僕を呼ぶ君の声





※デイジーの名前は伊織ちゃんと言います。







「………」
「………」

日没は近付いていた。今日は雲ひとつなく晴れ渡っていたはずなのに、今では質量の感じられる雲があちこちに出ている。
オレンジ色の光をたっぷり含んだ雲は不思議な色をしていた。
冬の空にある雲は、ため息で出来ているのだと小さい頃は思っていた。白く吐く息が空に昇って雲になるのだと。(そうすると夏の雲は説明がつかないのだけれど、子供の頃の思い込みなんてそんなものだと思う)

あれは、案外間違いでないかもしれない。伊織は空を見上げてため息をつく…もちろん心の中で、だけれども。
少なくとも、今日のこの雲が私のため息で出来ていたとしてもちっとも驚かないと、伊織は思った。

ふと、隣を歩いていた彼の歩みが緩く止まる。じっと立ち止まったりするものだから、あちこちの(つまり伊織以外の)女の子たちが見ているような気がして、伊織はその度に落ち着かない気持ちになる。彼は自身の事を「可もなく不可もない」外見だと思い込んでいるので、伊織としてはもう少し自覚を持ってほしいと思っているところだ。

「…ケーキだ」
「え。…あ、うん。そうだね。色々あるね」

とりあえずは会話が成立したことに、伊織は少しほっとする。ガラス越しにディスプレイされているケーキは大きさも形も色もたくさんあって、目移りしてしまう。

「食べたい?ケーキ」
「…うん。だって今日はお誕生日だもんね?」
「じゃあ買っていこう?僕のウチで食べればいいよ」
「あ、待って。赤城くん」

食べたい?と聞かれた声はいつものように優しかったから、伊織は嬉しくて、そして願わくばこのままこの重苦しい空気が変わってくれればいいという思いもあって素直に返事をしたのだけれど。
呼びとめた彼――赤城一雪が伊織を振り返り、そしてほんの少しだけ諦めたような顔つきをした事で、事態はそう甘くはない事を伊織は思い知った。

(……うぅ)

実のところ。
実のところ、伊織はこの状況の原因に思い当たる節がある。

赤城一雪は、伊織にとって初めて好きになった人で、初めての恋人だ。もっと小さな頃に近所のおにいさんに憧れたとか、小学生のころに隣の席だった男の子だとか、そういう「好き」とは全然違う。でも初めはよくわからなかった。赤城一雪とは学校も違ったし、そもそもあまり会う事もなかったから。
それを恋だと呼ぶには、伊織は何も知らなさ過ぎて自信がなかった。名前も連絡先も知らない違う学校の男の子を、そもそもどうやって好きになるのだろう。共有するものがあまりにも少ない時間をお互いに持っているのに、何をきっかけに「恋をする」事になるのだろう。

だけど、現実に伊織が好きな男の子はやっぱり彼だけなのだし、そしてそれは赤城一雪も(奇跡的にも)同じ事で、だからこうして二人は一緒にいるわけだけれど。

伊織は、彼に不満なんてない。あるはずがない。そりゃあ時々恥ずかしい事を平気で言ったり、ちょっと意地悪な事も平気で言ったり、丸きり女の子の事をわかっていない心ない一言を平気で言ったり、色々なくはないけれども、だからと言って気持ちが変わってしまうような事ではない。そういう彼も含めてやっぱり好きだと思う。
むしろ不満を持っているのは彼の方だと思う。そしてこの状況はその不満の表れだ。わかっている。

(困ったなぁ…)

いくつかのケーキを店員に淀みなく注文する彼を見て(しかもそのいくつかのケーキの中には伊織が一番に食べたいと思ったものがちゃんと入っている)、やっぱりかっこいいな、なんて思っている場合ではない。





「散らかってるけど、どうぞ」
「…お邪魔します」

遠慮しながらも好奇心を隠さずにきょろきょろと部屋を見回す伊織に、一雪は気付かれないようにため息を零す。

(…本当に、困った子だな)

買ってきたケーキの箱をテーブルに置いて、上着を脱ぐ。彼女の上着も一緒に受け取って、ハンガーにかけた。受け取った折に、ふわふわしたスカートから伸びる黒いタイツに包まれた脚に目がいってしまった事は黙っておく。誘ったのは自分だけれど、そして彼女の意に反する事は絶対にしないと誓っているけれども、やっぱり困るものは困る。

「紅茶でよかった?」
「うん。…あ!私、やるよ」
「いいよ、座ってて」
「でも…」
「…じゃあ、ケーキ出して。好きなの取っていいよ。お皿はそっち」

いそいそとお茶の準備を二人でするなんて、まるで同棲しているみたいだ。という言葉も、黙っておく。伝えたい事を、相手により正確に、そして強く印象付け理解してもらうには不用意な言葉は邪魔になるだけだ。そして、大切なのはタイミング。今のこの状況ならば、それは一雪に主導権があると見ていい。

時々、とても面倒だと思う。自分はなんだって、こんな面倒な手順を踏んでまで彼女と一緒にいるのか。伝えたい事?普段の自分ならバカバカしいと鼻で笑うような話だというのに。

「私、これ食べたかったんだ。好きなの」
「…そう?適当に選んだんだけど、良かった」
「うん、ありがとう」

ただそれだけのやり取り。ほんのり浮かぶ笑顔。
たったそれだけの事で、自分がどれだけ舞い上がってしまうのか、彼女はきっと知らない。
例えようのない幸福感、そして同時に存在する微かな不安(何に対してか、それは自分でもわからない)に簡単に心乱されてしまうことも、彼女はきっと知らない。

(だから、仕方ないんだ。これは)

バカバカしい、くだらない事だって、彼女が関わればそれは重要事項だ。だから、それに関して労を惜しむわけにはいかない。

「…さて、伊織さん。僕は君にいくつか言いたい事があります」
「は、はい」

紅茶も淹れて、ケーキもお皿に移して並べ、隣に座ったところで、一雪はそう切り出した。彼女の肩がびくりと揺れる。

「まず…誕生日プレゼント、ありがとう。凄く嬉しいよ。大切にする」

彼女がくれたのはマフラーだった。手編みでもない、よく見かけるありふれたものだ。自分に似合う色を探してくれたらしく、そして実際それは一雪が好きな色だったから素直に嬉しかった。手編みだって全然構わなかったのだけれど、「重いって思われちゃうかなって」という彼女の意見で今回は既製品だ。手編みは次回期待しよう、と密かに思う。重くて、首の骨が折れようかという想いだって僕は受けとめる自信があるよと、声を大にして叫びたいくらいだ。
一旦、言葉を切る。問題は、ここからだ。

「でも、僕はもう一つ君にお願いしていた事があると思うんだけど。マフラーは凄く嬉しかったけれど、僕はプレゼントよりも「そっち」がいいって言ったよね?」
「…う、ぅん」

途端、伊織の視線が困ったようにあちこちを彷徨う。女の子の困っている時の顔って何てかわいいんだろうと一雪は伊織で知った。…もちろん、彼女でなければ意味はない。

「…誕生日には、名前で呼んでくれるって言ったのに」
「…っ!」

顔を覗き込むようにして近付いて言えば、彼女は今度こそ真っ赤になって一雪から離れようとした。けれどもそれより早く一雪が伊織を捕まえてしまう。
だめだよ。逃がしたりなんてしない。

彼女は未だに一雪のことを「赤城くん」と呼ぶ。時々出会える「偶然」を心待ちにしていたあの頃から変わらず。
名字で呼ばれるからと言って、自分の彼女への想いが変わるわけでは断じてない。ただ「佐伯くん」「氷上くん」というように、一雪以外の男を呼ぶのとまるで変わらないように「赤城くん」と呼ばれる事に不安になるからだ。…もっと正直に「不満」だと言ってもいい。
幼稚なワガママであることは百も承知だ。それでも、一雪は伊織にとっては一番でなければ嫌だ。自分にとっての彼女がそうであるのと同じように。

「ねぇ、どうして呼んでくれないの。もしかして僕の名前が嫌い?」
「ち、違うよ!そんなんじゃ…。で、でも、男の子を名前でなんて呼んだ事ないから…は、恥ずかしくて」
「………」

それは、ちょっと良い事を聞いた。あぁ、本当に何てかわいいんだろう、この子は。

「…あともう一つ。君は迂闊だね。ぼんやりさんもいいところだ」
「え?」
「だって、そうだろう?ケーキを食べようって言われて、誘われるまま僕の下宿に上がり込んで。ここは実家じゃないんだよ。僕と二人きりになるんだよ。何があるかわからないじゃないか」
「で、でも…」

伊織は一瞬目を伏せて、それからまた一雪を見る。耳まで赤くなって、それでも一雪を信じきった目がまっすぐに見返してくる。
迂闊で、その上無防備で、けれども一雪は絶対に逆らえない。

「…か、かずゆきくんは、そんな事しないもん」

それは違うよと、一雪は心の中で反論した。好きだから、止められない衝動を自分は持っている。けれども、それは言えなかった。何より、伊織がそう言うなら自分はきっと何も出来やしない。
それよりも今は、彼女の声が呼ぶ自分の名前の響きの甘さに酔っていよう。抱きしめてしまったのは不可抗力だと思って許してもらおう。

「…もう一回呼んでくれる?」
「え!?ど、どうして?」
「どうしてっていうかさ、これからはずっとそうして呼ぶんだから今更出し惜しみはないだろ?」

しばらく間があって、一雪の背中にそっと細い腕が回された。
控えめに寄りそう体温に、けれど一雪は顔が緩むのを抑えられない。





「…お誕生日おめでとう。一雪くん」