【愛を乞うオイゼビウス】



音楽とは、設楽にとってはつまり自己であり、自分だけのものでありえた。
ピアノの前には、それを弾く自分しかいない。
自分が心に思う音を、そのまま指に乗せて音にする。それは単純で容易い行為だった。そして生み出されたものが、結果として「芸術」として成り立っているだけだ。過不足のない、既に完成されたもの。

迷ったことなどない。自分の音楽に疑問を持つことは、言い換えれば自分自身に疑問を投げかけることと同義だ。それはプライドが許さなかった。周りから否定されたこともない。元より、周囲の評価など知った事ではなかったが。
ただ、音楽は自分だけのものだと、それだけは強く思っていた。聴衆のために、などという考えは毛頭ない。ピアノに向き合えさえすれば、音楽はいつもそこに現れた。変わらずに、自分の傍に在り続ける。

つまり、圧倒的に孤独だった。



(…ちっ)

微かに、自分の納得いかない音が鼓膜に届く。まただ、と、設楽は心の中で舌打ちした。
はばたき学園の音楽室は、学校の中の設備でしかない割には、悪くない環境に整えられていた。防音設備はもちろんだが、何よりそのせいで失われがちな音響にも配慮がなされている。ピアノは少し古く、物足りない大きさではあるが、調律がきちんと施されており、それなりにきちんと応えてくれるピアノだ。
季節は、そろそろ夏が近い。閉め切っていると蒸してくるので、窓を開け放して弾いていた。窓を開けて弾くのは嫌いじゃない。外の世界のざわめきは、不思議とピアノの音を伸びやかにする。

更に付け加えれば、そうすることによって無意識に予感めいた期待を、実は抱いているのかもしれない。

ふと、鍵盤から一度手を離す。駄目だ、集中出来ていない。軽く頭を振って、気を取り直して再び弾き始める、今度はゆっくり、確認するように。

(13小節目…フォルテ、スタッカート…ここからはピアノ。メロディ途切れないように、左手は流れすぎない…)

何度かゆっくりと同じところを繰り返してみる。やはりしっくりこない。思った通りに弾いてはいる。…けれど、不満が残る。
これは設楽にとっては由々しき事態だったし、尚悪いことに、最近よくある事なのだった。ほんの少しのズレを修正して回っても、全体的な形はかえって歪んでしまうような危険すら感じる。ああでもないこうでもないと考えている間に、自分が以前どんな風に弾いていただろうかと呆然とすることもあった。あれほど迷いなく弾いていたはずなのに。
認めたくはないが、何かが変わり始めていることは明白だった。ただ、それが何かはわからない。

「あっ!やっぱり先輩だったんですね!」

ピアノの音だけが響いていた音楽室に、ガラガラとドアを開ける、まるで引き裂くように不躾な音が耳をつんざく。そして、それとほぼ同時に聞こえてきた、やはり無遠慮な声。
ピアノを弾く事を中断された事と、この後、下らない問答に付き合わされるであろうという苛立ちと、本当にほんの少し、「期待どおり」だと――窓を開けて弾いていれば、彼女ならここに来ると思った――高揚する気持ちと。ほんの一瞬の間に、さまざまな感情が体中を走り回って、軽く混乱する。
もちろん、そんな姿を、彼女に見せるはずはないが。

「何か用か」
「え?用っていうか…廊下を歩いていたらピアノの音が聴こえたから、先輩だと思って」

そう言って、彼女は暢気そうに笑う。

「用もなく来るなんて、相変わらず暇な奴だ」
「ダメですか?」
「…くだらない。時間の無駄だ」

駄目だ、とは言えなかった。
彼女は、設楽の態度に怯む事なく、ひょこひょことピアノと自分の傍に近寄ってくる。空気がふわりと動いて、彼女と自分との距離が縮まったのが気配でわかる。

「さっき弾いてたの、すごく難しそうな曲ですね。何の曲ですか?」
「言ったところでお前が知るはずもない作曲家の曲だ」
「えーっ!気になりますよ、教えてくださいっ」

威勢良く食い下がられたので、作曲家と曲名を言うと、案の定、彼女はきょとんとした顔をした。だから言っただろう、と言ってやると、きょとんとした顔が、困ったような笑い顔になる。
こういう態度をされて、腹が立たないのは彼女くらいのものだ。こうした態度を許容できるというのは、信じ難い「変化」なのだが、設楽自身は気が付かないでいる。

「気が済んだなら帰れ。俺は忙しい」
「でも、長い時間弾いてますよね。休憩しないんですか?」
「お前と話していても休憩にはならない」
「わー!ひどい!」
「あぁもう、うるさいな。…5分だ。それ以上はないからな」

これほど会話が続くのも、一体いつ頃からだろうか。出会った当初は、騒音生産機みたいな女だと苦々しく思ったものだが。
ずかずかと遠慮なく入り込んで、けれど何時の間にか当然のようにそこにいる。だが、言うまでもなく彼女は自分以外の他人なので、本当に当然そこに在る存在ではない、もちろん。

「私も少しなら弾けるんですよ、ピアノ」
「そりゃそうだろう。猫だってこの上を歩けば音が鳴るんだからな」
「そういう意味じゃなくって!もう、キビシイんだから先輩は…」

細い、頼りない指がぽろぽろと鍵盤を押していく。確かにそれは何かのメロディに聞こえたが、拙いものには違いなかった。お世辞にも上手いとは言えない。
だが、設楽は椅子から立ち上がった。

「それ、ちゃんと弾いてみろ」
「え?」

驚いたように彼女は自分を見る。恐らく、自分がピアノの前を譲ったからだろう。

「で、でも下手ですよ?」
「そんなのはわかっている。…下手でも何でも、聴いてやるって言ってるんだ」

椅子に座っても、彼女はしばらく逡巡していたが、そのうち決心が着いたらしく、自分の方に向かってにっこりと笑った。いつもの、何の含みもない笑顔で。

「じゃあ、先輩の為に一生懸命弾きますねっ」

その言葉に、返事はしなかった。否、出来なかった。どういうわけか、恐ろしいような気持ちになって。
彼女が怖いのではない。…あぁ、そうだ。さっきまでうまく弾けないと苛立っていたあの時の気持ちに似ている。

(…誰かの為に)

そんな風に思う日が、自分にもいつか来るだろうか。自分以外の誰かを想ってピアノを弾くだなんて、この俺が。

自分だけのものだった世界は、もう既にその姿を変えつつあるのかもしれない。

拙い、無邪気な音が溢れる音楽室で、そんな事をふと思った。












2010/06/10「ときメモGS3発売記念countdown20」企画サイト様に投稿。発売13日前だったのでその数字が入っています。
設楽先輩にも夢見ている。俺様ピアニストであるらしい、という時点で気にせざるをえない。
ちなみに設楽主はバンビのイメージだけはしっかり固まってます。こういう感じ。