虹の下、君を





「ねー海野さん。明後日って空いてる?ゴハン食べに行かない?」
「あ、ごめんね。その日はバイトが入ってて」
「今度の週末、一流大学のコと合コン!法学部なんだってー!」
「…ごめん。その日も用事があって。どうしても行かなきゃいけないんだ」
「そっかぁ、残念。じゃあ、また今度ね!」


残念、とは言葉ほどはたぶん思っていないだろう友人たちに、私は笑いながら手を振る。大学に入ってからの友人達は、けれど私にとってはむしろ有り難い存在だった。オシャレと恋の話が大好きな人たち。あの人達はいつも、その「遊ぶこと」に対する奇妙な程の熱心さで、少なくとも私に余計な事を考えさせはしない。

余計な事。必要ではない事。

大学に入ってから、私にとっての生活とはつまり必要な事をこなしていく日々だった。学校へ行く事、勉強する事、ごはんを食べる事、バイトをする事、眠る事、時には友人たちと「遊ぶ」事。
紅茶一杯淹れる事も、お風呂に入る時にアロマオイルを一滴バスタブに垂らす事も、誰も見やしないのにバカみたいに足の爪をピカピカに磨く事も。私が私であるために必要な事だ。これからも欠ける事はないし、欠かす事は出来ない。これら全てで私は満たされていて、そしてこれ以上、何も私は欲しがらない。望まない。

手を伸ばして得られるもので満足する事は、さほど難しくはなかった。元々そんなに強欲な性格だとも思わないし、諦めだって悪くないと思う。何か一つにこだわるという事も、良いか悪いかは別として無かった気がする。
不自由を感じた事もない。そしてこれからも不足ない日々を送り続ける。友達もいるし、大好きな紅茶の葉も、お気に入りのアロマオイルも、いつでも買いに行ける。

だから私は少しも不幸じゃないと、いつも言い聞かせる。それはもう習慣だった。いっそ強迫的とも言える習慣。

大学を出る頃には、すっかり日が傾いていた。鮮やか過ぎる夕焼けが目に痛い。鮮烈な赤い光は、いつでも私を憂鬱にさせる。それだけはどうしても、私に思い出させるからだ。
きれいなガラスの欠片に光を当てれば輝くみたいに、それは突如として輝きを取り戻す。大切だった日々、けれど、今となっては苦しい思い出。

夕焼けは、いつでもあの日を思い出させる。羽学の卒業式の帰り、灯台で、待っていてくれた彼。
もう2年は経つのに、私はあの日の事を、つい一時間程前の事みたいに何もかも思い出せる。たぶん、今まで生きてきた中で一番幸せだった瞬間。
そうして、何もかも思い出してしまって、それからそうして思い出す自分がいつも嫌になった。私は今、きっと救いようのないバカな女だ。想い出に縋る、バカな女。

ドラマや小説に出てくる滑稽な女に、私はなり果てたんだ。

志波くんは何も悪くない、と、それは今でも思っている。そんなひとじゃないと、今でも思っている。
少なくとも、あの灯台で言ってくれた言葉に、嘘はなかった。それだけは、信じている。
ただ、私は、私たちは知らなかっただけだ。始まりには終わりが来ること。そしてそれは、何時来てもおかしくないのだということ。
仕方がなかった。少しオトナになった私たちは、途端に色んなものに阻まれて動けなくなった。お酒もタバコも出来るようになった代わりに、気持ち一つで動ける自由は無くなった。
「会えなくても構わない」と、先に言ったのは私だった。甲士園で大活躍した彼は、マスコミや所属する野球部や大学なんかに引っ張りだこだった。私に会うための時間を作るのが彼の負担になっている事は一目瞭然だった。重荷にはなりたくなかった。
志波くんを好きな気持ちは変わらないからと、私が先にそう言ったのだ。
そこからは、連絡が途絶えがちになった。私からは連絡出来なくなった。後はもう、何もしなくても坂道を転がるようなお約束展開だ。

自然消滅。それは、本当にあっけない終わりだった。






週末。合コンに誘ってくれた友達に会いはしないかと、私はキョロキョロしながら講義の終わった教室を出た。たぶん、今頃は念入りに「準備」しているだろうから、授業には出ていないだろうけど。
携帯電話で時間を確かめながら、どうやって時間を潰そうかと考えた。「用事」なんて、本当は何もない。ごくたまに高校時代の友人たちと会う事はあるけれど、それ以外は何の用事もないのだ、本当は。合コンなんて、行きたいとは思わない。初めて会った男の子達と、一体何を話せばいいんだろう、想像もつかない。

大学の図書館はさすがに高校にあったものとは比べ物にならないほど立派で広かった。一流大学は図書室だけでも3館くらいあるらしい(友人の千代美ちゃんがそう言っていた)が、二流大学はこの旧館と、オーディオ設備が整っている新館との二つだ。新館の方は、割と利用者が多いので今日は近寄らない。元々、こっちの旧館の方が私のお気に入りだった。
今日は雨で、外が暗い。図書館の中も薄暗かった。せっかくの合コンなのになと、窓の外を見つめる。何故あるのかはわからないけれど、奥の方にある立派な長椅子に、私は寝そべった。それは、皮張りのソファみたいで、小柄な私ならすっかり足まで収まってしまう。初めて見た時、志波くんが見たらきっと喜ぶだろうなと思ったのを憶えてる。

高校生の頃、図書室にはよく行った。志波くんがいたからだった。志波くんはいつも寝ていた。そんなに眠ってて目が溶けないのかなと思うくらい寝ていた。
一度そう聞いたら「そんなわけないだろ」と笑われた。静かに、優しい笑顔で。
高いところにある本を取ってくれた。「お前もここにいろよ」とも言ってくれた。
低い、大人みたいな声。大きな、あったかい手。

そこまで考えて、私は自分の迂闊さに気付いた。こんな所、来るべきじゃなかった。やっぱり合コンに行けば良かった。今からでも友達に電話しようか、用事は無くなっちゃったからって。

(……そんなの無理だよ)

興味がないとか、そんなのじゃない。私は行きたくないんだ、合コンなんか。志波くん以外の男の子となんて、仲良くしたくないんだ。
やっぱり私はバカな女だ。だけど、もう遅かった。口唇を噛んで我慢しようとしても無理だった。一旦思い出すと、もう後はとめどもなく思い出せる。ついでに涙も止まらなかった。

(どうして)

会えなくても構わないなんて、言っちゃったんだろう。連絡する事をやめちゃったんだろう。
本当は会いたかった。会えなくても構わないなんて嘘だ。今でもまだこんなにも会いたい。もう終わってしまったのに。

本当は、気付いている。私には、志波くんがいないとダメなこと。でも、それはもう叶わないこと。
志波くん以外のものなんて本当はどうでもいい。だけど、そんなどうでもいいものを「必要」だと言い聞かせないと何もかも手放してしまうから。
手放しで泣いて、そして私は志波くんを過去にしてしまう。そんなの絶対に出来ない。出来るわけがない。

「…ぅ、えっ…し、ばく…」

誰もいない薄暗い図書館で、私は長椅子に寝そべったまま子供みたいに泣いた。誰もいなくて良かったけれど、誰かいたとしてもたぶん泣きやむ事は出来なかった。

私が泣いた時、志波くんはいつも困ったような顔をして(実際困っていたのかもしれない)、「頼むから泣くな」と言って頭を撫でてくれた。「泣き虫だな」と言って、泣きやむまでずっと。
遊園地のお化け屋敷の時も(怖すぎた)、映画館の時も(感動した)、ああそれから、灯台で告白してくれた後も。あの時は目の端にキスをしてくれた。
「もう泣かせない。でも、それでもお前が泣く時は傍にいるから」そう言ってくれたのに、なのに今、志波くんはどこにもいない。
困ったような笑顔も、大きな手の優しさも、キスされた時のくすぐったさも、全部思い出せるのに、志波くんはどこにもいない。どこにもいないしもう二度と会えない。
私とは、もう二度と会ってくれない。

雨音が、ずっと止まらずに聞こえていた。やけに大きく聞こえて、そのせいで余計に一人ぼっちに思えて、また泣けた。
館内は薄暗く湿っていた。世界中から見放されて、世界で一番不幸な気分になった。

もう忘れようと、思わなかったわけじゃない。けれどその一瞬後に、それは絶望的に無駄な行為なのだと思い知らされる。
忘れられるわけがない。こんなに好きなのに。こんなに簡単に泣いてしまうのに。こんなに独りが心細いのに。
志波くんに会えない毎日なんて、本当はいらない。志波くんに会えない世界なんて、本当は生きていたくない。
でも、生きていかなくちゃならないから、「必要」だから、どうしようもなく私はここにいる。そしてもしかしたら会えるかもしれないという望みを捨てられずにここにいる。

お願いだから迎えに来て、と、強く強く思った。叶うわけないのは知っている。今までだって、一度も叶わなかった。夢ですら会えなかった。
でも、今日だけは。お願いだから、夢でも幻でも何でもいい。もうこの先、夢と現実の区別がつかなくなっても、あと一日の命ですと死神に言われても。
お願いだから、会いに来て。でなきゃもう立ち上がれない。ここから一歩も、指の先一本だって動かせない。

そう思って、ただひたすらに泣いた。でもすごく矛盾しているけれど、私はたぶん数分後、いい加減泣きやんで長椅子から起き上がるだろう。
鏡で目元を確認して、何でもない風な顔をしてここを出て行って、そしてまた「元の生活」に戻るんだろう。志波くんとは無関係の生活へ。
泣きやんだら、私はここを出ていかなきゃならない。だから、私はいつまでもぐずぐずと泣いていた。まるで駄々っ子だ。どうにも出来ない事がわかっているのに、諦め悪く泣き続けるなんて。



「……海野」



誰かが、私を呼んだ。低い、大人みたいな声。
大股に、静かに近寄ってくる気配。足音さえ、寄り添うように優しいと思った。
背中から近づくその人に、私はゆっくりと長椅子に寝たまま振り返る。これは、夢?私は、本当に幻を見ているんだろうか。頭がヘンになっちゃったんだろうか。
大きな手が、私の頭をゆっくりと撫でた。その手は、微かに震えていたけれど、私は気付かなかった。何が起きているのか、さっぱりわからない。
涙も引っ込んで、呼吸すら忘れた。考えることなんか、出来なかった。
私の頭を撫でていた手が、ゆっくりと目の端の涙を拭う。それから、ほんの少しだけ、彼は笑った。困ったように、でも何故だか、彼も泣きそうな顔で。

「…泣き虫だな」
「しば、く…」
「やっと見つけた。……ずっと、探してた」

腕を伸ばせば、そのまま引き込まれて抱きしめられた、強く。
背中越しに「ごめん」と聞こえた。私は彼の腕の中で「あいたかった」と言った。
何から言えばいいだろう。そして、この後どうなるだろう。
でも、もうしばらくは何も考えないでいよう。このままでいたいから。





知らない間に外は雨が止んでいたらしい。夕陽のオレンジの光が、館内にも満ちていた。
ほんの少しだけ、私は笑う。大丈夫、もう苦しくない。













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さららさまからリクエスト。「佐伯or志波or赤城で 高校卒業後、再会する話」でした。
高校卒業後、事情があってつきあわなかった2人または別れた2人が、再会して、付き合うようになるお話、という事でしたので、色々考えた結果、志波くんの話になりました。瑛とで迷いつつも、志波に。
卒業後に事情があって付き合わない、というシチュを、これまた書いた事がなかったので、その点は楽しかったです。
補足しておきますと、志波くんの方も悩みつつもデイジーを探していた、とご想像ください。そしてとうとう大学まで乗り込んできた、というか何度か来たことはあったけど、やっと会えた、ということで。
それにしてもまたデイジーをこんなに泣かせて…何やってんだ志波!ていうか、私か!?

こんなお話ですが、リクエストしてくださったさららさまは、お持ち帰りなり何なりお好きなようになさってください。

リクエスト、ありがとうございました!!