涙色プールサイド
本当は、プールは苦手だ。
そもそも泳ぐのは得意じゃないし、水着姿になるのも気が引ける。一緒に行く友達も…あんまりいなかったし。だから、当然男の子とプールになんて行ったことはない。
だけど、行ってみたい気持ちはあったし、何よりも志波くんに「行こう」と誘われれば、断る理由なんてない。すごく嬉しかった。…だって、男の子とプールに行くって、何かデートみたいだもん。
(違う違う!これは気晴らしなの!気分転換!)
更衣室で着替えて、鏡の前でおかしくないか点検しつつ、何度かふわふわと頭の中に浮かぶ考えを追い出そうと頭をふった。
そう、これは気分転換だ。志波くんと私の所属する羽学野球部は何と今年甲士園に出場することが決まり、それに向けて猛練習中なのだけど、今日は「息抜きに」と志波くんが声を掛けてくれたのだった。…だから、デートっていうわけじゃない。
「ふぁ…」
デートじゃないけど、私にとってはもちろん特別な事だったから、昨日だって全然眠れなかった。それまでも連日練習で走りまわっているから、眠れないはずはないんだけれど。
志波くんはいつもと変わらず優しかったし、というよりも、水着姿で上半身は何も着ていないから何だかドキドキしてしまって、他の事はあまりよく憶えていない。こんなにがっしりしていたのかなって、日焼けした体を見て思った。
「…一ノ瀬?」
「え?あ、はい!」
「大丈夫か?…何か、ぼーっとしてる」
心配そうにのぞきこまれた顔に、私は精いっぱい笑顔を作って「違うよ」と否定した。ぼーっとしているんじゃなく、ドキドキしているだけだ。もちろん、それは志波くんには内緒だけれど。
「どこ行く?色々あるな」
「そうだね…」
「…流れるプールくらいから行くか」
「うん。…でも何で?」
「いきなりスライダーとか、キツいだろ。さすがに」
順番に回ろう、と言ってくれた志波くんの顔は優しいけれど、ちょっといたずらっぽい顔をしてた。…私が、泳ぐの苦手ってわかってるんだろうな。
あぁ、だから。この時に正直に言えば良かったんだ。何だかさっきから足元がふらふらしてる。少しだけ待って、って言えば良かったんだ。
でも、言えなかった。そんな事言ったらきっと志波くんは気を悪くするだろうし、何より私だって志波くんとプールで遊びたかった。さっきから志波くんがかっこよくて優しくてドキドキしているから、何か体がおかしいのもそのせいだって、大したことないってそう思いたかったから。
独特のビニールみたいな匂いのするプールの水はそれでも冷たくて、けれど思っているよりは流れが強かった。背中をどんどん押されて、足元がすぐに覚束なくなる。水面より上の体は陽射しにじりじりと焼かれているのがわかった。顔は熱くて、でも手の先からどんどん冷たくなっていくのがわかる。
(…あ、何かダメな感じだ)
その時、ゆるりと足元を撫でられたように水が流れていって、そのままふわりと足が浮いた。沈んじゃう、と思った時にはたぶんもう水の中だった。実際どうなったのかは、よくわからない。
遠くで、誰かが何か叫ぶ声がした。
恐らく、軽い貧血だと思います。水も飲んでないし、大丈夫ですよ。…というのがプールの監視員の言葉だった。
(無理、させたかもしれねぇ)
ベッドに横たわり目を瞑る一ノ瀬は、さっきよりは大分顔色も戻ってきた。水の中から引き揚げた時は紙みたいに真っ白で、本当に焦ったんだ。
「異常はないと思いますけど…、もし心配なら目を覚ました後に病院に行ってくださいね」
「…ありがとうございます」
頭を下げ、一ノ瀬の眠るベッド脇の椅子に腰かける。額に張り付いている濡れた髪を、そっとよけてやった。
俺は浮かれていたのだ、と思う。気晴らしに、なんて言い訳めいた事を言ったが、結局はただ二人でプールに来たかっただけだし、そしてそれがあっさりと叶ったものだから浮かれていたのだ。 体調を気遣う余裕なんてなかった。『楽しみだね』って、はにかんだように笑ったのばかり思い出してしまって。
(…情けねぇ)
少し考えれば思い当たるはずだった。体力のバカの俺と、一ノ瀬では違うことくらい。例えマネージャー業だとしても、気を回す分、別の疲労があるかもしれない。
更に言えば、あっさりと二人で来ることが出来たと言うのは、実はそれほど大変なことでもない。一ノ瀬は、大抵俺の言う事は断らないからだ。俺じゃなくても、頼まれた事を断るというのを見たことがない。人が良いのもあるだろうが、たぶん別の理由だ。「断らない」のでなく「断れない」のだ。
そう考えると、自分の我儘を無理に通したみたいな気分になって複雑だ。俺は、無理やり付き合せるつもりなんてない。なら、あっさり断られていいのかというと、それもまた違うのだが。
「ん…」
「…一ノ瀬」
ゆるゆると彷徨う視線が、俺のとぶつかる。しばらくぼんやりとしていた目に、少しずつ意志が戻ってくるのが見えた。
「しば、くん。わたし…」
「貧血らしいって。気分、悪くないか?」
「貧血…?」
「疲れてたのかもな」
そう言うと、一ノ瀬ははっと表情を変えた。それから、がばりと跳ね起きて「違うの!」と言った。
「おいっ…無理するなよ」
「ちが…!ちょっと、疲れてたかもしれないけど…でも、無理してたとかじゃなくて…」
「けど、実際倒れたし。…無理して練習出られなくなったら俺が皆に怒られる」
「志波くんのせいじゃないよ。それに…別に私がいなくても他にもマネージャーの子はいるし…」
「…おい」
たぶん、一ノ瀬は何の気なしに言ったんだろう。けれど、俺はそれが気に食わなかった。何でもない風に「自分がいなくても」なんて、そんな風に言ってほしくなかったからだ。
「そういう言い方はやめろ。…お前の代わりなんていねぇだろ」
「それは…確かにお休みしちゃったら迷惑かけちゃうけど…」
「そういう問題じゃない」
伝えたい意味にはちっとも伝わらないことに、俺は苛立った。そのせいで最後の言葉は自分でも驚くほど鋭い響きになったし、もちろんそれは一ノ瀬にも伝わっていた。…つまりは全然、良くない方向に。見開かれた目が、それをはっきり表していた。困惑と、強張るような緊張感。
「…もういい。帰ろう」
(どうして)
一ノ瀬の着替えを待っている間中、苦い後悔が腹の中で渦巻いていた。どうして俺は、うまく伝えられないのだろう。どうしてあいつは、何も気付かないであんな風に言うのだろう。 俺は、一ノ瀬を大事に思っている。それは、個人的な事情はもちろんだが、部活の仲間としても、友達としてもだ。あいつは人には一生懸命になる癖に、自分のことは本当に雑に考えている。本当に意味がわからない表現だけれど、自分を他人のように扱う。まるで、どうでもいい他人みたいに。
あいつの代わりになれる奴なんていないし、皆それだけ信頼してるし、認めている。俺に関して言えば、あいつでなければダメだと言っていい。けれど、それは一ノ瀬には全くと言っていいほど伝わらない。それが、歯痒くて、苛つくのだ。そうして、さっきみたいに傷付ける。
「何やってんだ、俺」
目の前には、西日に晒された外が見える。夕方にはまだ早い。鈍く白い世界に、軽く目を細めた。
「…志波くん」
振り向くと、まるで叱られた子犬のようにぽつりと立っている一ノ瀬がいた。恐らく、ここに来るまでにあれこれ考えなくていい事を考えていたのだろうと思うと、切ないような気持ちになる。
勝手なもんだ。俺が勝手に腹を立てて当たったくせに、実際目の前で落ち込まれると、もう全面的に悪かったと謝りたい気持ちに駆られる。バカみたいだと笑われてもいい。そう思うのだから仕方ない。
「…待たせて、ごめんなさい」
「待ってないから、いい」
「そ、それと…せっかく、プールに来たのに、こんなことになっちゃって…」
「…俺が言いたかったのは、そんな事じゃない」
「うん。…でも、やっぱりごめんなさい」
見上げてくる目には、零れないギリギリのところで涙が湛えられている。怒らないで。そんな風に言われいる気がした。謝るから、だから怒って嫌いにならないで。
(…もう、いいから)
口には出さなかった。言った方が良かったのかもしれない。けれど、結局は言えなかった。俺も、やっぱり何か間違っているのかもしれない。
代わりに、ぽんと一ノ瀬の頭に手を置いた。こうすれば、彼女が安心するのを、俺はもう知っている。
「…また、来ればいいだろ」
「……うん」
「送ってく。…ほら、来い」
「……うん」
少なくとも、差しだした手を拒まれないことは、もう知っている。拒まれない手に、俺は離れないように少しだけ力を込める。
それはもう、俺の中では当たり前のことだ。
Thanks!! 50000Hit&2nd Anniversary!!
小早川さまからリクエスト、「志波さよでプールデートな話」でした。
つうか、お待たせしすぎだろおおおおおおおおおお!!しね!私なんかしんでしまえ!!もうホント土下座じゃ済まないよ!土下座して上に地面にめり込ませ、挙句セメントで流し込まれてはばたき湾だろ、これえええええええええ!!!
というわけで、お待たせして本当に申し訳ありませんでした…!!1年以上とかアホですみません…っ!!
そして内容がこれまた…色々指定下さったのにほとんど全無視っていう…おまけに切ないのか何なのかわからんし…あぁ志波が怒ってんのはクリアかな…それにしても何でこんな風になっちゃったんだろう…!
しかも志波くん久しぶりすぎて口調自信ないし、でもとりあえずドラマCD聞いてときめきだけは取り戻した…!ということで。
こんなお話ですが、小早川さまに。本当、ごめんなさい…。
リクエストありがとうございました!
|