さようなら、泣き虫な僕。
昔、もっとずっとガキだった頃、試合に負けた日は家に荷物を置くなり外に飛び出した。
誰とも会いたくなかった。家族と話なんてしたら、泣いてしまうと思った。
実際に、俺は泣いた。走りながら、疲れきって、体中くたくたなのに、それでも走って。肺も喉も痛くて、鉄の味が口の中でして。
それでも胸が震えるみたいな感じが止まらなくて苦しくて、目の前が熱くなるのも止められないまま、歯を食いしばって泣いた。
頭に浮かんでくるのは、怒りにも似た後悔ばかりだった。あの時もっと早く走れれば、打つ事が出来れば、仲間のミスに苛々したりせずに落ち着いていれば。
延々と、終わりのない映画のように(実際には終わってしまった結末のある出来事だけれど)ひどく鮮明に、そしてゆっくりと繰り返される。
一人ぼっちの公園。試合の後だからもう夕暮れ時で、薄暗かった。あの時間帯は、どうして夏でもあんなつめたい空気がたちこめるのだろう。
当たり前だが、誰も見向きもしない。自分がとても小さくて、弱い奴なんだと自覚させられる苦い時間。青みがかった橙色の空は、いつも以上に高かった。
もっと強く、もっと上手く。もう二度とこんな思いはしたくない。そう思って目の端に残る涙を乱暴に擦りながら、空を見上げた。
大袈裟だと笑われるかもしれないが、俺にとっては野球は息をする事と同じくらいに自然にあることで、そしてその為ならどんな事も我慢できた。
いや、「我慢」という言葉はあまり適切でないかもしれない。例え野球の為に何かを犠牲にしていたとしても、それは俺にとってはやはり当然の事で辛いと感じた事はなかったから。
その野球をやめなくてはいけなくなった瞬間を、実のところ俺は良く憶えていないのだった。「野球をやめる」という事が、いまいちよく理解出来なかったのかもしれない。自分の人生の中でそれだけは絶対にあり得ないと高をくくっていたからかもしれない。
ただ漠然と、もうバットにもボールにも触れられないのだと、ぼんやりと思ったのだけは憶えている。
それからは羽を切られた鳥みたいなものだ。足掻くことすら忘れて、無意味な、それでも生きていかなければいかない時間をただ過ごしていた。
あれから、しばらく経った。
俺はもう一度、野球を取り戻した。ボールを投げて、バットを振る。チームメイトと野球の話をする。「あいつ」に出会って、俺を取り巻いていた世界は全く変わった。
安心感と懐かしさのある、けれども全く別の新しい世界に、あいつは俺を引きこんだ。拒む暇など無かったし、何よりも俺はその手を欲した。
変わりたかった。そして、離れたくないと思った。
野球から離れていたのは時間数にしてみれば2年ほどだ。だがそのたった2年間で俺がどれほどのものを失ったかと言えば、それははかり知れない。野球と、野球に関わる全てなのだから、それはつまり俺の生きる意味や、目的や、もっと現実的な時間の過ごし方といった、人生の大半だ。
死んでいたと言っても、言いすぎじゃない。野球が全てだった俺は、どうやって時間を過ごせばいいのかしばらくは全く、見当もつかなかった。意識しなければうまく呼吸ができないような、そんな息苦しい毎日。これ以上失う事もなく、しかし何も得る事のない毎日。
もう一度野球が出来るだけで幸せだというのは、本当の気持ちだ。だが、現実問題として野球から離れていたこの数年間は、俺にとっては大きな問題になっているのもまた事実だった。
今のこの時期、試合にも出ず、まともな練習すら出来なかったというのは致命的だ。限りなく悲観的な状況を想像して間違いない。
だが、俺はもう二度と野球はやめない。そして、夢も諦めたくなかった。何よりも今のチームの足手まといにはなりたくない。まずはそこからだ。
体は、まるで別人のようだった。特別に弱ったわけじゃない。ただ、感覚的には恐ろしく鈍くなっていて、恐怖感すら覚えた。
体の中の神経がどこかでぶち切れているんじゃないかと思う。目の悪いやつが眼鏡をかけずに外を歩いたらこういう感じなのかもしれない。
何もかもが手探りにしかわからなかった。自分の体なのに、少しも思うようには動かない。
夏は来る。時間が無い。苛々する。
こんな状態で、俺は試合に出られるのか。いや、以前のように野球をする事すら危ういんじゃないのか。やり直せると思うのはただの思い込みに過ぎなくて、本当はもう「手遅れ」なんじゃないのか。
出来たはずなのに出来ない。わかったはずなのに、わからない。
野球でこんな思いをしたのは初めてだった。出来ない事は練習すれば出来るようになると思っていた。そうして、どんどん上手くなっていくのだと、思っていた。
「…志波くん」
小さな声が、遠慮がちに背中にかかる。…ここに来た時に、誰かに声を掛けられたのは初めてかもしれない。
(…そうやって、いつも)
そうやって、お前は簡単に辿り着く。俺を見つけて、手を伸ばす。
とても静かで、耳が痛いほどだった。やっぱり、夕方の風はどこか冷たい。
ゆっくりと振り返ると、そこには見慣れた、けれどもいつもどこか心臓がざわつく姿が視界に入った。特に、今みたいに二人しかいない時は。
いつものような能天気な笑顔は、さすがに見えなかった。胸元に、ぎゅっと一本のタオルを握り締めている。
「ここ、どうしてわかったんだ?」
「…え、と。何となく」
歯切れの悪い答え方から嘘だとすぐに悟った。大方、母親にでも聞いたのだろう。
何しに来た、という言葉は呑み込んだ。何をしに。そんなのわかっている。俺もそう器用なほうじゃないが、コイツの嘘のつけなさは時々残酷なほどだ。
(これくらいの事で心配かけるなんて、情けねぇ)
俺が心配なのだと全身でそう言っているアイツを見て、口元だけで苦く笑う。
情けない。そう思いながら、俺は安心している。焦れる心が、緩んでいく。
ところどころ錆びついたベンチに座り込む俺に、アイツはそろそろと近づいた。ゆっくりと、寄り添うみたいに。
手負いの獣に、手を差し伸べるみたいに。
「あの…志波くん、タオル忘れていったから。それで…返さないと、きっと困るだろうなって」
「そうか」
「…うん」
タオルを持った手が、こちらに伸びる。小さな白い手。
護りたいと思うのに、いつも俺を護ってくれる。誰よりも大切で、愛おしい手。
「っ…志波、くん?」
「…いまだけ」
泣く時はいつも一人だった。負けて悔しかった時も、野球から離れたあの日も。
でも、もうそれも終わりだ。今日で最後。こんな情けない姿、もう絶対見せない。
だから、今、すこしだけ。
ふわりと、頭の上にあたたかな重みが乗る。乗るというよりも、ほとんどただ触れるだけの重さだったけれども。
控え目なその動きが、何もかもをほどいて、溶かしていく気がした。
「…あのね、一緒にいるからね」
「……」
「いつも、私、一緒にいるから」
「…あぁ」
「志波くんは、ひとりじゃないよ」
ひとりじゃない。
微かに強まる腕の力を感じて、俺は目を閉じた。
Thanks!!1st anniversary!!
にとりさまからリクエスト。「志波主で志波くんのブランク絡みのお話」と頂きました。
「スランプ?不調?そんな言葉は俺の辞書にはねぇんだぜ Yeah-ha !」(誰だよ)というのもカッコイイですが、
やはりそれなりに苦労もあったのでは…という事で悩める志波さんでした。
「志波主」と頂いていたのに、うっかりデイジーの事を忘れていて、ガチに志波さんの独白SSみたいになりかけたのですが、
寸でのところで思い出し、何とか志波主にこぎつけたという…。あっぶね!つか、デイジーに謝れ、オレ!!
弱いところを見せられるのは、デイジーにだけだと良い、という私の妄想も詰め込みましてこのようになりました。
…でも今、気付いたんですが「頭なでなでスチル」は佐伯王子のモノでした、よね…!し、しまった…っ!
こんなお話ですがリクエスト頂きましたにとりさまは、どうぞ煮るなり焼くなりお好きにしてやってください。
リクエスト、ありがとうございました!!
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