったら、僕が一緒に行って、頭を下げてやろう」
「…え」

思わぬ言葉に、瑛は祖父の顔を見直す。祖父は、宥めるような顔で瑛を見ていた。

「誰にも理解されない事を辛いと感じるのは、けれども幸せである証拠だ。お前はそれだけ、愛されている事を知っているのだから」
何も言葉が出てこない瑛に、祖父は穏やかに微笑んでみせる。

「年を取ると、どうも余計なお節介をしたくなるらしい。これだから年寄りは、なんて嫌味を言われそうだな」
「…じいちゃん」
「だから、瑛。思うようにやればいい。後はお前の、気持ち次第だ。…進路の事も、人に対しても」
「…それは」
「意地を張ることと、意志を貫くことは違う。それさえ忘れなければ、大丈夫だ」

どきりと、心臓が音を立てる。そう言われて、真っ先に頭に浮かんだ存在。離れていても、自分の心を支えてくれる光。

「…それでもお前がやり切れるなら、それでいい。それはそれで、お前のつよさだろうから」



一口飲んだ珈琲カップをソーサーに戻し、祖父は静かにそう言った。






別れと再会



留学する水島密の見送りは、ひっそりとしたものだった。
身内は彼女の母親唯一人。そして、学校の音楽教師(彼は、あかり達の直接の担当ではなかったが密は色々と世話になったらしい)、それから自分。他には誰も来ていないのかと見回すあかりに「誰にも伝えていないの」と密は言った。

「…なぜ?」
「…あかりさんが来てくれれば充分よ」

後日知ったのだが、家族の反対を押し切って留学する密は、学校内では奇特者扱いされていた。周りから見れば、彼女の決意は酔狂以外の何物でもなく、「父親に逆らう不遜な娘」とすら思われていたらしい。そう言って眉を顰める者もいたし、そこまでではなくても「変わり者」の彼女に関わる事自体を恐れている者もいた。…誰も、この日の事を知らずにいたわけではない。

港の風は潮の匂いがする。だがそれよりも、あかりの目を引くのは密の後ろに見えた船だった。客船であるそれは、よく見かける漁師舟などとは比べ物にならない。とてつもなく巨大で、ちょっとした家よりも大きいのだ。こんなものがどうやって海の上に浮かんでいるのだろう。その圧倒的な大きさに、あかりは息をするのも忘れてただ見上げていた。

「…こんな大きな船、初めて見たわ」
「そうね、私もよ。…見るのも乗るのも初めて」

にこりと笑う密の表情も、いつも程は柔らかくなかった。…それはそうだ。彼女はこれから一人で遠い国へ行ってしまう。それを思うと、あかりの胸もぎゅうっと痛くなった。

「…いやだ、あかりさん。そんな顔、しないで?」
「でも…」
「私なら大丈夫。…着いたら、きっと手紙を書くから。…それと、あかりさんがいつも元気で、笑っていられますようにって、お祈りしてる」
「それは、私の方だよ!私だって、密さんのこと、ずっとずっと応援してるから…っ」

ふわりと、前触れなく密の腕が自分の体に投げかけられる。ふわりと鼻先を掠める匂いが、ああ密さんの匂いだ、と思う。今まで一緒に過ごしてきた時間が、不意に頭に浮かんで、泣きたくなった。泣いたらだめ、と自分に言い聞かせながら、あかりはぎゅっと密を抱きしめ返す。いかないで、と言いそうになるのを呑み込んで、あかりは何とか笑った。

「…元気でね」
「ありがとう。…あかりさんもね」

体を離し、微笑む彼女はいつもの密だった。あかりの、自慢の親友。
恐らく今日の為に仕立てられたのであろうワンピースの裾をひらめかせながら、彼女は船の方へと荷物を持って歩き出した。途中でくるりとこっちを振り返った密に、あかりは手を振る。

「そうだ!言い忘れてたけど!」
「えっ、何ー!?」

もう大分遠くにいたけれど、それでも彼女が悪戯っぽくぱちりと片目を瞑ったのが、あかりには見えた。

「いつも元気でいてね!それと、あかりさんが、素敵な人と出会えますように!」
「ちょ、ちょっとー!」

そして、今度こそ彼女は船に乗り込んで行った。あかりには全然想像もつかないような、遠い国へ行く為に。






(…行っちゃった)

家まで送るという、密の母親からの提案を丁重に断り、あかりは一人で戻ってきた。…と言っても、まっすぐ家に帰ったわけではない。意識したわけではなかったが、気付けばよく来る森林公園に来ていた。

佐伯さんの事、とうとう密さんには話せないままだった。

その事が、今頃になって重く心に圧し掛かる。話す頃合いがよくわからなかったし、何より、留学準備に追われる密の負担になるような話は、したくなかった。だから、これで良かったのだ。
けれど、誰かに話したい気持ちはあった。家族には話す気になれない。先日、勝己が家を出ると言った件で衝突してから、あかりは誰にも謝っていないままだし、ぎくしゃくしたままだ。こんな状態で話せるはずがないし、そもそも話す気もない。今まで両親にでも勝己にでも何でも話してきたが、佐伯瑛については、どうしてか気が進まない。もしや若王子先生がいるかもしれないと期待していたのだが、こんな時に限って、全然姿が見えなかった。

「はぁ…」

適当に座れる所を見つけ、腰を下ろす。密さんは今頃どの辺りなのかしらと、ずっと広がる青空を見詰めて思いを馳せてみたりもした。まだ夏の名残を含んだ空気は、港の風とは違い、草の匂いがする。

――あかりさんにも、決める時が来るわ。

いつかの雨の日に、彼女に言われた言葉を思い出す。自分なりに決心したつもりだったけれど、それは、あかりの思ったような道には繋がらなかった。

(…どうすればいいの)

自分だけではどうしようもない事だ。密のように、自分だけが決心して動く事態とは違う。…あの人の気持ちは自分とは全然別の所を見ていて、そして、それを動かす事は出来なかった。傍にいることすら、拒絶された。

――迷惑なんだ。

あんな風に、言われたのは初めてだった。はっきりと、取り付く島もない態度で…それなら、自分は黙って引き下がる以外にないではないか。

(…イヤ。考えたくない)

考えれば考える程、彼を責め立てる言葉しか出てこない気がして、あかりは、ざわつきそうになる自分の心を必死で落ち着かせる。「仕方がなかった」と、何度も言い聞かせる。
…そうでなければ、何だか自分がとても嫌な人間になってしまう気がして。

(こんな気持ちを、私はいつまで抱えているの)

いつになったら忘れられる、いつになったら、あの人の事を。だが、忘れるだなんて、そもそも出来るのだろうか。…こんなに深く根付いてしまっている気持ちなのに。

(かんがえたくない)

何もかも、どこかへ放り出してしまいたい。そして知らない間に全部うまく解決してくれればいいのに。佐伯瑛にしても勝己にしても、誰もかれも、あかりにはどうしようもない事なのだから。全部見えないところへ遠ざかってしまえばいい。

そんな思いが、ふと心を掠めたのと、その声が耳に届いたのは、ほぼ同時だった。

「…やっぱり、君だ」

振りかえった先にいたのは、佐伯瑛でもなく、勝己でもなく、…ましてや若王子先生でもない。
それは、単なる偶然だったに違いない。けれど、その時のあかりにとっては単なる偶然とは思い難かったし、そして実のところ、偶然ではないと思い込んでいたのは、あかりだけでなく出会った相手もだった。
何故なら、あかりは、恐らく自分もそんな表情をしているのだろうと思われる驚いた表情を彼が一瞬苦しげに歪めた時に、この人も何か抱えているのだと、すぐに気が付いてしまった。
私と同じ、何かどうしようもないものを、この人も同じように持っている。そう思えば、同調してしまえるのは簡単だった。





「……赤城さん」





お久しぶりです、と微笑む彼女の笑顔は、けれども、一雪の知っている彼女の笑顔とは違う気がした。何かあったんだと、一雪は直感する。…でなければ、こんな切ない顔を、するはずがない。
それにしても、会うなと言われてからまた彼女を見つけてしまうなんて。自分は信じないが、もしも神が存在するのだとして、これは皮肉のつもりなのだろうか。それとも、最後の慰めのつもりか。…もちろん素通りする選択肢など、自分の中には存在しない。

「…隣、いいかな」
「どうぞ」

(…最後の慰めだなんて、僕も随分気弱なことを考えたものだな)

思った以上に弱っているらしい自分に、一雪は心の中で笑った。それでも、もう会えないと思っていた彼女に会えたのは、やはり嬉しいことだ。
家では、兄大地に向かって悪態をつき反抗した一雪だったが、正直なところ、事態が好転するとは思えなかった。自分がどんなに駄々をこねたところで、兄はともかく、父の考えは変わるまい。
それに、隣にいる彼女は、少なくとも佐伯を嫌ってはいなかった。むしろ好意的な態度だったことから、きっと佐伯と海野の縁談はまとまってしまうだろうと、一雪はそう思っていた。だから、もうどう足掻いたところで結果は変わらないのだ。余程の事がない限り、一雪に逆転出来る可能性はない。佐伯には醜い嫉妬から殴り合いの喧嘩をしてしまったが、彼女に対してはそんな事出来るはずもない。…今日、ここで会えたのなら、せめて良い印象で憶えておいてほしい。そして、自分にとっても良い思い出になるように。



…初めは、本当に本気でそう思っていた。



「何だか、浮かない顔してるんだね」
「今日、留学する友達を見送りに行ってたんです。…それで、ちょっと淋しくて」
「敬語はやめてって言ったろ?」
「あ!ごめんなさ…えっと、ごめんね」
「いいよ、気にしてない。…へぇ、それにしても留学か。…女の子の友達なんだよね?」

こくりと頷くあかりに、一雪は少なからず驚く。中には働いたり、大学進学をする女性の存在も知ってはいたが、こんな身近にそんな豪気な話を聞くとは思わなかった。

「ずっと仲良しで、親友の子だから」
「そっか。…それは淋しいだろうね」

でも大丈夫だよ。僕は、君とずっと一緒にいるから。
そんな風に言えたらな、と、一瞬浮かんだ言葉は、いっそ滑稽ですらある。そんな言を口にしても、いたずらに彼女を惑わせるだけだろう。…惑わせる事が出来れば本望だが、一笑に付されたら、それはそれで惨めだ。

「でも、赤城さんも何だか淋しそう」
「…そう、かな」
「うん、そう。…それに」

ふと彼女の細い指が、何の断りもなく一雪の口元に触れる。

「…っ」
「あ!まだ痛い?…怪我しているのよね?」
「あ…あぁ…いや、それは大丈夫」

確かに一雪の口元は小さく赤く腫れている部分があり、それは怪我の痕だったが、一雪が驚いたのはそういう事じゃない。痛みよりも、心臓への衝撃の方が余程大きかった。…そうして今更、あまり改めて実感したくはないが、やっぱり自分はまだ彼女の事が好きなのだと思い知る。そうでなければ、こんなに胸が痛むはずがない。痛いような、嬉しいような妙な感覚、舞踏会で初めて会った頃と変わらない気持ち。

「…赤城さん?」
「あ、うん。ごめん、本当に何でもないんだ。…これは、ちょっとね、この間親友と喧嘩をして」
「喧嘩?…赤城さん、喧嘩なんてするの?」
「そりゃあ…まぁ。…僕はもっぱら口喧嘩だったんだけど。…その時は、どうしようもなかったんだ」

思い出して、気が重くなる。…考えてみれば、彼女との婚約に嫉妬して、こっちから仕掛けたようなものだ。そんな事、彼女が知ったらどう思うだろう。けれど、ここまで話したらもう誤魔化しようがない。

「結局、二人共こってり反省文書かされてさ。酷い目にあった」
「…そう、だったの。赤城さんの、親友って…」
「あぁ、佐伯くんだよ」
「佐伯さんは…?大丈夫だった?」
「あぁ…たぶんね。同じくらいだと思うよ。どっちも喧嘩慣れしてないから」

強張った声で尋ねる彼女に、やっぱりそうかと、苦しくなる気持ちを押し殺しながら、一雪は努めて明るく答えた。…それはそうだ。この場合、佐伯を心配する彼女は正しい。

「…ごめん」
「…え?」

固い表情で自分を見つめるあかりに、一雪は頭を下げた。殴り合いの喧嘩をするだなんて、乱暴な男だと思われただろうかと、おかしな不安が胸に渦巻く。
でも、そうせずにはいられなかったんだ。だってあいつは、涼しい顔して、僕から君を奪っていくんだから。僕が君を好きなんだって、知っていながら黙って、遠い手の届かない所へ連れて行ってしまうんだから。
そう、言ってしまおうか。…綺麗な、良い印象だなんて、そんなの、本当は。
だが、顔を上げてあかりの顔を見た瞬間、その思いは一旦一雪の中で保留となった。彼女はどういうわけか、ひどく戸惑った顔をしていた。…戸惑うというよりも、何か、言いにくそうな顔を。

「…赤城さんは、勘違いしてるわ」
「…勘違い?」
「佐伯さんと喧嘩をしたからって、私に謝る筋合いはないもの」
「え……」

その言葉の意味に、一雪は呆然となる。そんなはずはない、と思う。…ここ最近、何度こうして呆然とさせられただろう。

「でも、君は…」

言い掛けて、一雪は口を噤んだ。…まさか兄が調べ回ったお陰で、彼女と佐伯の話を聞いたなどと言えるはずがない。

(…どういう事なんだ)

兄が掴んだ情報は何の信憑性もないただの噂話だったとでもいうのか。…いや、違う。そんな不確かな情報を頭ごなしに信じる程、兄は馬鹿ではないし、そんな情報しか掴めない程無能者でもない。
けれど、それなら彼女の言っている事は何だ。…当の本人が、婚約の事実を否定するのは何故だ。
あかりは、一雪の動揺には気付かなかった。それどころか悲しげに目を伏せ、心に溜まっていたものを吐きだすかのように話し始める。

「私…、私は、もう決めていたの。だって、断る理由なんてなかったし…それに、佐伯さんなら大丈夫、って思ったから。ずっと、一緒にいたいって思えたから。…けれど、あの人はそうじゃなかった」

微かに涙が交じる声での告白は、一雪にとっても耳を塞ぎたくなるような内容だったが、今はそれどころではない。

「佐伯さんは…私のこと、迷惑だって…。家でも、勝己が出て行くだなんて急に言い出すし…もう、どうしようもなくて。私が何を言っても、わがままみたいになっちゃって…」

そうして話せば楽になれるとでも思っているのか、相槌すら打てないでいる一雪には気付かないまま、話し続けている。きっと、話したかったのだろう。彼女がどこか辛そうな顔をしていたのはそういう訳だったのだ。
一雪は、ただただ黙って彼女を見ていた。見ながら、頭の中では今までの情報全部を駆使して、必死に考えていた。…この先、どうするべきか。方法と、可能性。
考えをまとめていくうちに、喉がからからに乾いていくのを感じた。背筋から震えが走る。…もしかしたら、自分はとんでもない事をしようとしているんじゃないか。

「…それで、家にも、何となく帰りたくなくて、ここに来てしまって…。そしたら、赤城さんに会って…誰かに聞いてほしくて、つい」

気にしてないよ。誰だって、そういう時はあるよ。むしろ、僕は君の話を聞けて嬉しかった。
そう言って、終わらせたらおしまいだ。でも、そうするべきだ。そうやって終わらせて、別れるつもりだった。

「…ごめんなさい。でも、ありがとう。聞いてもらえて、嬉しかった」

余程の事がないかぎり、事態がひっくり返ることはない。
一雪にだって、無下に出来ないものくらいある。だけど今この瞬間、どちらを選ぶのだと言われれば、迷いはない。

「…ねぇ、僕の話も、少し聞いてもらってかまわないかな」

もしも、神が存在するのならば。この出会いが単なる偶然でないのなら。
これは皮肉でも、慰めでもない。





一雪にとっては最後の機会だ。…彼女を手に入れる為の。











水面下



赤城夫人は、機嫌が良かった。

つい先日、息子たちが喧嘩をした時にはどうしようかと気を揉んだ。無論、夫人に夫や長男に意見することなど出来ない。そのような事が出来る立場ではないのだ。
それでも、やはり子供はかわいいものだし、その子供の初めての恋だというのなら、やはり出来れば良い形で成就してほしいと願うのが母親だ。
しかしながら、家の事を考えている長男の気持ちもわかるので、どちら側にも立つ事は出来ない。ただ黙って見ていることしか出来ないのは、それは歯がゆかったし、何より次男――一雪の荒れ方と言ったらなかった。賢い子だから物に当たったりしなかったけれど、何か常に苛立ちを抱えていたし、おまけに新学期が始まってから程なくして、派手な喧嘩をした。…しかも、相手はあの佐伯家の御子息とだ。
大した事にはならなかったが、その時も夫と長男から随分責められ、一雪は一言も返さず黙ったまま部屋に籠ってしまった。好きな女の子を無理やり諦めたんだから、仕方がないわ、と思ったが、やはり喧嘩は良くない。(だって、殴るだなんてどんな事情があっても暴力なのだから)けれど、上手く諭さなければ一雪は皮肉に話をかわし、誤魔化されてしまうだろう。何と言って言い聞かせればいいかしら、と頭を悩ませているところへ、驚いた事に、一雪の方から頭を下げてきたのだ。

「僕も、いい加減大人にならないといけないと思って。…反省しています」

夫人にしてみれば、少々拍子抜けの結果だった。何故ならああやってすぐに折れるのは実は長男の方であり(彼の場合は素直に謝るというよりも、場を読んで丸く収める為、と言えるが)、次男は自分が間違っていないと言えば、頑として譲らないところがあるからだ。もちろん、そうかと思えば「やっぱり僕が悪かった」なんて、すんなり謝る時もあるのだけど、今回はそうはならないだろうと思っていたから、余計に驚いた。
けれども、本人の言うとおり、子供はいつまでも子供ではないのかもしれない。それは少し淋しいけれど、でも、喜ぶべき事なのねと、夫人は花瓶の花を生けながらしみじみと溜息を零した。

(もしかしたら、ちょっと大変な事になるかしらと思ったのだけれど)

どうやら杞憂だったらしい。きっと辛いだろうに、あの子はそれをちゃんと受けとめることが出来たのだわ。そう思うと胸が熱くなるような想いすら感じた。

(ユキちゃんには、また別にかわいいお嬢さんを探してあげないとね)

あぁ、でもその前にたいちゃんだわ。あの子ったら、ユキちゃんよりも興味がなくて、お写真だって沢山頂いているのにちっとも見て下さらないんだもの。

「…あぁ、母さん、いた」
「あらユキちゃん」

一雪の声に答えながらも、花瓶から目を逸らせない。中々、花の位置が思うように定まらないのだ。

「あのさ、ちょっと署名が欲しいんだ」
「なぁに?どうして?」
「学校で提出しなきゃならない書類があるんだよ。それで必要なんだけど」
「判子ではダメなの?」
「ダメだよ。ちゃんと親の名前を書いてもらわないと」
「えぇっと…、ちょっと待ってくれる?」

学校に提出する書類というのは、中々馬鹿に出来たものではない。やれ保護者の署名だの、ハンコだのと、逐一提出しなければいけないのだ。
…それにしても、わざわざこんな忙しい時に言ってくるなんて珍しい。余程急ぎなのだろうか。

「…うーん、だめだわ。いまいちしっくり来ないわねぇ…」
「…あのさ、とりあえず名前書いてもらえるかな?…別に、中身は大した事じゃないんだから」
「そうなの?それなら…」

確かに、色々言ってくる割には大した内容のものはない。給食費がどうの、修学旅行の積み立てがどうの、大体はそんな話だ。大地の時もそうだった。
「此処に」と指示されたところに、一雪が持ってきた万年筆で署名する。文書をちらりと見たが、やはり一雪の言うとおり大した内容ではないようだった。

「…ありがとう」
「いいえ、どうしたしまして」
「あ、その花さ、もうちょっと右寄りの方がいいよ」
「そう?…うーん、どうかしら。…ねぇ?」





ふと振り返ると、一雪の姿はもうない。言いたい事だけ言って部屋に引っ込んだらしい。こういう時、娘なら二人で色々出来るのかしら、と、ちらりと思う。





志波勝己は、何とも言えない座りの悪い気持ちを抱えていた。

先日、家を出ると話したときから、あかりとは相変わらず冷戦状態が続いている。が、問題はそれではない。それはもう、今更どうこう言ってどうなるものでもない。
そうではなく、ここ最近のあかりの様子がおかしい。どうにも落ち着かない、というか、挙動不審な気がする。両親の前では努めて明るく振舞っているが、一人になると急に思いつめた表情をしたり。やはり、佐伯瑛の事だろうか、と思うが、本人にどうなのかと聞けるような雰囲気でもない。
更に言えば、それについては彼女自ら「もういいの」と家族に宣言した。

「本当はまだ辛くなる時もあるけれど、でも、そんな事ばかり言ってられないもの。だから、心配しないで」

もう大丈夫だから、と言われるよりは信憑性がある言葉だ。だからこそ、家族の誰も、その言葉を疑ったりはしなかった。
疑うはずはない。あかりが嘘を付けない性格なのは家族中皆が知るところだし、大体、何故この言葉を勘ぐる必要がある。もしそれが嘘だったとして、何故嘘をつく必要がある。
だが、何故か勝己はそれをありのまま信じることが出来ずにいた。…自分がこの世で一番信頼している女の子の言葉だというのに。

そう、疑っている。心配もある、だがそれよりも「嘘をつかれている」という気がしてならない。でも、根拠もないのに何故そんな風に思ってしまうのか、自分でもわからない。

(…嘘か)

それなら、俺だってついている。勝己は手にしていた物を小箱に納めて、蓋をした。容易には開けられないようにかちりと錠までかけて、棚の隅へと隠すように直す。
自分の気持ちはもちろんだが、勝己はもう一つ、あかりに秘密がある。…恐らく彼女は気付いていないのだ。そして、彼も。

「…馬鹿だな、俺は」

自分も、気付いたのは最近の事だ。幼いころの淡い思い出は、しかし意外なところで自分を優位へ押しやる材料となった。…くだらない優越感ではあるが。
言いだせないでいるのは、やはり心のどこかで諦めきれない部分があるからに違いなかった。話せば、あかりの気持ちはより強いものになるだろう。…そして、自分からは離れて行く、確実に。
その事実を、未だに受け入れる覚悟がないのだ、自分は。

「…勝己、起きてる?」
「…あぁ」

きちんとノックされた後に、扉の向こうから声が聞こえる。…いつも、勝手に入ってくるくせに。

「どうした?」
「別に…。眠れないから、まだ起きてるかなぁと思って」

入ってもいい?と訊くあかりに、勝己はダメだと言えなかった。…どこか後ろめたい気持ちがそうさせたのかもしれない。

(…何だ?)

部屋に入ってきたあかりは、いつも通り、自分の寝台に腰かける。だが、いつものようにはしゃいだりはしない。だからと言って、不機嫌にむくれているわけでもない。ただじっと、床を見つめているだけだった。無音の部屋は、心臓の鼓動の音が聞こえるかもしれないと思える程、静かだった。
やっぱり、何かおかしい。そう思い、口を開きかけたが、先に声を出したのはあかりの方だった。

「家を出るって…どうして思ったの?」
「…これ以上、世話になれないからな」

この話は何度もした。それこそ、泣きながら納得いかないと向かってくるあかりに、何度も。

「…やっぱり、それしか言わないんだ」

あかりは、ちらりと勝己の方を見てから、小さく溜息を零す。何か、諦めるように。
その仕草に、何故か心を掴まれたような気持ちになる。…不安が、ひたひたと足元からせり上がってくる気がした。

「あか…」
「なら、もう一つ教えて」

問おうとする自分の声を、あかりが遮る。…今のはわざとだ。こっちを見ていたのだから。

「どんな気持ち?」
「……は?」
「家を出るって…、そう決めた時、どんな気持ちだった?」
「それは…上手く、説明できない」

これは、正直な気持ちだった。
もちろん、自立したいという気持ちはあった。自分は元々、この家に養ってもらえる人間ではない。少しでも早く自立して、恩返しとまではいかなくとも、負担にならないようになりたかった。
けれど、実際離れたかったのかと言われれば、それは違う。…出来るものなら、あかりの傍にいたかった。そうして居続ければ、結果、あかりはどこにも離れないのではないかと、馬鹿な事を考えたりもした。
自分とあかりの想いは違う。自分の彼女に対する感情は『家族』に対するそれではない。もう、そうではなくなってしまった。だから、ここにはいられないとも思った。だが、『家族』であることを捨てる事も出来なかった。そうして、ここまで来てしまった。

「……そう」

そう頷いただけで、あかりは寝台から立ち上がった。それから「…私には、よくわからない」とぽつりと零した。

「え?」
「…いつか、そんな日が来たらって考えてたんだけど。…やっぱりよくわからないなぁって」

あかりは笑ってそう言い、部屋に戻って行った。おやすみなさい、と言い残して。
…その時、どうして何も聞き返さなかったのだろうと、後に後悔する事になるのだが、その時の勝己には気付く事ができるはずもない。

いつか、そんな日が。

それは、意外にも早く訪れた。





何故なら数日後、あかりは家を出て行ってしまったのだから。











僕の海の名前




















(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine