夢と現実



昔から海が好きだった。
広くて青い海。それは、自由で幸福なあの頃と直結する場所だから。

ずっと昔、君と出会った場所。幼い口約束。それは朧げだけれど、この心を動かされたのを、今でもはっきりと憶えてる。
あれ以来、一度も会う事はない。毎年、海に行くたびにあの子を探した。頼りない後姿、えがお。


―――――キミをむかえにいくよ、ぜったい。


あれから、一体何年経ってしまったんだろう。


(……また、あの夢か)


まだ夜が明けきらない薄暗闇の中、瑛は眉間を押さえて起き上がる。
頭が痛い。この夢は見たあとは必ずこうだ。鈍い痛みが更に憂鬱にさせる。
窓を開けると、ひやりと乾いた風が入ってきて、幾分、気が晴れた。今日はきっときれいに晴れるだろう。


(また見ちゃったな、あの夢……)


自分でも、馬鹿げた話であることはわかっている。あんな子供の頃の話、どうして実現出来るだろう。
この夢の話は誰にもした事が無い。話したところで笑われるのがオチだろうし、話してしまったら、何もかもが泡みたいに消えて、無くなってしまう気がしたからだ。
悪夢のあとのように体は疲れるのに、それでも落ち着いてくればどこか優しい気持ちになれた。
ただこの瞬間だけが、生きていると実感できる気すらした。
たとえ、子供じみた夢物語だったとしてもだ。


(……それでも)


それでも、まだどこかで諦めきれない自分がいる。



時は、日本が世界の文化を受け入れ始めた時代。
過ぎ去った昔を思い出す暇もなく、世界に追いつこうとする活発な動きはここ羽ばたき市でもうかがえた。
けれども、世の中がどんなに豊かに華やかになったとしても、その内情はさほど変わらない。
いつの時代でも、つまらぬ地位や名誉のために、下らない謀り事は繰り返される。

どちらにしても、自分にとっては絶望的に窮屈な世界であるのには違いなかった。







「……婚約?」

最近、何度も聞かされている単語を、けれども瑛は初めて聞いたかのような大仰な態度で聞き返した。
まったく、今日は朝からついていない。

「貴方も、少しは真面目に話をお聞きなさいな」

佐伯家は、数ある侯爵家の中でも名門である。故に、「それ相応の家柄の娘との結婚」というのが、母の最近の使命であり、口癖でもあった。
まったく、バカバカしい話だ。そんな会った事もない女と、どうして結婚なんて出来るだろう。
そもそも、結婚になどまだ興味はないし、温室育ちのお嬢様なんて興味はない。
しかし、そんなバカバカしい世界を信じて疑わず、幸福に生きてきたのが自分の母親であり、そして彼女から生まれた自分でもある。
それは良いとか悪いとか、そういう問題じゃない。母はそういった世界しか知らないし、そこで生きていくのも一つの生き方で幸せだと瑛は理解しているつもりだ。
ただ、自分はそんな生き方はしたくない。これ以上付き合わされるのは御免こうむりたい。
大体、昔から付き合いであの種の女に会った事はあるけれど、ほとんどが鼻持ちならない奴ばかりだった。冗談じゃない。
けれども、当然ながら、こちらのそんな事情は彼女には通じない。もうそれは本当に、異国人並みにさっぱり通じないのだった。

「今回ばかりは、覚悟を決めていただきますからね」
「けれど、母さん。僕はまだ学生の身で、結婚なんて考えられませんよ」
「ええ、そう仰ると思っていました。だから、婚約だと言っているでしょう」
「…………お断りします」
「いい加減になさいな、貴方は佐伯家の嫡男ですよ?いずれ爵位も継がなければならないというのに」
「それは俺個人の問題だろ?別に結婚なんて関係ないじゃないか」
「関係無いわけがないでしょう。それとも、他に意中の方がいらっしゃるとでも?」
「それはっ……」

言いかけた言葉を、けれども最後まで言う事は出来なかった。言えるわけがない。
昔ただ一度、海で出会った女の子が気になっています、だなんて。

「とにかく、今度そのお嬢さんを家へお招きしますから。わかったわね?」

母の厳然たる命は、広い居間に静かに響いた。





志波勝己



今日は久々の休日ではあったが、する事がない、と志波勝己は森林公園の芝生の上に腰を下ろした。
部屋の掃除もしたし、馬の世話もあとは帰って飼葉をやるだけだ。あとは……。

後ろから「みゃあぅ」と小さな鳴き声が聞こえる。振り返れば、うす茶色の毛をした子猫がこちらに寄ってきた。

「……おまえ、また来たのか」

そう言って抱き上げてやれば、暴れる様子もなく、もう一度「みゃあ」と鳴いた。ふわふわとした柔らかな感触は、つい顔を緩ませる。

「と、言う事はあの人も来てるのか」
「その通り。ピンポンです」

暢気そうな声に振り向くと、「や、また会いましたねえ」と一人の男が軽く手を上げて会釈する。志波は抱えていた猫を下ろして立ち上がって頭を下げた。
彼の名は若王子貴文という。詳しくは聞かないが、どこかの学校で教師をしているらしい。自分の学校では見た事がなかった。
初めて出会ったのも、今のように猫を追いかけて来たところに会ったのだ。
家にも猫がいるらしいのだが、猫のことをよく知っているという風でもなく、いつもこうして森林公園で猫を追いかけている。
つくづく不思議な人だとは思うが、彼はやはり教師であり目上の人間なので志波は礼儀を忘れる事はなかった。

「この子は、よっぽど志波くんが好きなんですねぇ、いつも君を探してる」
「そうなんですか?」
「どこかのお嬢さんにそっくりですね」

そう言って、若王子はにこりと笑う。彼の指す「お嬢さん」とは彼女一人しかおらず、志波は苦笑して返すしかなかった。
この人は、一体どこからどこまでを知っているのだろう。

「……先生は、何でもご存じですね」
「そうですねぇ、先生ですから。割と何でも知っていますよ?」

下ろした子猫が足もとに擦り寄ってくる。もう一度抱き上げてやりながら、彼女の事を考える。
まだ何も知らない子どもだった頃、確かに彼女はこの子猫のようだった。いつも自分を追いかけてきて付いて回った。

小さくて、頼りない、守ってあげたい女の子。

そんな風に考えるのに、何のためらいも疑問もなかった。自分はそうして生きていくのだと思っていた。
……けれど、それも今となっては単なる子供の思い込みに過ぎなかった事を自分はよく知っている。

「………最近では逃げられてばかりです。あいつ…いや、あの人は、自分の立場をわかっていない」
「ははぁ、なるほど。だからさっき会った時も、君には黙っていてと言ってたんですねぇ」
「………あいつは、また勝手に外に」
「やや、うっかり口が滑りました」

志波はため息をついて、子猫を若王子に渡した。いつもの事だ。またどうせ家の誰にも告げずに遊びに出ているのだろう。
呆れると同時に、妙な気分だった。関われる事が、嬉しいような、安心できるような。

「……行きます。一言、言っておかないと」
「休日返上で、大変ですね。頑張って」

ひらひらと手を振る若王子に、志波は一礼して、笑った。

「それも、あとしばらくの事です」





海野家は、子爵の家柄ではあったが、その生活ぶりは慎ましいものだった。
はっきり言って、皆が勝手に思い描くような華美な生活ではない。元々が慈善事業に力を入れていた為、それに資産をつぎ込んだ結果ともいえる。
しかし、そんな家風であったからこそ幼い自分を引き取ってここまで育ててくれたのだと志波は感謝していた。

早くに両親を亡くした自分を、親戚よりも早く引き取ってくれたのが海野家の夫人――つまりは、海野あかりの母親だった。
知らなかったが、彼女は自分の母親と仲が良かったらしい。彼女はふんわりと笑って「今日からは私たちがあなたの家族よ」と言ってくれた。
そして、その言葉通り、志波は彼女達の実の娘と同じように育てられ、学校にも行かせてもらった。

あかりは同い年だが、自分にとっては妹のようなものだった。自分に姉や妹はいなかったから、不思議だと思いつつも嬉しかった。
体も小さくて、動きまわるくせに鈍くさくて。いつ怪我をするんじゃないかとひやひやさせられたものだ。それは、今も変わらないが。

(……そろそろか)

壁に掛かっている時計をちらりと見て、志波は部屋を出る。馬屋の前を通り抜けて裏の門の前に立った。戸口の閂(かんぬき)をそっと外しておく。
…この間はこの壁を登って乗り越えようとしてきたものだから本当に肝が冷えた。あんな所から落ちたら冗談では済まない。

そしてしばらく待てば、そおっと戸口が開かれた。「あれ?今日は開いてる」なんて、暢気な声とともに。

「それにしても、鍵が掛かってないなんていくら何でも不用心じゃないかな?うちも暢気だよねぇ」
「…暢気なのは貴女でしょう、あかりお嬢様」
「………ええっと。それじゃあ、私はこれで…」
「これでって、どこに行かれるんです。貴女の帰るべき家はここだ」

無事帰ってきた事に安堵しながらも、せいぜい不機嫌そうな顔をしてやれば、あかりは眉をハの字にして志波を見上げた。

「わ、わかってるけど……。勝己、こんな所で何してるの?」
「貴女のお迎えに」
「……お父様にはバレちゃった?」

バレるとかバレないとか、そういう問題ではないと思いつつも志波は「いいえ」と答える。途端に、彼女の顔がぱあっと明るくなった。

……この顔に、弱いんだ。昔から。

「よかったー、今度バレたらおやつ抜きくらいじゃ済まないものね」
「……よくありません。貴女はもう少し自分の立場を考えなければ」

途端に彼女はぷうっと頬を膨らませる。何ですかと目で問えば、「その話し方」とぽつりと零された。

「それ、止めてって言ったでしょ。何だか他人みたい」
「そういう訳にはいきません。貴女は海野家のお嬢様で俺はそこで世話になっている一介の学生ですから」
「前はそんな話し方しなかったもん。それに勝己は家族でしょ?家族なのにそんな他人行儀なの、おかしいと思う」
「………それは、昔の話です」

ため息と共にそう言えば、彼女はますます不機嫌な顔をした。

「じゃあもう勝己とは口きかない」
「どうぞ、ご自由に」
「う……っ。ねぇ、お願い。もう黙って出掛けたりしないし、勝己の分のおやつも勝手に食べたりしないから」
「……あれ、やっぱり貴女だったんですか」
「せめて、二人の時は普通に話してよ。それもダメなの?」
「…………………」

――二人だから、こんな風に話すのに。
けれど、こんな風に言われてはどうしようもない。結局のところ、折れるのはいつも自分の方なのだから。

「………早く家に戻るぞ。風邪ひいちまう」
「…えへへ。うん!もどろ!」

ごく自然に繋がれた手に、けれど、不自然なほど反応する心臓の音を、志波は必死で気付かないフリをした。


つい先日、彼女に縁談の話がきた。相手は佐伯家の一人息子らしい。この自分ですら名前を知る、そして羽ばたき市では名を知らぬ者はない、家柄も資産も申し分ない名家だ。
いずれはある話だと思っていた。良い話だと思う。何と言っても相手は侯爵だし、資産家だ。海野家にとっては願ったり叶ったりの縁談だろう。


だから、これは喜ぶべき話だ。「家族」としては。





海野あかり



「全く、何ていう事……あれほど早く帰って来て下さいと申しましたのに…」

額に手を当て、憂い顔を見せる女性は、けれども、そうして眉を顰めていても美しい人だった。
初めまして、と挨拶をした時はとっても優しく笑ってくださったのに、今ではその影もない。
それにしても、自分はどうすれば良いのだろうか。あかりは困ってしまって視線を彷徨わせる。

「ええっと、招かれた私が言うのも失礼かと思いますけど…一度お座りになったらいかがですか?」
「あら、まぁごめんなさい!私としたことが、お客様を立ちっぱなしだなんて失礼な事…ごめんなさい。どうぞ、お掛けになって」

勧められたソファは深緑色のビロウドが張ってある豪奢なもので、自分の家にあるようなものとは質も値段も全然違う事はさすがのあかりにもわかった。
窓の外には、丁寧に手入れされた庭がどこまでも広がる。ああ、ここは本当に侯爵さまのお家なんだ、と、改めて感じた。

それにしても、ここに自分が嫁ぐ(かもしれない)なんて、ますます現実味の無い話だ。

「本来ならば、貴女のご両親もお招きするのが礼儀でしょうけれど……そういう形式ばった事があの子は好きでないものですから」
「いいえ、お気になさらないで下さい。母が、奥様によろしくと申しておりました」
「良かった…。あの方ならそう仰ってくれると思っていました」

ふわりと微笑む夫人に笑顔を返しながら、と言う事は、うちのお母さんはこの人ともお友達なのかしらと思う。

(勝己のお母様もお友達だったと言うし……お友達が多いのね)

「もう既にお察しでしょうけど…実は、息子の瑛が、まだ戻らなくて。折角来ていただいたのに…」
「あ…いいえ。それも、気にしてませんから」
「もし良かったら庭の方でもご覧になる?ここに私といても気詰まりでしょうし」

そんな事は決してないのだけれど、それでも庭園の方には興味があったので、彼女の言葉に甘えて外に出た。
外に出て、あかりは大きく一つ深呼吸する。思ったより、自分は緊張していたらしい。
さくさくと歩いてみると、芝生の感触が気持ち良かった。

(私、本当にここにお嫁に来るのかな)
(こんな大きなお家、迷わず歩くの、大変そう…)
(あの人…何時頃戻ってくるんだろう。私、何時帰れるのかな)

はぁっと、もう一度ため息をつく。やめよう、こんな事考えるなんて、私らしくない。
随分歩いてきたけれど、庭はまだまだ広がっている。これじゃあ庭というより、ちょっとした森みたいだ。
その時、ガサリ、と前の茂みが動く。一瞬、びくりと固まったが、出てきた正体に、あかりは胸をなで下ろした。
黄緑色をした瞳の黒猫が、こっちを見ている。

「あなた、ここの子?それとも、どこか別のところから来たの?」

けれども、猫はあかりに怯えたのか、びくりと一つ身震いしてから横の木に飛び上がる。

「えっ、ダメだよ!そんな所上ったら降りれなくなっちゃう!!」

思わず駆け寄るものの、猫はますます高い所に上がっていく。こんな時、勝己がいれば助かるのに、と、すぐに考え付いた。
彼は昔から、動物に逃げられるという事が無く、むしろ寄ってくるのだ。思わず名前を呼びそうになって、慌てて口を噤んだ。
ここには、彼はいないのだ。

(そうよ……一人で何とかしなくちゃ)





(そろそろ、帰ってもいいころかな)

散々ぱらカフェで時間をつぶし、それでも正面からは入らず、裏口からこっそりと家に帰る。こんな泥棒みたいな真似と思ったが、今日は仕方がない。
これだけ約束の時間に遅れたのだから、相手も諦めて帰っただろう。とりあえず、今日のところは。
そんな事を考えながら庭をぶらぶらと歩いていると、不意に人の声が聞こえた気がした。
まさか、母親が待ち伏せていたのかと一瞬怯んだが、それらしい姿は見えない。

(………ま、まさか、ゆうれ……いやいや待て。そんな非現実的なもの…)

でも、確かにあれは人の声だった。何か、お願い、とか何とか……。

「……待って、動かないで。お願いだから」
「そうこんな感じの……て、えっ!マジでかっ!!」

辺りを見回すけれど、それらしい影はない。いよいよ幽霊か何かかと思いかけたその時、木の上に目が止まった。
見慣れない少女が、張りだした枝に掴まって懸命に手を伸ばしている。誰だ、新しい使用人か誰かだろうか。

(いや、今はそんな事言ってる場合じゃないよな)

「おい、そこのアンタ」
「……そうそうそのまま、じっとして、もうちょっと……っ」
「おい…聞けよ、おいってばっ!!」

苛立って大声を上げると、少女はびくっと反応してこちらを振り返った。やっぱり、見たことのない顔だ。

「アンタ、人ん家の庭で一体何やってんだ?そんな所登って……危ないだろ!」
「え、ちょ、ちょっと、今はそれどころじゃなくて、あ、でも猫が…」
「猫?」
「こんな所まで登っちゃって……それで…っ、わ、わっ」
「ちょ、おい!あぶな……!!」

考えてる暇なんてなかった。枝の上で、ぐらりと揺れる彼女を見た時から、勝手に体が走りだしていた。
どさり、と体に重みが乗るのと同時に思わず目をつぶる。自分の体もそのままひっくり返って、背中には強い衝撃が走った。

「う……いたた。あれ、猫は…?」
「ちょ、どけよ、重い……」
「…あ!ごめんなさい!!」

ゆっくりと目をあけて広がった視界の端に、さっきの黒猫が優雅に地上に飛び降りるのが見えた。
なんだよ、こいつが登る必要なかったじゃんか。

ごめんなさい!とオロオロと取り乱す少女が、心配そうに自分を覗き込んでいる。全く、今日はとんだ厄日だ。





―――――そして、それが、彼女との出会いだった。





「……いっ…た……っ」
「我慢しろ。……ったく、何て女だ。あんな木の上に登るなんて」
「だって、猫が。行儀が悪いのは、わかってたけど」
「俺が言ってるのはそんな事じゃないんだ」

消毒し終わった箇所に、佐伯瑛は器用にガーゼを当ててするすると包帯を巻いていく。

「怪我して、消えない傷でも出来たらどうするんだよ。アンタは嫁入り前のお嬢さんだっていうのに」

あれから―――木の上から落ちてしまった時からは、ちょっとした騒ぎだった。
なかなか戻らない自分を探していた佐伯家の使用人があかりが瑛の上に乗っかっているのを目撃し、青ざめて卒倒しかけるのを何とか説得したり。
瑛の母親はすり傷を作ったあかりを見て、また倒れそうになるのを介抱したり。
「お医者を」と言われるのを必死に(そして出来る限り丁寧に)お断りしたり。
このくらいの傷はあかりにとっては何でもないものだし、そもそも自業自得で出来たものだから誰にも文句など言えるわけもなかったのだが。
それでも、周りの余りの狼狽と心配ぶりに、さすがに身勝手だったと反省した。

右往左往する周囲に、「僕が手当てをするから」と瑛が言ってくれて、やっと静かになったのだ。

(それにしても)

それにしても、まさかこの人が、佐伯瑛だったとは。
最初、声を掛けられた(というか、怒鳴られたのだが)時は、驚いた。「アンタ」呼ばわりされたのは、憶えている中でも初めてだ。
あらためて見ると、綺麗な顔をした人だなと思うけれど、それ以上に口が悪い。けれど、さっき使用人の人達にはとても丁寧で感じが良かったのに、この変わりようは何なのだろう。
あかりの視線に気付いたのか、彼はふと視線を上げた。

「……なんだよ、ジロジロと。俺の顔に何か付いてるか?」
「あっ、ううん、ごめんなさい。ただ、貴方って変わった人だなぁと思って」
「はぁ?それを言うならアンタの方だろ。木登りするお嬢さんなんて初めて見た」
「だからそれは猫が」
「あー、そうだった。もういい、その話は。………それに、話さなきゃいけないのはそんな事じゃないんだ」

かたん、と、救急箱の蓋を閉じて、彼は小さく息をついた。空はもう、綺麗な茜色だ。
夕陽に照らされる彼はとても綺麗だった。何か考えるような、そして少し哀しそうな顔が余計にそう思わせるのかもしれない。

彼は、真っ直ぐにあかりに向き直る。さっきまでとは違う真面目な表情で、思わず瞬きするのも忘れて見入ってしまう。

「悪いけど、俺はアンタとは結婚する気はない……海野あかりさん」
「……え?」
「アンタは俺と結婚するつもりで…いや、その気がなくても家に言われてここに来たんだろうけど、俺にそのつもりはないって事だよ」





「結婚する気はない」と告げられた海野あかりは、呆けた顔をしていた。それはそうだろう。彼女はそのつもりだったろうし、母だってそのつもりで彼女を今日招いたのだ。

もっといかにも高慢な「お嬢様」で、そのくせ媚びるような女だったら、もっと手酷く追っ払ってやろうと考えていた。
今まで見てきた女は不幸にもそういった類が多かったし、今日会う「海野あかり」もそうだろうと高を括っていた。
だから、時間だって思いきり遅刻したのだし、そうすれば大概は泣いたり怒ったりして帰るだろうと思っていた。

けれど、実際、目にしたのは予想外の人物だった。
猫の為とはいえ、木に登って、あげく自分を巻き込んで落ちてきた事に関しては理解も出来ないし辟易するが、けれど、彼女は何の打算も策もなく純粋に猫を助けるためだったのだ。
その後も、誰に当たるでもなかった。怪我をさせたと顔色を変える周囲に「心配をかけてごめんなさい」と謝った。
それは、いかにも凡庸な態度だったけれど、彼女が自分の思っていたような人間ではない事だけはわかった。

彼女は、良くも悪くも何も考えてはいないのだ。きっと親に言われるまま、ここに来たに違いない。
こんな「善良」を絵にかいたような、しかも女の子にこんな事をいうのは正直あまり良い気分はしなかった。
けれども、彼女だからこそ、適当に誤魔化す気分にもなれなかった。他人に対してそういう気持ちになったのは久しぶりだ。
もしかしたら泣かれるかもしれない。そう思って身構えていたのだが。

「……よかった」
「…え?」
「あ、ごめんなさい!その、貴方と結婚出来ないのが良かったってことじゃなくて!」

わたわたと手を振るあかりは、けれどもどこかほっとしたような笑顔さえ見せた。

「だって、何だか結婚と言われてもよくわからないし…、いきなり結婚してしまって、こんな広いお家に住むようになったら大変だな〜って…」
「………はぁ?」
「たぶん、うちの3倍ほどあると思うんだけど。お庭なんて比べ物にならないし……って、どうしたの?」
「いや…、やっぱりお前って変なヤツだな。なんか、心配した俺が損した」
「変なのはそっちでしょ!すごく綺麗な顔なのに、すごく口が悪いし」
「顔が綺麗なのは生まれつきだ、仕方無い」
「何それ、自分でそんな事言うなんてやっぱり変!」
「う、うるさい!お前のが変だ。変な上にぼんやりで鈍くさいし」

なっ、何ようっと、顔を真っ赤にして膨れる彼女を見て、瑛は可笑しさが堪えられずに笑った。
本当に、こんな気分は久しぶりだ。

「…でも、それなら貴方とはもう会う事がないんだよね」
「まぁ、そうだな。お互い自由の身って事だろ?」
「そっか、そうだよね。少し残念だけど。せっかく仲良くなれたのに」
「……………お前、ほんっとうに変なヤツだな」

うまく言葉が出てこなくて、瑛は何とかそんな憎まれ口だけを口にする。彼女はそれすら受け流して、笑った。

「佐伯さんと結婚する人は大変だね。王子様みたいなのに口を開いたらひどいもの」
「うるさい。ほっとけ」
「でも、本当は優しいんだよね」
「な…なんだよ、急に!」
「これ、手当て、ありがとう。佐伯さんが結婚したいって思える人に会えるの、お祈りしてるね」
「別にいらないけど…。まぁ、アンタもな。つまらない男に騙されないよう、祈っといてやる」

口調はぞんざいになってしまったが、瑛は心からの気持ちだった。今日一度の出会いだったけれど、彼女には幸せになってほしいと思う。
自分のような人間ではなくて、彼女の事を一番に考える男に出会えるといい。


(今日、会ったのが、アンタで良かった)


ほんの少しだけれど、自分も幸せになれそうな気がした。根拠は全くないけれど。
やっぱ変なヤツ、そう思って、瑛はもう一度笑った。












僕の海の名前






























知らなくてもいいパラレル舞台裏(要反転)〜
佐伯瑛― 名門侯爵家の佐伯家嫡男。婚約者の話があちこちからあがってウンザリ。本人は専ら最近街中に出来たカフェにご執心。
     昔、海で会った女の子の事が忘れられない。
     海野あかりとの婚約が無理やり決まり、彼女が家に来るも、会う気はなく結婚するつもりも勿論ない。けれども気になる存在ではあるらしい。
     一流商科高等学校に在学。


  海野あかり― 海野家の一人娘。彼女の家は子爵の爵位を持つものの、その暮らしぶりは決して裕福ではない。女学校を出ると佐伯家へ嫁ぐ事が決まる。
       本人は婚約については何も言わないが、というか、結婚そのものについて実感がないといった感じ。志波勝己は幼馴染。
       ちょくちょくこっそり家を抜け出しては勝己に見つかり呆れられる毎日。
       羽ヶ崎学園女子高等学校在学。 



ちなみに、爵位の方は、国によって色々設定も意味合いも違うのですが、主に日本のをベースに考えております。
一応、順に並べていくと、公爵→侯爵→伯爵→子爵→男爵、となります。この順で、家数も増えてくるようです。

(C)Abundant Shine、photo by Abundant Shine