きみのことばのさきの世界を
「氷上くんっ、ひーかーみーくーん!!」
「君、廊下を走るのはやめたまえ」
手をぶんぶん振ってこちら側に走ってくる彼女を、僕は軽く注意する。
にこにこ嬉しそうに笑う彼女の顔が、何かに気が付いたかのように変わるも、嬉しそうなのは変わらない。彼女はいつだって楽しそうなのだ。
「あ、そうだ。コーソクイハンだった。ごめんね?」
「いや、それだけじゃなく…まぁ、いい。今後は気を付けたまえ」
もちろんそうなのだが、僕が言いたかったのはそんな風に走って、また転んだり階段から落ちたりするのが危険だから、ということだったのだが。もしも以前のような事故――僕と彼女の間に起こった、それこそ国家機密レベルで秘密にしなければならない出来事――が別の第3者と起こってしまったらそれこそ僕はどうすれば…いや、別にどうともしないのだが。
「はぁい。あ、そんな事より!氷上くん、来週の日曜日はあいてる?あいてるよね?ね?」
「ら、来週…?な、なんだどうしたんだ?何か、あるのかい?」
こんな風にして彼女は時々僕を誘う。行先は色々だが、こんなにも彼女が意気込んで予定を聞くのも珍しい。
彼女はある物を大切そうに僕に見せた。何だ、チケット?
「あのね、ライブがあるの!」
「らいぶ?」
「うん。それでね、氷上くん一緒に行きませんか?」
「……」
正直言うと、あまり行きたくはない。
そもそも僕は音楽にはあまり興味がない。しかしその「ライブ」というものが大体どういうものであるかは知識として知っている。
テレビでやっているレポートなんかで少し見た程度だったが、あの異様な雰囲気に僕の興味を引く要素はまるでない。むしろ遠慮願いたいものだ。
しかし。
僕は彼女の方を見る。期待に目を輝かせて僕を見る彼女。こんな風に見られて断ることなど出来るだろうか。少なくとも僕には無理だ。彼女にこうした目をされて、僕が断れた事は一度としてない。彼女個人にどうとかというわけでなく、一般的に自分以外の気持ちを思いやる心を持っている人間ならば断れないだろう、という話だ。うっかり階段から落ちた彼女と何がしかあったとか、その後も何だかんだと二人で出掛けたり一緒に下校したりだとか、そういった事は全く関係の無い話だ、これは。
「わかった。来週なら空いてるよ。待ち合わせはどこがいいかな?」
「わぁい、やったぁ!氷上くんとライブデート!」
「な…!き、君!そんな単語を大きな声で言うものじゃないぞ!」
「なんで?だって嬉しいんだもん!氷上くんとデートだもん!」
わかった、わかったから少し落ち着いてくれと僕は周りを見回しつつ必死で彼女を宥める。学校の廊下という、つまりは公共の場でデ、デートの話をするなどと誰かに知られでもしたら、校内で誰よりも率先して風紀と規律を重んじるべき立場である生徒会長としての僕の立つ瀬がないというものだ。
しかしそんな僕の事情というか「こだわり」を、彼女はまるで気にしない。そういう意味ではある意味大物なのだ、彼女は。
また連絡するね、と言って教室に戻る彼女はいつになく嬉しそうだった。
約束の日曜日。僕たちは駅前で待ち合わせた。
「…君、早いな!僕の時計が遅れているんだろうか」
「ううん、違うよ。楽しみで早く着いちゃったの」
「楽しみで」というところで、僕は何と言っていいかわからず「そうか」と相槌を打つだけになる。
常々思う事だが、彼女は何故僕を誘い、そしてそれを楽しみになどするのだろう。いや、僕は彼女と出掛ける事が嫌なわけではない。それだけは絶対にない。
だけれど、彼女から見ればきっと僕は取っつき難い、話せばついくどくどと説教めいた事ばかりを言ってしまう男だろうに。
ただ、そこの所を詳しく確かめた事はない。正直確かめてしまった後の事が僕には想像もつかないし、「彼女が誘ってくれる」という現状に僕は甘えていたかったというのも少なからずあった。
何故そう思えるのか。それは僕自身にも答えを見つけ出す事は出来ない。今は、まだ。
「氷上くん、ライブって今まで行ったことある?」
「いや、ないな」
行きたいと思ったこともない、という言葉は腹の中に留めておく。
彼女は「んふふ」と抑えられない、といった風に口元を緩めた。
「?何だい?」
「へへー。じゃあ今日は私が先生だね!」
「はぁ?」
「だって、氷上くんはいつも色々教えてくれるけど、今日は私が教えてあげるねってこと!」
満面の笑顔で、彼女はそう言った。
確かに、僕は彼女と出掛ける際には色々と彼女に話をする。
しかし、それは僕から積極的にというよりもむしろ彼女からの問いかけに応じるものだ。あれは何?これはどういうこと?博物館でも植物園でも、彼女は何かあれば何でも僕に質問する。そして僕はそのたびに質問の答えと、それに関する説明を彼女に話す。彼女は残念ながらそれらの答えを憶えていることはあまりないのだが、僕はあまり気にしなかった。気にしなくなった、という方が正しいかもしれない。
「うぅむ、確かにライブに関しては僕は君に教えてあげられるほどは知らないな」
「じゃあ、今日は帰る頃には氷上くんはライブマニアだよ!色々教えてあげるね!」
「いや、マニアになるのはどうだろうか」
ライブ会場に着いてからは、彼女は確かにどんどんと僕を引っ張っていった。(まぁこれはライブ会場でなくとも言えることだが)
その日のライブは彼女の好きな女性歌手のものらしい。席についてから「まず予習ね」と一枚のCDを取り出し、そのジャケットを見せてくれた。
僕にはよくわからないが、一般的に言って「美しい」と評価出来る人物が、そこには映り込んでいる。意志の強そうな目が印象的だった。そして、彼女がこうした女性アーティストに惹かれるとは意外だ、とも思う。
「…綺麗な人だね」
「ね!すっごくかわいいでしょ?」
「かわいい…というか、やっぱり綺麗な人だなと僕は思うのだが」
「それってかわいいと何か違うの?」
「だって、かわいいっていうのは…」
そこまで言い掛けて、僕は口を噤んだ。何だ、何を言おうとしているんだ、僕は。
(かわいいっていうのは、君みたいなのを言うんだろう?)
いつも笑顔で、僕を見つけて笑ってくれる。わかっているのかいないのかはともかく、僕の話を最後まで聞いてくれる。僕と一緒に出掛けるのを楽しみにしてくれる。
そういうのをかわいいって、いうんじゃないだろうか。少なくとも僕にとってはそういう意味だ。
ライブは思っていたよりも楽しめた。ガチャガチャと三半規管が潰れそうにうるさい音楽を聞かされるのではないかと懸念していたが、そこにある音楽はアコースティックで体に響いてくるものだった。確かに音は大きいが、そこに不快感はない。
彼女の好きだというあの綺麗な歌手の声も、伸びやかで美しかった。僕はまた新しく、遠ざけていた世界の片鱗を知る。それに気付かせてくれるのはいつも彼女だった。
曲の合間合間に、彼女の説明が入る。この曲はこんな歌詞で、とか、PV(というものの存在を僕はこの時初めて知った)ではここはこんなシーンだったとか。
驚くべきことに、彼女は全ての曲にそうした説明を僕にしてくれたのだった。学校の勉強以外の知識だと、僕は彼女には敵う気がしない。
「…それにしても驚いたな。本当に好きなんだね」
休憩中にはアイスを食べるんだよ、これ鉄則!という彼女の言葉に従って、僕らは買い込んだアイスを食べていた。僕はバニラ。彼女は「スイカソーダ味」という奇妙なのを選んでいた。 緑やら水色やら赤やら、何だか色んな薬品の塊のようにも見えるアイスが彼女の小さな口に含まれる。
「うん、デビューの時からずっと好きなんだ。でもね、ライブは私も初めてで。…今回羽ばたきであるっていうから…嬉しくって。それでその時は絶対氷上くんを誘おうって決めてたの」
「僕?どうして?」
「…初めてなら、氷上くんが一緒がいいもん」
アイスを齧りながら、彼女は真面目くさった顔をしてそう言って、僕を見る。それから、えへへと笑顔になった。
いつもとは違う、はにかむような、ほっとしたような笑顔。
「でも、嬉しい。だって本当に一緒に来れると思ってなかったから」
「それは…でも、来て良かったって思ってるよ。僕は一括りでこういう所である音楽は好きになれないと思っていたけれど、今日のは違った。君の説明のお陰だ」
「本当?良かったぁ…ふぁ、てつやしたかいあったなぁ…」
「…徹夜?」
思わず聞き返すと、しまったという顔で彼女は慌てて欠伸を引っ込めてアイスを齧る。
「ライブに来るのに何故君が徹夜する必要があるんだ?」
「…えーっと、復習してて…」
「復習?」
「あ、あのね、やっぱり説明するには自分もちゃんとわかってないとだめでしょ?だから曲を聴き返したり、PV見直したりとか色々してたら…」
「…僕のために?」
「でも、ちょっと張り切りすぎちゃった!それにしても氷上くんはスゴイなぁって思ったよ!私がいつ質問してもスラスラ答えられるんだもん!」
(…すごいのは君のほうだ)
だって、こんなに簡単に僕の心を動かすんだから。
勉強だってお世辞にも出来るとは言えないし、校則の一つも憶えてはいないだろう。
だけど彼女は僕の予想のつかない事をしては、僕を惹きつける。
アイスを食べ終えて、腕時計で時間を確かめる。もうそろそろ休憩も終わるところだ。
「さて、そろそろ時間だ。席に戻ろう」
「え?もうそんな時間?あと5分もあるから大丈夫だよ?」
「そんな事言って、後で慌てる事になっても知らないぞ?5分前行動は基本だ」
「はぁーい」
どうしようか、正直迷った。僕は少し浮かれているのかもしれない。初めてライブを体験して、そして先ほどの彼女の告白を聞いて。
理由はわからないが彼女は僕を惹きつける。そして僕は、それを少しは彼女に伝えたかったのかもしれない。いや、わからない、うまく言えない。
まぁ、悩んだところでどうせ彼女は気にしないだろう。そして僕も何も言わない。今は、まだ。
アイスを食べた後、手鏡で口元を確かめる彼女に、僕は手を差し出した。
気付いた彼女は、一瞬呆けたように僕を見る。
「行こう。後半も楽しみにしている。その、君の説明もね」
「……うん!」
今日一番の笑顔で彼女は頷き、僕の手の上に彼女のそれを重ねる。
席に着いた後も、その手は繋がれたままだった。
Thanks!!1st anniversary!!
ゆうきさまからリクエスト。「学力パラ低いデイジーで氷上主なお話」と頂きました。
オベンキョのできないデイジーと映画かライブかデートに行って、それに詳しくない氷上くんがいつもと逆にデイジーにいろいろ教えてもらって〜という風に細かく設定頂いたので、それにそって考えたって感じで楽しかったです。
それにしても妙に氷上がデイジーに対して疑心暗鬼気味なのは何故なのか(笑)
私は「氷上くんのデイジーは学力パラ低いと萌える」などというゲーム攻略的には難易度Fみたいなありえない妄想をしていて
以前ゆうきさんにも押し付けがましくリクエストさせて頂いた事があるのですが、今回はそのリターンリクっていうか「お前も書け」という指令でした(笑)
いや、もちろん学力パラ高いデイジーだって好きなんですが!
うちの氷上対応デイジーは何だかこんな感じで固まってきてます。
こんなお話ですがリクエスト頂きましたゆうきさまは、どうぞ煮るなり焼くなりお好きにしてやってください。
リクエスト、ありがとうございました!!
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