fairy of midsummer





夏休みも終わり頃。まだ午前中だというのに、グラウンドは夏の太陽の光を受けて熱が籠っている。まるで大きなフライパンの上で走りまわっているみたい、と、鈴原穂乃香は額の汗を拭う。
しゃがみこんでいた姿勢から立ち上がると、くらりと視界が揺らいだ。一瞬感じる浮遊感は、けれど、もう慣れっこだ。自分は元々体力のある方ではない。これでも、一年生で入部したばかりの頃に比べれば随分とマシになった。入ったばかりの頃は、しょっちゅう失敗があったし、まず部員と話をするのにも緊張して、余計に疲れていた。

(でも、あの頃は一ノ瀬先輩がいた)

自分よりも小さいのに、いつも細々と動いていた先輩。ほんわりとした笑顔を思い出して、言いようのない淋しさが胸に湧き上がる。
三年生達は、少し前にあった甲士園での試合を最後に引退した。新しい部長も決まり、羽学野球部は休みなく練習を再開している。

「鈴原先輩!」
「…あ、はい。なぁに?」

後輩マネージャーの声で、我に返る。ぼんやりしてちゃダメと自分を叱咤しながら、後輩の作業の確認をした。
それにしても暑い。陽射しが、背中を圧し付けてくるみたい。

「…うん、これでいいよ。ありがとう。暑いし、皆は少し休憩しててね」
「先輩の仕事、手伝いますよ!」
「うぅん、大丈夫だから。…他の子にもそう伝えておいて」

やんわりと後輩を押し留めて、穂乃香は笑顔を返す。まだ勝手がよくわかっていない一年生に、無理をさせたくなかった。かつて、自分がそう扱われていたように。
一年の頃、当時の三年生が引退するまで穂乃香は仕事らしい仕事をした記憶はない。一つ上の一ノ瀬さよにくっついて、その手伝いをしていたくらいだ。面倒な雑用であればあるほど、穂乃香はさせてもらえなかった。初めは信用されていないのだろうかと不安に思ったが、そうではないらしい。そういえば、マネージャーの作業だけでなく、部員たちのグラウンド整備にしても入りたての一年より三年がやっている気がする。何故ですかと訊けば、「年下より年上が仕事するのは当たり前でしょ」と言われ、その後に「穂乃香ちゃんも、上の学年になったらそうしてあげてね」と言われた。そういうものらしい。
その伝統を、穂乃香は忠実に守るつもりでいる。大好きな先輩たちのように、自分もなりたいといつも思っているから。

「…んしょ、っと」

いくつかの荷物を一人で黙々と運ぶ。ぎらぎらと太陽が照りつける中、遠くで部員の掛け声が聞こえた。ふと足を止めて、ボールを追いかけている部員の方をぼんやりと見つめる。体は火照って熱いのに、心の中は隙間風でも吹いているのだろうかと思うくらい、すうすうする。

(…さびしい)

今の野球部だって、穂乃香は不満はない。昔は苦手だった男子部員との関係も今のところ問題ないし、マネージャーの後輩の子たちとも仲良くやっている。またこのメンバーと、後は来春新しく入部してくるであろう仲間と一緒に甲士園を目指そうという気持ちに嘘はない。

「おい」
「は、はい…。え?志波先輩?」

黒いシャツにジーンズ姿の背の高い人影。それと、この低い声。
軽く挨拶を交わした後、彼はほんの一瞬穂乃香の顔を見やり、それから穂乃香の足元にある荷物を黙ったまま抱えた。

「えっ…い、いいです、先輩!私が…!」
「ついでだ、持っていく。…どっちだ?」

こうなると、穂乃香にはもうどうしようもない。どのみち、この先輩のやる事を、自分がどうこう言えるはずもないのだけれど。
初めは、威圧的に感じる雰囲気と、彼の入部前に色々やってしまった経緯もあって、穂乃香はひたすらに彼を避けていた時期があった。実は優しい人なのだと一ノ瀬さよに教わらなければ、こうして話など一生する事はなかっただろう。もちろん今は、そう怖い人でもないのだなというのをわかっている。意外と話もするし、ごくごくたまに笑ったりもする。だが、どうにもとっつきにくい雰囲気は否めない。この先輩と一ノ瀬さよの仲が良いのが、穂乃香は今もって不思議なくらいだった。

「すみません…ありがとうございます」
「気にするな」
「あ。でも、今日は一ノ瀬先輩は来ていませんよ?」

そう声を掛けると、志波は何故かばつの悪いような顔を穂乃香に向けた。

「…何でそんな事を、俺に」
「え?だって、志波先輩、いつも訊かれますよね?」

志波は、大会後もちょくちょく練習を見に来ている。そして来る度に「一ノ瀬、来てるか?」と、穂乃香に確認するのだが、どうやら本人は自覚がなかったらしい。

「俺、そんなによく聞いてたか?」
「はい、いつも」
「そうか…気をつけねぇとな」
「はぁ…」

普段とっつきにくい上に、たまにする会話はあまり噛み合う事が無い。やっぱり、よくわからない人だ。
でもそんな先輩でも、こうして顔を見れるのは穂乃香にとっては嬉しいことだ。今日はたまたま来ていないけれど、一ノ瀬さよも割と間を空けずに手伝いに来てくれる。他の先輩部員たちも、何だかんだ理由をつけて入れ替わりに遊びに来ていた。…ただ一人を除いては。

(…どうして)

思い出して、つきんと胸が痛くなる。どの先輩でも嬉しい。けれど、穂乃香が一番会いたい人は、まだ一度もここに来た事はない。
引退した時だって、あの人はいつも通りだった。他の皆と同じように、「ありがとう」と言ってくれた。
それでどうしてこんなに胸が痛くなるのか、わからない。

「鈴原」
「え?あ、はい…」

少し前を歩いていた志波に並ぼうと、顔を上げた途端、ぐるりと視界が回る。さっき感じた目眩どころじゃない。世界全部が混ぜ返されるような、そういう感じ。気持ち悪い。

「…っ」
「おい…っ?」

すぐ傍にいたはずの志波の声も、遠く聞こえた。自分が立っているのか、それともしゃがみ込んでしまったのか、それすらもわからない。とりあえず、足に力が入らないことだけは自覚できた。「大丈夫です」そう、言わなくちゃ。気持ちだけは冷静にそう思った。
けれど、結局言えたかどうか、穂乃香はわからないままだった。





藤枝は不機嫌だった。元々、自分の予想範囲を超える出来事に対して、彼は良い感情を抱けない性質を持っている。不測の事態に、自分自身が揺さぶられる気がして良い気がしないのだ。それに、こういう時は自分が追いついていないと、どう行動するべきか対処出来ない事がある。それが最も彼の忌むべき事態なのだが、今現在、まさにそうなのだった。
保健室は消毒液くさい空気が漂っていて、気が滅入る。それでも、少しでも腰を動かしただけでギシギシと音を立てる安っぽいパイプ椅子から、藤枝は立ち上がることはなかった。傍のベッドで目を瞑って横たわる後輩マネージャーの顔を見る。顔色は良いとは言えなかった。息だって、してるのかどうかわからないくらい静かで、このまま目を覚まさなかったら、何てバカバカしい考えすら頭に浮かぶ。

引退後、野球部の練習に来たのは今日が初めてだった。今日まで来れなかった理由については一先ず置いておくとして、甲士園後で親からの小遣いも弾んだことだし、それで差し入れを買い込んで来たのだ。それで来てみれば「マネージャーが倒れた」と言って右往左往している状況が既に始まっていた。マネージャーの後輩たちは泣かないだけマシだったがそれでもパニックで何も動けなかったし、男共に関してもさして変わらなかった。志波が居てくれただけまだ良かったが、あいつにしても「病院まで担ぐか」などと常識外れな事を言い始めたので、内心相当焦っていたに違いない。ああいう状況で、志波が的確な判断能力を発揮するのはどうやら野球と一ノ瀬さよの事だけらしい。こういう時、意外にてきぱきと動けるのは一ノ瀬なのだが、彼女は今日は来ていない。

まずは保健室を開けてもらい、使用許可を取り、でもって差し入れのアイスを新しい部長に押し付け、休憩しておけと言っておいた。たぶん貧血か、熱中症か、とにかくしばらく様子を見て、変わらなければ病院に連れて行く、と決めたのがついさっき。たまに来たと思ったらこれだ。学校に来てから数十分程の出来事を思い返し、藤枝は息を吐きだした。

(まぁ、でも。うまく二人になれたか)

他の部員には悪かったが、これは、元部長の権限を使ったと言われても反論できない。皆、彼女を心配している気持ちは同じなのに、「俺が付いてるから」とアイスを押し付け、人払いをしたようなものだ。もちろん、彼女の体調が最優先ではあるけれども。
今日まで来れなかったのは、彼女にどう話しかけていいか、決め兼ねていたからだ。けれども今日来たのは、これ以上はじっとしていられないという気持ちからだった。正直、焦っていたので、頭の中に気の利いた言葉など何一つない。
それでなくとも、この後輩マネージャーは目を引く容姿の持ち主だし、部員の中でもしょっちゅう話題に出てきていたし、野球部以外の男からだってそういう話があってもおかしくはないし、比べて自分は学年も違えば、部も引退して会う機会もほとんどなくなった。何も出来ない間に目の前で掻っ攫われるのだけは、避けたい。不味い事に、羽学野球部は部内恋愛において寛容なのだ。藤枝の前の代の部長の置き土産で、全く厄介なものを残してくれたもんだと苦虫を何匹噛み潰しても足りないくらいだが、現時点で自分がそうなのだから、今更それをやめさせる訳にもいかない。しかも別にもう一人、ルール関係なく無意識に公然とそれを態度に出す奴がいたので、どうにも出来なかったというのもある。

正直、彼女を好きなのだと自分が認めるのも中々葛藤があった。恋愛なんて面倒だと思っていたし、何より野球に対して真剣ではないかのような後ろめたさを感じた。部長という立場であったことも、余計にその気持ちを強くさせた一因だと思う。
関係ない、そう思い込んで考えないようにしても、結局は無駄だった。どうしたって気になるし、惹きつけられる。彼女が笑えば自分も嬉しくなるし、辛そうにしていれば何があったのかと心配になるし、何より彼女の心の内が気になって仕方なかった。今まで黙って悟られずにいたのは、よく我慢したと誉められることなのか、臆病だと言われることなのか、それはわからないが。

「…ん」

それまでぴくりとも動かなかった鈴原穂乃香が、かすかに身じろぎして目を覚ました。ゆっくりと瞼が開かれるのを見ると、どうしてか少し緊張する。

「気分、どうだ?」
「…せん、ぱい?」
「憶えてるか?お前、ぶっ倒れてたらしくてさ。志波にここまで運んでもらったんだけど」

ゆっくりと説明するのだが、相変わらず彼女は状況が把握できないままらしい。いつまでも呆けたように藤枝の顔を見るばかりだ。

「どうして…藤枝先輩…」
「え?…あぁ、さっき来たんだよ。鈴原は倒れてたから知らないだろうけど…って、お、おい!」

話している間に、彼女の大きな目からぼろぼろと涙が零れるのが見えた。こんな風に前触れなく泣かれて焦らない人間なんているはずがない。

「な、なんだ、どうしたよ。気分悪いか?それか、どっか痛いとか…」
「ち、ちが…それは、平気です。ごめんなさい…だって」
「だって?」
「だって…先輩が」
「え、俺?」

思わず聞き返すと、何でもないですと、すかさず返ってきたので、その話はそこで終わってしまった。自分が、何だっていうのだろう。気になる。
話が途切れてしまい、静まりかえった空気は居心地の良いものではなかった。目を覚ました穂乃香が、自分と居て緊張しているのがこっちにも伝わるからだ。確かに、普段からあまり話した事はなかったし、まして二人きりになんてなったこともないから仕方ないかもしれない。チワワとか、ヨークシャーテリアみたいな小型犬に、全身で警戒されているような気持ちだ。
とりあえず水分取っとけとドリンクのボトルを渡してやると、それは受け取ってくれたのでほっとする。

「…頑張るのは良い事だけど、倒れるほど無理するなよ。…もしかしたら、しっかりしなきゃって思ってたのかもしれねぇけど」

引退した時の、彼女の顔を思い出す。思い詰めたような顔をしていたのを、よく憶えている。…もちろん、そうでなくとも彼女の表情は大体くっきり憶えているものだが。

「鈴原は、鈴原のペースでやればいいんだからな」
「で、でも私、しっかりしないと、それでなくても役に立たないし…」
「そんなことないって」

俺にとっては、居てくれるだけで支えだったよ。そんな風に思えるようになったのが信じられないけれど。
練習が辛くて逃げ出したくなった時も、不安でどうしようもなくなった時も、鈴原が「がんばってください」って言ってくれるだけで、本当に驚くくらい頑張れた。

「…先輩」
「あ?」
「その…、今の、話」
「え?話?…って、あ!」

口に出すつもりはなかったのに、うっかり喋ってしまったらしい。ドリンクのボトルを抱えたままの穂乃香に、藤枝は慌てて言葉を付け足した。

「あー、その。いや、だから、役に立たないだなんて考えることないって…そういうこと」
「はい。…ありがとうございます。その話が本当なら、嬉しいです」

彼女はそう言って、ふわりと笑った。はにかんだような笑顔に、また心臓が煩く騒ぎだす。
一つ、深呼吸をした。…甲士園の試合でだって、こんな緊張しなかったかもしれない。

「…鈴原」
「はい」
「…ええっと」

まっすぐに見上げてくる視線に、思わず目を逸らしそうになって、だが、何とか耐える。こういう風に見られるのははっきり言って落ち付かないけれど、だけど、見ていて欲しいとも思う。自分がそうして彼女を見るのと同じように。
しっかりしろ、と自分を叱咤して、藤枝はもう一度息を吸いこんでから、言った。

「俺、鈴原のことが好きなんだ」
「…………」
「だから、良かったら、俺と付き合って下さい」





「そこどいてください!志波先輩っ」
「くそ、俺たちのバカ!まんまとアイスに釣られるだなんてっ…部長め…!もう部長じゃないけど!」
「…お前ら、ちょっと落ち付け」

保健室に倒れた鈴原を運んだ後、後輩たちの面倒を頼まれた(というか押し付けられた)志波は、興奮気味の後輩たちを宥めるのに苦心していた。彼らは、元部長のアイスの差し入れを喜びつつも、「全員部室周辺で休憩、待機」の指令には不満らしい。

「迂闊だった…!このタイミングで元部長が来て、しかも倒れたほのたんに付添うなどと…!」
「ああぁ、こうしている間にも俺たちのほのたんが…」
「女神が…!俺たちの女神が…!」

志波は知らなかったが、あの後輩マネージャーは部内で中々人気らしい。ついでに言えば、藤枝が部長権限をフルに使って他部員を牽制していたことも、実はバレていたらしい。

「やっと小煩い藤枝先輩が引退したと思ったのに…!」
「お茶にお誘い出来るチャンスキタコレ!と思っていたのに…!」
「ちょ、お前、抜け駆け!」
「うるせー!恋愛に裏切りは付き物なんだよ!」
「あーもー!こうしている間にも藤枝先輩の魔の手が…!」
「落ち付け!諦めるな!希望を捨てるな!先輩が再生不可能な程にこっぴどくフラれる可能性に掛けよう!」
「全力で気を送る!」
「俺も!負の思念よ、先輩に宿れ!」
「お願いだからフラれてください、藤枝先輩!!」



「平和だな…」





ぽつりと漏らした志波の声に、「ヒトゴトだと思って!」「一ノ瀬先輩がいるからって!」「志波先輩は、酷い先輩だ!」などと後輩たちの怒りの矛先が志波に変わるのは数秒後。












Thanks!! 50000Hit&2nd Anniversary!!






尚さまからリクエスト、「藤枝くんと穂乃香ちゃんのその後のお話」、でした。出来れば志波くんとさよを絡めて、とのお話だったのですが、さよすけは今回お休みになってしまいました、すみません。
藤枝くんと穂乃香ちゃんは、志波さよ話に出てくるオリジナルキャラです。藤枝は野球部の部長をしています。穂乃香ちゃんはさよの一年後輩マネです。
この藤枝は有難いことに、よくお言葉頂きます。元々、この二人がどうこうという考えは全然なかったのですが、気付いたらこういう事になっていました。
この後はたぶん、藤枝は何も無かったかのように「じゃーな」ってしれっとした顔で帰って、でも穂乃香ちゃんが何だかぽわわんとした感じになっているので、部員全員絶望の淵に叩き込まれるのでしょうね。
個人的には書いていて楽しかったです、羽学野球部は、皆仲良しだといいな!と思っています。それにしてもこの野球部は先々代の部長の影響が色濃いような気がしてなりませんが…(笑)

こんなお話ですが、尚さまに。
リクエストありがとうございました!