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あの日の事が、まだ夢みたいに思える。



「…勝己、かーつーみっ!!起きなさい!もう時間よ!」
「…るさい」

予告無しに降ってくる大きな声と、カーテンを開けられて入ってくる無遠慮な光が目に痛い。思わず文句の一つも言いたくなるというものだ。
不機嫌な対応の息子に、母は心外だとでも言う風に眉をひそめる。

「アンタが起こせって言ったんじゃないの!さっさと起きてしゃんとしなさいよ!でないとあかりちゃんに笑われちゃうんだから!」
「なっ…」

何で知っているんだと母を見れば、彼女はしたり顔でニヤニヤと自分を見下ろす。

「日曜日に出掛けるったらそうでしょ?昨日からそわそわしてたじゃない」
「してねぇ」
「してた!隠したってお見通しなんだから!」
「…うるさい」

何とも言えず気恥ずかしい気持ちになって、着替えるから出て行けと母親を部屋から追い出す。「今度家にも連れてきてね〜!」と爽やかに言い残して母親は上機嫌に階下に降りて行った。
ため息一つ零して、志波は窓の外を見る。雲ひとつなくすっきりと晴れていて、晴れて良かったと思う。無意識でも、口元が綻ぶのは仕方なかった。

卒業式の日。志波は灯台で海野あかりに告白をした。たぶん今まで生きてきた中で一番緊張した日だ。そして、一番夢みたいな幸福を知った日、でもある。
彼女に「好きだ」と告げた。彼女も「私も好き」と返してくれた。もう絶対に離さないと抱きしめた。

あの時腕に感じた温もりも、目の端に見えた茜色の空も、風が少し冷たかったことも。今でもはっきりと思い出せる。もちろん、彼女のはにかんだ笑顔も。(たぶん自分も似たようなふやけた顔をしていたと思うが、それはこの際考えには入れないでおく)
けれどそれでも、まだどこかで信じられない部分があった。あれは、本当に実際にあった事だろうか。もしかしたら余りにも彼女に焦がれている為に見た都合の良い自分の夢じゃないかと思える。
もちろん、そんなバカげた事があるはずがない。確かに彼女に関して自分は色々と(それこそ言うに憚られるような事だって)想像をしてはいたけれども、夢と現実の区別くらいはつく。
だけど、そうなりたい、なってほしいと思っていた事が実際現実になり少し戸惑っているのも事実だった。嬉しい、けれど実感としてはよくわからない。
晴れて「片想い」が「両想い」となったわけだけれども、その違いが今だに良くわからない。

今日は、あの灯台で告白してから初めて会う。今日の約束は自分から取り付けたのだ。早く会いたかった。出来れば一時も離れたくないくらいの気持ちで、だけど、どこかでそう言い切ってしまうのもまだ怖くて結局いつもの癖で今日まで延ばしてしまった。

(…緊張する)

二人で出掛けるのなんて、もう何度もあったことなのに。
「早くごはん食べちゃいなさい!」と母親の声が聞こえたので、志波は慌てて部屋を出た。



3月、といってもまだ空気は冷たい。けれども公園の木々に芽吹く新しい緑を見て、多少寒くともやはり春なのだと実感する。
まだ待ち合わせには少し早い。けれど、志波はその場所に彼女の姿を見つけた。彼女はぼんやりと上を向いて空を眺めている。
それは、あまりにも今まで見てきた彼女と変わらなくて、やっぱり自分たちはまだ羽学に通う高校生なんじゃないかという気持ちになった。時間が逆戻りしたような錯覚。
近付くと、空を見ていた彼女はこちらに気付く。そして志波だと認識した瞬間に笑顔になる。その表情の移り変わりに志波の顔も緩む。

「志波くん、おはよう!」
「おはよう…、何見てた?」
「えっとね、今日もお天気になって良かったなぁって」
「口、開いてたぞ」
「ぅえっ!ほ、ほんと?」
「あぁ」

こういうやり取りも変わらない。だが変わらない事に志波は少し安心する。あまりにもいつも通りなので拍子抜けするくらいだ。

「…志波くん、どうかした?」
「何でもない。…じゃあ、行くか」
「うん。あのね、今日はお弁当作ってきたんだよ?」
「そりゃ楽しみだ」

お弁当やら何やらの入っている荷物を受け取り、もう片方の手は彼女の手を取る。相変わらず小さくて柔らかい。

「あ、あのっ、荷物、重いでしょ?私、持つよ?」
「重いから俺が持つんだろ。持ちたいんだから気にするな」
「あ、ありがとう…」
「ちなみに、こっちもこうしたかった」

繋いだ方の手を少し持ち上げてやれば、あかりの顔が赤くなる。手に力を込めない彼女の手が離れそうになって、志波は逃がしたくなくて握る力を少しだけ強くした。

「…前はお前からだったけどな」
「あ、あれは!あの時は…その、何ていうか」
「どうしようかと思った。いつも」

繋がる先から自分の気持ちが伝わってしまうのではないかと、そんな事を考えた。いっそそうして伝わればいいと思ったこともあったし、やっぱりそれは困ると思ったりもした。
触れられるのはもちろん嫌じゃなかったけれど、そこに戸惑いと恐れがあったのも事実だ。(それは男としてどうしようもない事情も含まれるわけだが)
少なくとも、今はそれについて戸惑う必要はない。(恐れはある程度必要だと思う。つまりはそういう事情の為に)
迷わず自分から手を伸ばせることが、こんなにも嬉しい。



あちこち話しながら歩いていると時間はあっという間だった。話の内容は大方高校での思い出話と次の進路先の大学での生活についてだ。合間合間に咲いている花がきれいとか、すれ違った散歩中の犬がかわいいとか(すれ違うまでには自分の体質の為時間がかかったが)、少し遠くを歩く親子連れを見て夫婦の間に手を繋がれて歩いている女の子がかわいいだとか(つまり、将来そういう家族になりたいという意味なのかと深読みしたりした)、そんな話をした。話は尽きない。

広くスペースのある芝生で、彼女の作ってきてくれたお弁当を広げる。そういえば以前も丁度春頃ここに一緒に来たなと、青々と広がる芝生を志波は眺めた。
あの時は、一緒に来ておきながらも睡魔に負けて彼女をほったらかして志波は居眠ったのだった。目を開けたら彼女も寝ていたので驚いた。今から思えば、あの頃からどこかで自分は彼女に気を許していた。誰とも関わりたくないと思っていた時でさえ。

「…そういえば高校入ったばっかりの頃にも、春に来たよね、ここ」
「ああ。…今、思い出してた」
「一緒に寝ちゃったんだよね」
「結果的にはな。まさか、寝てるとは思わなかったけど」
「だ、だって志波くん、気持ち良さそうに寝てたから…!」
「変なヤツだなって思った」
「ど、どうして?私、ヘン?」
「いや…俺も先に寝ちまったから言える立場じゃねぇな」

彼女が持参した熱いほうじ茶を飲みつつ、そんな話をする。弁当は美味しかった。「朝、早起きして作った」という事実がさらに美味しく感じさせたのかもしれない。
毎日食べたい、食べれたらいいのにと、ぼんやり考えていたのだが、ふと視線に気付く。あかりはじっと志波の顔を見ていた。

「…何だ?」
「志波くん、今日は眠くならないの?」
「…そう、だな。今は大丈夫だ」

確かに昨日から浮かれてはいたが(母親に見抜かれていたのは迂闊だった)、寝不足になるほどではない。食べたばかりで空腹を満たされた満足感はあるが、そのまま眠くなるというわけでもない。
どういうわけか、あかりは「そっか」と残念そうな顔をした。ほんの少しだったけれど。

「…俺が眠くなったほうがいいか?」
「え!?ううん、そうじゃないよ!おしゃべりするのは楽しいもん」
「でもちょっとがっかりしたろ、お前」
「そ、そんなこと…」

何故かもごもごと口籠ってあかりは俯く。耳まで赤くなってるのが見えた。一体何を恥ずかしがるのだろう。
まさか、寝顔が見たいとかそういう事だろうか。でもそれならむしろ俺のほうが見たいんだが、と言おうかどうしようか迷っているところに、彼女のほうが先に口を開いた。

「えっと…もしも、志波くんが眠くなったら、ね?」
「ああ」
「そしたら、寝ようと思ったら…ま、枕、いるでしょ?」
「まくら?」

そりゃ、あった方がいいに決まっているけれども。けれど、どこででも眠れるからと言ってさすがに枕までは持ち歩いてないぞと反論しかけたのだが。

「だ、だから…もし眠くなったら、その、ひ、膝、どうぞって…思って」
「…ひざ」

つまりそれは。
言われてあかりの、短いスカートから少し覗く、白くて滑らかそうな膝を見て…思わずほうじ茶を取り落としそうになった。
彼女が自分に何を提供しようとしてくれてるのかを理解して、不覚にも顔に血が上る。
それにしても突然のこの申し出は何なのだろう。彼女の無自覚天然は並はずれたもので今までも何度泣かされたかわからないが、それにしたって無意識で膝枕なんて言うほどじゃなかったはずだ。
思わぬ状況にどう言えばいいのかわからず、志波はあかりの顔を見つめるばかりだったが、あかりはそれを何か別の意味に取ったらしい。泣きそうな顔をして「だって」と言い募った。

「前は…見てただけだったけど、い、今は…私、志波くんのカノジョだもん」
「……」
「だ、だから!ひざ、まくら…してあげても、いいんだよ、ね?言っても、ヘンじゃないよね?」

自信無さげに呟く彼女を、瞬間、力任せに抱きしめたくなった。(しかしほうじ茶の入ったカップを持っているのでそれは出来ない)
「片想い」と「両想い」の違いがわからないなんて思っていたけれど、全くバカな話だった。全然違う。こんなにも、違う。
こんなにも好きだと思う。そしてそれはお互いに向き合っているのだとちゃんとわかる。
たぶん、お互いさまだ。あの灯台での出来事を夢みたいだと思っていて、どこかで少しだけ不安で。
手に持っていたほうじ茶を、志波は飲み干す。喉を流れるお茶はもう温かった。そして、思ったより喉が渇いていた事に気付く。

「…海野」

空になったカップを、適当な所に置いた。呼ばれた彼女が、こっちを見上げる。

「膝枕、してくれ」
「え…」
「眠くはないけど、してほしい。眠くなくたって…いいよな?」
「…う、うん!当たり前だよ、ど、どうぞ!」

照れて赤くなって、それでも嬉しそうに笑う彼女の頬に、志波は手を伸ばす。
膝枕もいいけれど、その前に。
何も知らずに開きかけた彼女の口唇は、柔らかくて甘かった。





予告ナシだけれど、たぶんいいはずだ。カレシ、なんだから。














Thanks!!1st anniversary!!





















まろさまからリクエスト。「志波主で付き合って初めてのデートなお話」と頂きました。
青〜〜〜ぃ春って感じで!と頂いたので青い春を目指しました。目指しましたが…青いかどうか自信はないです…!
「付き合って初めて」っていうのは灯台で告白してED迎えてあとの初デートって事で良かったのですよ、ね。
何せこいつらは付き合う前からいちゃいちゃと出掛けてやがるので(笑)ほんの一瞬迷いました。
でもちゃんと「付き合っている」状態でデートってのはまた感覚違うはずですよね、という事で。
初めはお互い意識しちゃって目を見るばっかりで手も繋げないような話にしようと思っていたのに、そこは狂犬、それでは済まされませんでした。
そして、頼まれもしないのに母を登場させてすみません…!だが直さない。(おまえ)

こんなお話ですがリクエスト頂きましたまろさまは、どうぞ煮るなり焼くなりお好きにしてやってください。
リクエスト、ありがとうございました!!