お手をどうぞ、お姫様
ばりばりばり、と、乱暴な音が鼓膜を刺激する。志波勝己としては、それに対して何一つ対策を講じる事が出来ず、ただ困り果てるばかりだった。
…とはいえ、一応、ばりばりと音を立てて開けられてしまったスナック菓子の出資者は自分であるので、無理だと思いつつも抗議を試みたいところなのだが。
交換!と、無理やり手に押し込められたチョコレートバーを見やってから、志波は何度目かの溜息をついた。それにしたって、何故自分がこんな目に遭っているのだろう、不幸だ。
「おい海野…」
「何、志波くん」
「…いや、何も」
さっきからずっとこの調子だった。今日の彼女は妙に眼光鋭く、そして声には力がある。何やら禍々しいオーラさえ感じる。
事の始まりは、何だったろう。よく思い出せない。そもそも切っ掛けが何なのか、志波は知らない。
廊下でたまたま彼女が歩いているのを見て、何となく声を掛けた…掛けてしまったのだ、明らかにいつもとは雰囲気が違ったので。
普段の海野あかりは大抵機嫌よさそうに、別の言い方をすれば何も考えてなさそうな暢気な感じで歩いているのだが、その時ばかりは違った。まず、目付きが悪かったし、歩き方もいつもより力強かった気がする。
がさり、と白く細い手がスナック菓子の袋に突っ込まれる。彼女はいくつか掴み、それをそのまま口に放り込んだ。ざくざくと、彼女の口の中でスナックが砕かれる音がする。
その様子は、普段の彼女よりも明らかに乱雑で、どう考えてもいつもとは違う。…大体、何もないところを眉を顰めて睨みつけながら菓子を食べたりするだろうか、フツウじゃない。
何より、この妙な緊張感と威圧感。
(…耐えられない)
「…何があったんだ?」
こんなぎりぎりの緊張感、甲士園での決勝だってあるかどうかわからない。冗談じゃない、と志波はさっさと匙を投げた。そもそも俺はここで一体何をしているのだろう、という疑問はこの際置いておくとして。
「”何”が?」
一大決心して聞いた言葉を、海野あかりは嘲笑うかのように復唱する。そしてまた新たにスナックをばりばりと食べ始めた。
「何かあったからそんなに…荒れてるんだろ?おかしいぞ、お前」
「そんなことないよ、志波くんの気のせいだよ、きっと」
海野あかりは笑いながら言ったが、そこには一片も笑いの要素など感じられない。それが一層、いつにない不穏を感じさせた。…言い換えれば、彼女はとても不機嫌なのだ。
「何もないよ。あるわけないじゃない。別に佐伯くんがどこで何しようと私には関係ないし」
「……………そういう事か」
深く深く溜息をついて、志波は携帯電話を取り出した。
「…これでわかってもらえたかな?…ごめんね、じゃあ僕、もう行くから」
小煩い取り巻きの女子生徒達を何とかやり過ごし、一人になったところで佐伯瑛はほんの小さく溜息――本当は盛大にしてやりたいところだが他人の目がある――をついた。
彼女らの自分への執念は、恐るべきものだ。あの力を何か別方向に世の中に役立てないかと真面目に考えるくらい。
(今回は、中々メンドウだったな)
女というのは、何だってあんなに好きだの嫌いだのを気にするのだろう。あの子と仲が良いの?あの子とばっかり喋ってない?この間の日曜、あの子と一緒に歩いてなかった?…等々。
全く持ってうんざりだ。面倒臭いったらない。
(ああ、そうだよ。俺はあいつが好きなんだ。他の誰でもなく、あいつが)
思い切ってそう言ってやろうかと思う事が何度あったか。もちろん、言えるはずもないので実行はしない。そんな事したら何もかもがお終い、カタストロフだ。
しかも尚悪い事に、彼女だけがまるで呪いに掛かっているかのように佐伯の気持ちに無頓着なのだった。学校でもバイト先でも週末一緒に出掛けても、その笑顔にはまるで変化が無い。もちろん、変化が無い事で救われている事だって、無くは無いのだけれど。
どちらにしても、何かにつけ上手くいっていない。
ともかく、つい先程まで彼女との仲について、佐伯は必死に弁明させられていたのだった。彼女とは何でもない、ただのクラスメイトで、会話だってそれ程多くしたわけではない。だから彼女の事もほとんど知らない――、そのような事を言って。バカバカしい時間だった、と、佐伯はまた思い出してげんなりした。
(…あれ?そういや途中で見掛けた気がする)
遠くにちらりと見えた姿。遠くに見えても、彼女の姿を見間違える事は、まずない。コンタクトレンズで矯正された視界の中で、確かに彼女の姿を見た。
どこに行ったのだろう、と思った瞬間、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が合図のように震える。まるで、何かの知らせのように。
「もしもし?」
『佐伯か?』
「…志波?…くん?」
誰からなのか考えずに取ってしまったが、電話から聞こえてきた声に、佐伯は思わず声を上擦らせた。相手が誰なのかは知っている。…が、彼に番号を教えた憶えはない。
素の自分でいいのか、それとも普段通り優等生を演じるべきかで頭が混乱する。だが、志波にとっては、それはどうでもよさそうだった。
「何か用…かな?ていうか、お…いや、どうして僕の携帯」
『――屋上だ』
「は?」
低い声は聞き取りにくい。間違いでなければ、志波はこちらの質問は無視して「屋上」と言ったように聞こえた。佐伯は電話をあてていない方の耳を塞ぎながら、もう一度確認する。
「今、屋上って言ったのかな?屋上に何が……」
『来ればわかる。お前が引き取ってくれ、じゃあな』
「いや、ちょっ……だから話聞けって!」
もちろん、最後の悪態は通話が切れてからだ。何なんだよ、と、愚痴りながらも、とりあえずは屋上に向かう。もしかして、待ち伏せてボコられたりするんじゃないだろうな、と微かに不安になったが、志波がそんな事をするとも思えなかった。そもそも恨まれる程も話した憶えはない。電話番号だって、どこから聞いたのか結局聞けずじまいだ。
引き取ってくれ、と、彼は言った。その言葉が、妙に引っ掛かる。
(…何をだよ)
面倒そうな物だったら、絶対お断りだ。佐伯は決意を新たに屋上に向かった。
「何で電話なんてするの!?」
「一番手っ取り早い。…俺にはもう限界だ」
ひどい!と、あかりは志波に抗議した。さっきからペースを落とさないまま、むしゃむしゃとスナックを頬張りながら。
口の中は塩辛くて水が飲みたかった。油と塩気で胸がムカついてくる。それでも手を止めることは出来なかった。
だって、仕方がない。こんな風に腹を立てるのはお門違いもいいところだ。佐伯くんには事情がある。本当の事を言うわけにはいかない事情が。
あかりはそれに一枚噛んでいる。だから、仕方がない。
(…腹を立てる?)
がさごそと残り少なくなってきたスナック菓子を漁る手を、あかりは止めた。そうだ、腹を立てたんだ。私は今、佐伯くんに腹を立てている。
(わかっているのに)
いつもの取り巻きの女の子たちに、佐伯は懇切丁寧に説明していた。曰く「海野さんとはただのクラスメイトだよ」と。
その笑顔も言葉も偽物で、そうしなければいけない事情を、私は知っているはずなのに。
…胸が、ムカムカする。きっと、お菓子を食べすぎたせいだ。
「それじゃあ、俺は行くぞ」
「え…、えっ!待って、志波くん、待ってよ!私を置いて行くの!?」
行ってほしくない。あかりは心底そう思って彼を止めた。ここに居てほしい、というよりも、二人きりで佐伯と顔を合わせたくない。
だってきっと、私、今、酷い顔してる。
けれど志波勝己は、あかりの頭に手を置いただけだった。
「ちゃんとアイツに迎えに来てもらえ」
「ちょっ、ちょっとー!やだやだ!しーばーくーんーいーかーなーいーでー!」
今日はコレで勘弁しといてやる。志波はそう笑って、さっき無理やり渡したチョコレートバーを掲げてみせた。
「…おい、いつまでそうしてるつもりなんだ?」
引き取ってくれ、と言われたから来たというのに。
屋上に着き、しかし物陰に隠れて姿を現さず「来ないで」の一点張りの彼女に、佐伯は溜息をつく。何てムシンケイでワガママな奴なんだろう。けれど、そのムシンケイでワガママな人魚姫から、自分は目を離せないでいる。
「だって、佐伯くんが…」
「だから、俺が何だよ」
「ヤダ、やっぱり言わない。お父さんコワイ」
さっきから、このやり取りの繰り返しだ。手を焼くのはいつもだが(それこそ、色んな意味で)、こうまで手こずらされるのは珍しい。こほん、と、しかつめらしく咳払いをしてから、佐伯は壁の向こうにいる彼女に話しかけた。
「言いなさい。お父さん、怒んないから」
「……ホント?」
「本当だ。出てきたら一発チョップするけど」
「えええ!ひどいひどい!」
「あーもう!お前がいつまでも出てこないからだろ!」
「じゃあ帰ればいいじゃない!もうすぐ昼休み終わっちゃうよ!ユウトウセイの佐伯くんは教室に帰らないといけないでしょ!」
「だからってお前一人残して行けないだろ。わかってるなら今すぐ出て来い!」
そこまで言って、つい声が大きくなってしまった事に気付く。怒らないって言ったのに、彼女相手だとつい向きになってしまうのは悪い癖だ。
何となくバツの悪い気持ちになって黙っていると、壁の向こうから、もごもごと小さく声がした。
「…だって、私の事なんて知らないんでしょ」
「…え?」
「ただのクラスメイトなんだから、わざわざ迎えになんて来なくていいのに!佐伯くんのバカ!」
さっきまでのうんざりした時間が頭の中でフラッシュバックされる。海野さんはただのクラスメイトだよ、だから挨拶くらいしかしたことなくて――。
「…おまえ、さっきの」
「…わかってるよ!そう言わなきゃ、お店の事がバレちゃうんだから。…そんな事くらい、私だってわかってる。…だけど」
そこまでで、彼女の声は風に吹かれるようにして消える。それから、がさごそと何かの袋が鳴る音が聞こえた。
(ごめん)
真っ先に浮かんだのはそれだった。申し訳ないと思う。自分の嘘で、都合で、彼女を振り回してしまっている事に対して。
佐伯はゆるゆると手を口元に持っていく。不思議だった。申し訳ないと思っているのに、どうしてか口元がにやにやと緩んでしまう。
だって、これはつまり、そういう事じゃないか。
「…いいよ」
「何が?」
「もう、いいって。…っく、…いいから出て来いよ」
「…佐伯くん、ひょっとして笑ってる?」
(…ホント、ごめん)
こんな事で喜ぶだなんて、本当ダメだよな、俺。
抑えきれなかった笑い声を聞き咎めて、あかりが壁向こうで憤然としているのがわかる。
けれど、言うまでもなくそれすら愛おしい。
「何よー!佐伯くんのばーかばーか!もう知らない!」
「…ウルサイ。出てこないなら、こっちから行くぞ」
「ええ!だ、ダメだってば!ちょっと!」
「聞こえない。…ほら、手、出せ」
近付いて、声のする方へ手を伸ばす。本当の事は中々言えないけど、それでも、こうして彼女に手を差し伸べるのは自分でありたい。
願わくば、その役回りはこの先ずっと自分でありますように。
「…って、お前、何か手、べたべたしてる」
「あ、コレ食べてたから」
「何かガサガサ音がすると思ったら…!つか、そっちの手を出すなよ、ばか!」
「きゃああ、お父さんごめんなさいーー!チョップ痛いー!」
Thanks!! 50000Hit&2nd Anniversary!!
アサマさまからリクエスト、「デイジーにやきもちやかれて舞い上がっ瑛(在学中)話」、でした。そう、マイアガッテルとは、こういう表記でした(笑)
こちらも、志波くんを出演させてあげて下さいと頂きましたので、迷惑を掛けられる役で出演しております。
この話は、実は中々思い浮かばず…というのもデイジーに瑛がヤキモキするのは簡単に思いつくのですが、その逆というと中々…しかも瑛に良い思いをさせるとなると益々ハードルが…ウチの佐伯さんは「報われない」が標準装備なので(笑)
で、あれこれ悩んでいるうちに、何故か今回はタイトルの方が先に思い浮かんでしまって、そこからお話を捻りだした感じです。
デイジーはやっぱりデイジーなので、こんな風でも天然で佐伯さんを振り回していると思うのですが、時々はこうして佐伯さんを喜ばしてもいいのかなと。無自覚なやきもちに、生意気にも佐伯さんが余裕…という話にしたかった…じゃないこともなくはないです。(←
あ、このお話に出てくる志波くんは純度100%でお友達です。デイジーはイイヤツだけど、時々こうして振り回すのでメンドクサイな、くらいのモチベーションです。
こんなお話ですが、アサマさまに。
リクエストありがとうございました!
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